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20話 みじめな再会
20話 みじめな再会
オルタンシアが会場へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
それは、大げさなざわめきではない。
王都の社交界はもっと巧妙だ。楽団の音は途切れず、笑みも会話も表向きはそのまま続く。けれど視線の流れだけが、一斉にこちらへ向く。
来た。
その無言の反応が、会場のあちこちから伝わってきた。
オルタンシアは一歩だけ呼吸を整える。
怖くないわけではない。
むしろ、かなり緊張している。
だが今夜の彼女は、あの祝賀会の夜のように一人ではない。ルヴェリエ侯爵家の令嬢として戻り、しかも隣にはゼノン・アルケディウスがいる。
それだけで、同じ会場でも立ち方がまるで違った。
「こちらをご覧になっておりますね」
オディールが後ろからごく小さく囁く。
オルタンシアは口元だけで微笑んだ。
「見られるのはわかっていたでしょう」
「ええ。でも、見る側が思っていたよりずっと見返されております」
その言い方が少し可笑しくて、緊張の中でも肩の力がわずかに抜ける。
会場の中央へ進むあいだ、何人かの貴族が順に挨拶へ現れた。
表向きの言葉は穏やかだ。
「お久しゅうございます、オルタンシア様」 「お元気そうで何よりですわ」 「アルケディウス公爵閣下もご一緒とは、たいそう心強いことで」
だがその一つ一つの裏に、探る色がある。
どれほど傷ついているのか。
本当に立ち直っているのか。
公爵との関係はどこまで進んでいるのか。
王太子との件をどう受け止めているのか。
オルタンシアはそれを感じ取りながらも、以前ほど疲弊しなかった。
必要以上に取り繕わなくてもよいからだ。
聞かれていないことを自分から語る必要はない。
曖昧に微笑み、礼を尽くし、そこから先へは踏み込ませない。
その線引きが、以前より少しだけ自然にできる。
やがて一通りの挨拶が落ち着いた頃、オルタンシアはふと会場の奥に視線を感じた。
見なくてもわかるような、ひどく落ち着かない視線だった。
顔を向ける。
そこにいたのは、レオニード第一王太子だった。
一瞬だけ、胸の奥がひやりとした。
どれだけ覚悟していても、やはり実際に姿を見ると違う。
金髪も、整った顔立ちも、王族らしい華やかさも変わらない。けれど以前よりどこか疲れて見える。頬が少しこけたわけではないのに、表情の端に余裕がないのだ。
そして何より、彼はオルタンシアを見ていた。
驚きと、動揺と、理解の遅れた何かを剥き出しにした目で。
まるで、こんなふうに戻ってくるとは思っていなかったかのように。
当然だろう、とオルタンシアは心の中で思う。
彼の想像の中の自分は、たぶんまだ“傷ついて引きこもっている元婚約者”なのだ。
あの夜の続きを、こちらがずっと引きずっていると信じていたのかもしれない。
だが現実は違う。
今夜の自分は、彼に呼び戻されたのではなく、自分で来ると決めてここにいる。
その差は大きかった。
「……来るぞ」
隣でゼノンが低く言った。
オルタンシアは小さくうなずく。
レオニードは迷ったように立ち尽くしていたが、やがて意を決したようにこちらへ歩いてきた。
その足取りには、以前のような王太子としての余裕がない。かといって完全に狼狽しているわけでもなく、どう接すればよいかを決めきれないまま近づいてくるような不格好さがあった。
会場の空気がまた、静かにこちらへ寄る。
誰もがこの再会に興味を持っている。
当然だ。
婚約破棄の当事者が、こうして同じ場へ戻ってきたのだから。
レオニードはオルタンシアの前で立ち止まった。
数歩離れた位置にゼノンがいる。
オディールもすぐ後ろで気配を消している。
王太子は一瞬だけ、何から言うべきか迷った顔をした。
結局、口から出たのはひどく凡庸な言葉だった。
「……来ていたのか」
その一言に、オルタンシアは危うく笑いそうになった。
来ていたのか。
まるで偶然見かけた相手に言うような言葉だ。
「招待をいただいておりましたので」
オルタンシアは礼を失さぬ声で答える。
それだけで十分だったはずなのに、レオニードは引き下がらない。
むしろ、その整いすぎた返答に居心地を悪くしたようだった。
「体調は、その……もう平気なのか」
体調。
そこへ来るのか、とオルタンシアは思う。
自分が今ここへ立っていること自体が答えではないのか。
