婚約破棄した王太子が今さら謝っても、私はもう戻りません

エスビ

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23話 辺境公爵の宣言

23話 辺境公爵の宣言

舞踏会の夜は、表向きには何事もなく進んでいた。

楽団は優雅な曲を奏で続け、貴族たちはそれぞれの輪の中で笑みを交わす。給仕は無駄なく動き、シャンデリアの光は誰の顔も等しく美しく照らしている。

けれど、その光の下で流れる空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

レオニードとの会話。

シェリルの焦り。

そして、オルタンシアがそれらに対して見せた揺るがぬ態度。

どれも大声で喧伝されたわけではない。にもかかわらず、会場のあちこちで、見方の軸が静かに入れ替わり始めているのがわかる。

オルタンシアは会場の端へ移り、少しだけ落ち着いた場所で呼吸を整えていた。

先ほど回廊へ出ていたことで、胸のざわつきはかなり静まっている。

とはいえ、完全に平気というわけではない。

王都の空気はやはり濃い。視線も、言葉の選び方も、意味ありげな微笑も、すべてがどこか神経へ触れる。

だが今夜のオルタンシアには、それに呑まれきらないだけの芯があった。

「あちらのご夫人方、先ほどからずっとこちらを見ておられます」

オディールが控えめに囁く。

オルタンシアはグラスを持ったまま、わずかに目を向けた。

たしかに、年配の夫人たちの小さな輪の中で、自分の方へ一瞬だけ視線が流れては戻る気配がある。あからさまではない。だが隠してもいない。

「先ほどのことが、もう広がり始めているのね」

「はい。王都らしい速さでございます」

少し皮肉めいたその言い方に、オルタンシアはわずかに口元を緩める。

王都の噂はいつだって早い。

ただ、以前と違うのは、今夜流れているものが一方的な断罪ではないということだ。

少し離れたところでゼノンが別の侯爵家当主と短く言葉を交わしている。

大げさにこちらを庇い立てるのではなく、けれど必要な距離を保って視界の中には置いている。あの自然な位置取りが、今のオルタンシアにはひどくありがたかった。

守られていると感じるのに、守られていることを人前で見世物にされない。

それはたぶん、とても高度な配慮なのだろう。

「オルタンシア様」

ふいに呼ばれ、オルタンシアは振り返る。

声の主は、王都でもそれなりに発言力を持つ伯爵夫人だった。以前、王妃の茶会でも何度か顔を合わせている。

「ごきげんよう、伯爵夫人」

「ええ、ごきげんよう。少しだけ、お話ししてもよろしくて?」

その声音は柔らかい。

だがその柔らかさの下に、探る気配もきちんとある。

オルタンシアは一礼し、応じた。

「もちろんですわ」

伯爵夫人は扇をゆるやかに動かしながら、まずは当たり障りのない話題から入った。季節の移ろい、今年の舞踏会の花の選び方、王都へ戻るまでの旅路。

そうして数言交わしたあと、ふと声音を少しだけ低くする。

「先ほど、少々騒がしかったようですわね」

遠回しな言い方だ。

だが今さら誤魔化すほどのことでもない。

オルタンシアは静かに微笑んだ。

「そう見えましたか」

「ええ。けれど、思っていたよりずっと落ち着いていらしたわ」

その言葉には、率直な驚きが混じっていた。

傷ついた元婚約者として泣き顔を見せるでもなく、勝ち誇るでもなく、静かに線を引いてみせた。そのことが、おそらく彼女の予想を少し超えていたのだろう。

「……ありがとうございます」

オルタンシアは礼を返した。

伯爵夫人は一瞬だけ彼女をじっと見たあと、言う。

「王都は時々、人が勝手に決めた物語を好みすぎますの」

それはかなり踏み込んだ物言いだった。

オルタンシアは目を瞬く。

伯爵夫人は扇の向こうで淡く微笑む。

「可哀想な娘、冷たい婚約者、真実の愛――そういう形に当てはめてしまえば、皆安心するのでしょうね」

「……そうかもしれません」

オルタンシアの返答も自然と静かになる。

伯爵夫人はそれ以上あからさまな言葉は足さなかった。

だが、その短い会話だけで十分だった。

王都の中で、あの夜の“物語”をそのまま信じていない人間が、確実に増えている。

それを感じられるだけで、心の内の何かが少しずつほどけていく。

伯爵夫人が去ってほどなく、また別の挨拶が続いた。

以前より視線の温度が違う。

哀れみや面白がり方ではなく、“一人の令嬢として改めて見る”ような目だ。

それがどれほど珍しいことかを、オルタンシアは今になって痛感していた。

王太子の婚約者候補としてではなく。

婚約破棄された娘としてでもなく。

ただ、オルタンシア・ルヴェリエとして。

その時、会場の中央付近で、また小さなざわめきが起きた。

人の流れがわずかに割れ、その中心へ視線が寄る。

オルタンシアも自然とそちらへ目を向ける。

そこにはレオニードがいた。

先ほど自分と言葉を交わしたあとよりも、さらに居心地の悪そうな顔をしている。おそらく、舞踏会のあちこちで感じる微妙な空気の変化を、彼自身も無視できなくなっているのだろう。