それとも彼の中では、まだ自分は“あの夜で壊れたまま”の存在なのだろうか。
「ええ、おかげさまで」
あくまで穏やかに返すと、レオニードはますます落ち着かなくなる。
会場の光の下で見る彼は、王太子でありながらひどく不安定だった。
そしてその不安定さに、オルタンシアの胸は以前ほど揺れない。
むしろ、ああやはりこの人はこういう人だったのだと、妙に静かに見えてしまう。
「……オルタンシア」
レオニードは少し声を落とした。
明らかに、私的な話へ持ち込みたい声だった。
「少し、話せないか」
オルタンシアは一拍だけ置いた。
会場の中だ。
完全に断れば、それはそれで人目を集める。
だが応じすぎても、向こうへ余地を与える。
その一瞬の間に、ゼノンがほんのわずかに視線を寄越した。
急かさない、だが一人で背負わせない、あの目だ。
オルタンシアはそこで決めた。
「この場で差し支えないお話でしたら」
それは柔らかい拒絶だった。
二人きりにはならない。
隠れた話にはしない。
そういう意思表示でもある。
レオニードの表情がわずかに歪む。
だが今さら、それを拒むほどの強引さも持てないらしい。
「……手紙を送った」
「拝見いたしました」
「あれは」
そこで彼は言葉に詰まる。
謝るのかと思えば、そうではない。言い訳を選んでいる顔だ。
やがて出てきたのは、予想通りのものだった。
「誤解もあったと思っている」
オルタンシアは静かに彼を見る。
誤解。
またその言葉だ。
何も認めず、何も具体的にしない便利な言い換え。
「そうですか」
それだけを返すと、レオニードは少し苛立ったように眉を寄せた。
「君は……少し、変わったな」
変わった。
その評価は、ある意味では正しい。
以前のオルタンシアなら、もっと言葉を選び、相手に逃げ道を残し、場を荒立てぬよう返しただろう。
今は違う。
わざわざ向こうの都合に合わせて柔らかくする気がない。
「そう見えるのでしたら、そうなのかもしれません」
「昔の君なら、もっと……」
レオニードはそこまで言って、言葉を切った。
もっと、何だというのだろう。
従順だった?
聞き分けがよかった?
自分の都合に合わせてくれた?
口にしようとして、さすがに飲み込んだらしい。
その一瞬のためらいが、かえってすべてを物語っていた。
「昔の私は、殿下のお望みに沿うことを優先しておりましたから」
オルタンシアは自分でも驚くほど静かにそう言った。
レオニードの顔が強張る。
会場のざわめきは遠い。
だが周囲の視線は確実にこちらへ集まっている。
それでも今の言葉は、聞かれて困るものではないとオルタンシアは思った。
事実だからだ。
レオニードは声を低くした。
「私は、そこまでひどい男だったつもりはない」
その一言に、オルタンシアの胸の中で何かがひどく冷たく整った。
ああ、この人は本当にそこなのだ、と。
ひどい男だったつもりはない。
つもり。
結局、この人が守りたいのは最後まで自分の“つもり”なのだ。
何をしたかではなく、どういうつもりだったか。
相手がどう傷ついたかではなく、自分はそこまで悪人ではないという自己像。
それがあまりにもはっきり見えた瞬間、オルタンシアの中に残っていた迷いのようなものが完全に消えた。
「殿下」
呼びかける声は、以前の婚約者らしい柔らかさを少しも含まなかった。
ただ礼儀だけがある。
「私も、殿下が最初から悪意だけで動いていらしたとは思っておりません」
レオニードの目がわずかに開く。
責められると身構えていたところへ、違う言葉がきたからだろう。
けれど、オルタンシアは続ける。
「ですが、悪意がなければ許されることばかりではありません」
会場の光が、ひどく白く感じる。
「殿下はあの夜、私の言葉を聞かず、人前で婚約を破棄し、中傷を止めず、その後も謝罪や訂正より先に“戻って整えろ”と仰いました」
レオニードの喉がわずかに動く。
オルタンシアは止まらなかった。
「それがどれほど私を軽んじた振る舞いであったかは、殿下のつもりではなく、私が決めることです」
言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。
だが声は揺れなかった。
オディールが後ろで、気配だけで息を止めたのがわかる。
ゼノンは何も言わない。
ただ、動かずにそこにいる。
それだけで十分だった。
レオニードは完全に言葉を失っていた。
これまでオルタンシアが、ここまでまっすぐに自分へ言葉を返したことはなかったのだろう。
あったとしても、彼は本気で聞いてこなかったのだ。
だから今、ようやく届いてしまっている。
「私は、もう殿下の婚約者ではございません」
オルタンシアは最後にそう告げた。
「ですから、あの頃のように殿下の都合で動くこともございません」
それは宣言だった。
感情的な絶縁ではない。
ただ、関係の終わりを正確に言葉にしただけの。
けれど、その正確さこそが一番鋭い。
レオニードはしばらく立ち尽くしていたが、やがてようやく掠れたように言った。
「……そうか」
その返答は、情けないほど薄かった。
怒鳴ることもできず、強く引き留めることもできず、ただ言葉を失った男の声だった。
オルタンシアは一礼した。
それ以上続ける必要はない。
必要以上の残酷さを足すつもりもなかった。
もう十分に、終わっているからだ。
彼女が身を引くと、ゼノンがごく自然に一歩そばへ寄った。
庇うようにではない。
だが、これ以上続けさせないという位置だ。
それを見たレオニードの目に、一瞬だけ別の感情が走った。
嫉妬か、後悔か、あるいはその両方か。
けれどそれを読み取ろうとする気には、オルタンシアはもうなれなかった。
彼女はただ、静かに向きを変える。
会場の空気が、今度は別の意味でざわめきを含み始めているのがわかった。
聞こえていた者は少なくないだろう。
だが構わない。
今のやり取りで、自分が取り乱したわけではない。
ただ、筋を通しただけだ。
それどころか不思議なくらい、胸の中は静かだった。
怖くて、苦しくて、あの夜の記憶が蘇るかと思っていた。
けれど現実は違った。
実際に向き合ってみれば、レオニードはもはや自分の心を支配できる相手ではなかった。
彼はまだ王太子であり、社交界の中心にいる男だ。
けれどオルタンシアにとっては、もう“人生を決める人”ではない。
それがはっきりわかったことが、何より大きかった。
少し離れた位置まで来たところで、ゼノンが低く問う。
「平気か」
オルタンシアは呼吸を整え、それからうなずいた。
「ええ」
少しだけ考え、付け加える。
「思っていたより、ずっと」
ゼノンの目元がわずかにやわらぐ。
「そうだろうな」
それだけだった。
だがその一言で、オルタンシアはようやく本当に息をついた。
みじめな再会だったのは、彼女ではない。
あの夜の延長へ引き戻せると思っていたのに、できなかった男の方だ。
そう思えた瞬間、王都の光はもう以前ほど冷たくなかった。
オルタンシアが会場へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
それは、大げさなざわめきではない。
王都の社交界はもっと巧妙だ。楽団の音は途切れず、笑みも会話も表向きはそのまま続く。けれど視線の流れだけが、一斉にこちらへ向く。
来た。
その無言の反応が、会場のあちこちから伝わってきた。
オルタンシアは一歩だけ呼吸を整える。
怖くないわけではない。
むしろ、かなり緊張している。
だが今夜の彼女は、あの祝賀会の夜のように一人ではない。ルヴェリエ侯爵家の令嬢として戻り、しかも隣にはゼノン・アルケディウスがいる。
それだけで、同じ会場でも立ち方がまるで違った。
「こちらをご覧になっておりますね」
オディールが後ろからごく小さく囁く。
オルタンシアは口元だけで微笑んだ。
「見られるのはわかっていたでしょう」
「ええ。でも、見る側が思っていたよりずっと見返されております」
その言い方が少し可笑しくて、緊張の中でも肩の力がわずかに抜ける。
会場の中央へ進むあいだ、何人かの貴族が順に挨拶へ現れた。
表向きの言葉は穏やかだ。
「お久しゅうございます、オルタンシア様」 「お元気そうで何よりですわ」 「アルケディウス公爵閣下もご一緒とは、たいそう心強いことで」
だがその一つ一つの裏に、探る色がある。
どれほど傷ついているのか。
本当に立ち直っているのか。
公爵との関係はどこまで進んでいるのか。
王太子との件をどう受け止めているのか。
オルタンシアはそれを感じ取りながらも、以前ほど疲弊しなかった。
必要以上に取り繕わなくてもよいからだ。
聞かれていないことを自分から語る必要はない。
曖昧に微笑み、礼を尽くし、そこから先へは踏み込ませない。
その線引きが、以前より少しだけ自然にできる。
やがて一通りの挨拶が落ち着いた頃、オルタンシアはふと会場の奥に視線を感じた。
見なくてもわかるような、ひどく落ち着かない視線だった。