そのレオニードの少し後ろには、シェリルもいる。

先ほどのやり取りのあとであるにもかかわらず、彼女はまだ何とか“王太子の傍ら”へ立とうとしているらしい。だが、その立ち姿にはもう以前ほどの無邪気な自信がない。

人はそういうものをよく見る。

誰が堂々としていて、誰が位置を失いかけているかを。

オルタンシアがそれを眺めていた時、すっと隣へゼノンが戻ってきた。

「どうだ」

何が、と聞かなくてもわかる問いだった。

「……少しずつ、見方が変わっているようです」

「そうだろうな」

短い返答。

その時、近くにいた侯爵家の当主が、自然な流れでこちらへ近づいてきた。

五十代半ばほどの、穏やかな物腰の人物だ。オルタンシアは以前、王宮の夜会で何度か顔を合わせている。

「アルケディウス公爵」

「ご無沙汰しております」

二人の間で簡潔な挨拶が交わされる。

そして侯爵は、オルタンシアへも礼を取った。

「オルタンシア様も、お元気そうで何よりでございます」

「ありがとうございます」

社交辞令といえばそれまでだ。

だが、そこに以前のような“気の毒に”という含みはほとんど感じられなかった。

むしろ、侯爵の関心はもっと別のところにあるように見える。

少し言葉を交わしたのち、彼はごく自然に言った。

「アルケディウス公爵が、今夜こうしてご一緒なさっていることに、皆安心しているのではないでしょうか」

その一言は、一見するとただの持ち上げにも聞こえる。

だが実際には違う。

王都の社交界に向けて、“オルタンシア・ルヴェリエは守るに値する客人であり、軽々しく扱う相手ではない”という意味を持つ言葉だった。

ゼノンは大げさに受けず、ただ静かに答える。

「当然のことをしているだけです」

その“当然”が、会話の周囲にいた者たちへもきちんと届いたのがわかった。

ただ親切なのではない。

立場を示している。

この令嬢を軽んじることは、アルケディウス公爵家への侮りと同じだと、あえて大きな声を出さずに伝えているのだ。

そしてそれは、すでに会場の空気の中でかなりの効力を持ち始めていた。

侯爵が去ったあと、オルタンシアは小さく息をつく。

「閣下は、こういうことも自然になさるのですね」

ゼノンは彼女を見た。

「こういうこと、とは」

「今のような……皆さまにわかる形で、立場を示すことです」

ゼノンは少しだけ考えるような間を置く。

「示しておいた方が、余計な手間が減る」

相変わらず、彼の言葉は実務的だ。

けれどオルタンシアには、それがありがたかった。

守る、と甘い言葉で言われるより、余計な手間が減るからだと言われた方が、かえって信じられる。

実際、その通りなのだろう。

今夜の王都では、誰もが空気を測っている。

アルケディウス公爵がどこまでオルタンシアを重く扱っているか。それによって、軽口を叩く者も、妙な探りを入れる者も、ぐっと減る。

オルタンシアは少し黙ってから、低く言った。

「……ありがとうございます」

ゼノンは一瞬だけ目を細め、それから短く返した。

「礼を言われることではない」

「でも、私は」

そこで言葉を切る。

何をどう言えばよいかわからなかった。

王都で、ああいう形の“宣言”を自分が受けるとは思っていなかったのだ。

婚約者の隣に立っていても、王太子妃候補であっても、あれほど明確に“侮辱するな”と示されることはなかった気がする。

いつも自分が空気を読み、侮辱にならないように先回りして整えてきたから。

今は違う。

誰かが先に線を引いてくれる。

その違いが、思いのほか心へ響いていた。

会場の別の一角では、シェリルがその様子を見ていた。

正確には、見ずにいられなかった。

伯爵夫人がオルタンシアへ穏やかに声をかけたことも。

侯爵家当主がゼノンと自然に会話を交わしたことも。

そして何より、ゼノンが堂々とその隣へ立ち続けていることも。

どれもシェリルにとっては面白くない。

痛いほど面白くない。

本来なら、今夜注目されるのは自分のはずだった。

王太子に選ばれた令嬢として、可憐に、儚げに、それでいて幸福そうに見られるはずだった。

なのに現実はどうだ。

注目の中心にいるのは、婚約破棄されたはずのオルタンシアだ。

しかも“可哀想な女”ではなく、“堂々と戻ってきた女”として見られている。

シェリルには、それが耐えがたかった。

彼女は唇を噛み、扇を強く握る。

誰かが近づいてきても、もう前のように柔らかな笑顔を作れない。

焦りが、表情の端々ににじむ。

そして人は、そういうにじみも見逃さない。

会場の空気は、もう完全に変わりつつあった。

オルタンシアはその変化の中で、自分が以前ほど消耗していないことに気づいていた。

もちろん、楽なわけではない。

王都の舞踏会である以上、神経を使わないはずがない。

だが、ひとつ大きく違うことがある。

今夜の彼女は、守るべき立場に押し込まれていない。

誰かの失点を埋めるために立っているのではない。

誰かの隣を飾るためでもない。

ただ、自分として立っている。

そしてその自分の隣に、ゼノンがいる。

そのことが、ひどく大きかった。

舞踏会も後半へ入り、楽団の曲が変わる。

会場の中央では、何組かが踊り始めた。

オルタンシアはその光景を眺めながら、ふいに思う。

あの夜とは、もう違う。

同じ王都の光の中にいても、自分は以前の場所へは戻らない。

戻れないのではなく、戻る気がない。

その事実が、今夜ははっきりと形になっていた。

ゼノンが、隣で短く言う。

「少しは楽か」

オルタンシアはその問いに、すぐには答えなかった。

少し考え、それから小さく笑う。

「はい。思ったよりずっと」

「そうか」

「ええ。……閣下が、こうしていてくださるからかもしれません」

言ってから、少しだけ頬が熱くなる。

だがゼノンは、変に受け取った様子もなく、ただ静かに返した。

「それで君が立ちやすいなら、十分だ」

その返事がいかにも彼らしくて、オルタンシアはまた少し笑った。

王都の社交界のただ中で、こんなふうに自然に笑える日が来るとは思わなかった。

だが今、その笑みは確かに彼女のものだった。

そしてそのこと自体が、何より雄弁な宣言になっていた。
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