顔を向ける。
そこにいたのは、レオニード第一王太子だった。
一瞬だけ、胸の奥がひやりとした。
どれだけ覚悟していても、やはり実際に姿を見ると違う。
金髪も、整った顔立ちも、王族らしい華やかさも変わらない。けれど以前よりどこか疲れて見える。頬が少しこけたわけではないのに、表情の端に余裕がないのだ。
そして何より、彼はオルタンシアを見ていた。
驚きと、動揺と、理解の遅れた何かを剥き出しにした目で。
まるで、こんなふうに戻ってくるとは思っていなかったかのように。
当然だろう、とオルタンシアは心の中で思う。
彼の想像の中の自分は、たぶんまだ“傷ついて引きこもっている元婚約者”なのだ。
あの夜の続きを、こちらがずっと引きずっていると信じていたのかもしれない。
だが現実は違う。
今夜の自分は、彼に呼び戻されたのではなく、自分で来ると決めてここにいる。
その差は大きかった。
「……来るぞ」
隣でゼノンが低く言った。
オルタンシアは小さくうなずく。
レオニードは迷ったように立ち尽くしていたが、やがて意を決したようにこちらへ歩いてきた。
その足取りには、以前のような王太子としての余裕がない。かといって完全に狼狽しているわけでもなく、どう接すればよいかを決めきれないまま近づいてくるような不格好さがあった。
会場の空気がまた、静かにこちらへ寄る。
誰もがこの再会に興味を持っている。
当然だ。
婚約破棄の当事者が、こうして同じ場へ戻ってきたのだから。
レオニードはオルタンシアの前で立ち止まった。
数歩離れた位置にゼノンがいる。
オディールもすぐ後ろで気配を消している。
王太子は一瞬だけ、何から言うべきか迷った顔をした。
結局、口から出たのはひどく凡庸な言葉だった。
「……来ていたのか」
その一言に、オルタンシアは危うく笑いそうになった。
来ていたのか。
まるで偶然見かけた相手に言うような言葉だ。
「招待をいただいておりましたので」
オルタンシアは礼を失さぬ声で答える。
それだけで十分だったはずなのに、レオニードは引き下がらない。
むしろ、その整いすぎた返答に居心地を悪くしたようだった。
「体調は、その……もう平気なのか」
体調。
そこへ来るのか、とオルタンシアは思う。
自分が今ここへ立っていること自体が答えではないのか。
それとも彼の中では、まだ自分は“あの夜で壊れたまま”の存在なのだろうか。
「ええ、おかげさまで」
あくまで穏やかに返すと、レオニードはますます落ち着かなくなる。
会場の光の下で見る彼は、王太子でありながらひどく不安定だった。
そしてその不安定さに、オルタンシアの胸は以前ほど揺れない。
むしろ、ああやはりこの人はこういう人だったのだと、妙に静かに見えてしまう。
「……オルタンシア」
レオニードは少し声を落とした。
明らかに、私的な話へ持ち込みたい声だった。
「少し、話せないか」
オルタンシアは一拍だけ置いた。
会場の中だ。
完全に断れば、それはそれで人目を集める。
だが応じすぎても、向こうへ余地を与える。
その一瞬の間に、ゼノンがほんのわずかに視線を寄越した。
急かさない、だが一人で背負わせない、あの目だ。
オルタンシアはそこで決めた。
「この場で差し支えないお話でしたら」
それは柔らかい拒絶だった。
二人きりにはならない。
隠れた話にはしない。
そういう意思表示でもある。
レオニードの表情がわずかに歪む。
だが今さら、それを拒むほどの強引さも持てないらしい。
「……手紙を送った」
「拝見いたしました」
「あれは」
そこで彼は言葉に詰まる。
謝るのかと思えば、そうではない。言い訳を選んでいる顔だ。
やがて出てきたのは、予想通りのものだった。
「誤解もあったと思っている」
オルタンシアは静かに彼を見る。
誤解。
またその言葉だ。
何も認めず、何も具体的にしない便利な言い換え。
「そうですか」
それだけを返すと、レオニードは少し苛立ったように眉を寄せた。
「君は……少し、変わったな」
変わった。
その評価は、ある意味では正しい。
以前のオルタンシアなら、もっと言葉を選び、相手に逃げ道を残し、場を荒立てぬよう返しただろう。
今は違う。
わざわざ向こうの都合に合わせて柔らかくする気がない。
「そう見えるのでしたら、そうなのかもしれません」
「昔の君なら、もっと……」
レオニードはそこまで言って、言葉を切った。
もっと、何だというのだろう。
従順だった?
聞き分けがよかった?
自分の都合に合わせてくれた?
口にしようとして、さすがに飲み込んだらしい。
その一瞬のためらいが、かえってすべてを物語っていた。
「昔の私は、殿下のお望みに沿うことを優先しておりましたから」
オルタンシアは自分でも驚くほど静かにそう言った。
レオニードの顔が強張る。
会場のざわめきは遠い。
だが周囲の視線は確実にこちらへ集まっている。
それでも今の言葉は、聞かれて困るものではないとオルタンシアは思った。
事実だからだ。
レオニードは声を低くした。
「私は、そこまでひどい男だったつもりはない」
その一言に、オルタンシアの胸の中で何かがひどく冷たく整った。
ああ、この人は本当にそこなのだ、と。
ひどい男だったつもりはない。
つもり。
結局、この人が守りたいのは最後まで自分の“つもり”なのだ。
何をしたかではなく、どういうつもりだったか。
相手がどう傷ついたかではなく、自分はそこまで悪人ではないという自己像。
それがあまりにもはっきり見えた瞬間、オルタンシアの中に残っていた迷いのようなものが完全に消えた。
「殿下」
呼びかける声は、以前の婚約者らしい柔らかさを少しも含まなかった。
ただ礼儀だけがある。
「私も、殿下が最初から悪意だけで動いていらしたとは思っておりません」
レオニードの目がわずかに開く。
責められると身構えていたところへ、違う言葉がきたからだろう。
けれど、オルタンシアは続ける。
「ですが、悪意がなければ許されることばかりではありません」
会場の光が、ひどく白く感じる。
「殿下はあの夜、私の言葉を聞かず、人前で婚約を破棄し、中傷を止めず、その後も謝罪や訂正より先に“戻って整えろ”と仰いました」
レオニードの喉がわずかに動く。
オルタンシアは止まらなかった。
「それがどれほど私を軽んじた振る舞いであったかは、殿下のつもりではなく、私が決めることです」
言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。
だが声は揺れなかった。
オディールが後ろで、気配だけで息を止めたのがわかる。
ゼノンは何も言わない。
ただ、動かずにそこにいる。
それだけで十分だった。
レオニードは完全に言葉を失っていた。
これまでオルタンシアが、ここまでまっすぐに自分へ言葉を返したことはなかったのだろう。
あったとしても、彼は本気で聞いてこなかったのだ。
だから今、ようやく届いてしまっている。
「私は、もう殿下の婚約者ではございません」
オルタンシアは最後にそう告げた。
「ですから、あの頃のように殿下の都合で動くこともございません」
それは宣言だった。
感情的な絶縁ではない。
ただ、関係の終わりを正確に言葉にしただけの。
けれど、その正確さこそが一番鋭い。
レオニードはしばらく立ち尽くしていたが、やがてようやく掠れたように言った。
「……そうか」
その返答は、情けないほど薄かった。
怒鳴ることもできず、強く引き留めることもできず、ただ言葉を失った男の声だった。
オルタンシアは一礼した。
それ以上続ける必要はない。
必要以上の残酷さを足すつもりもなかった。
もう十分に、終わっているからだ。
彼女が身を引くと、ゼノンがごく自然に一歩そばへ寄った。
庇うようにではない。
だが、これ以上続けさせないという位置だ。
それを見たレオニードの目に、一瞬だけ別の感情が走った。
嫉妬か、後悔か、あるいはその両方か。
けれどそれを読み取ろうとする気には、オルタンシアはもうなれなかった。
彼女はただ、静かに向きを変える。
会場の空気が、今度は別の意味でざわめきを含み始めているのがわかった。
聞こえていた者は少なくないだろう。
だが構わない。
今のやり取りで、自分が取り乱したわけではない。
ただ、筋を通しただけだ。
それどころか不思議なくらい、胸の中は静かだった。
怖くて、苦しくて、あの夜の記憶が蘇るかと思っていた。
けれど現実は違った。
実際に向き合ってみれば、レオニードはもはや自分の心を支配できる相手ではなかった。
彼はまだ王太子であり、社交界の中心にいる男だ。
けれどオルタンシアにとっては、もう“人生を決める人”ではない。
それがはっきりわかったことが、何より大きかった。
少し離れた位置まで来たところで、ゼノンが低く問う。
「平気か」
オルタンシアは呼吸を整え、それからうなずいた。
「ええ」
少しだけ考え、付け加える。
「思っていたより、ずっと」
ゼノンの目元がわずかにやわらぐ。
「そうだろうな」
それだけだった。
だがその一言で、オルタンシアはようやく本当に息をついた。
みじめな再会だったのは、彼女ではない。
あの夜の延長へ引き戻せると思っていたのに、できなかった男の方だ。
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