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プロローグ
永劫の煉獄
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二十四年前、アグナス王国を嵐が襲った夜。
薄暗い研究室の冷たい椅子に深く沈み、ヴァルド・キニスは窓ガラスを殴りつける豪雨の音を聞いていた。断続的な稲光が走るたび、彼の彫刻のような横顔と、乱雑に積まれた資料の山が、闇の中に一瞬だけ白く浮かび上がる。
ここからでも分かる。研究所に隣接する、兄アリエス・キニスの自宅で、愛する女の魔力が荒れ狂っているのが。
「……ステラ」
彼が胸元で握りしめるのは、ステラの胎内に埋め込んだ結晶とリンクする、対となる制御石だ。その石は今、遠く離れた彼女の苦痛と同期するように、指の隙間から濁った光を放ち、ドクン、ドクンと激しく脈打っている。
ステラ・キニスは彼の幼馴染だった。彼女は幼い頃から、いつも先を歩いていた。その背中は眩しく、遠く、だからこそ、彼女が運命に翻弄されないようこの手で導き、全てを捧げたいと願った。誰よりも彼女を理解しているのは、この自分だと信じていた。だが、彼女は兄であるアリエスを選んだ。何の力も持たぬ、理想ばかりを語るあの兄に、いとも容易く奪われたのだ。
(兄さんではお前を救えないよ……)
兄が目指す救いの理想を、ヴァルドは内心でずっと弱さだと見下していた。類まれな強大すぎる魔力を宿したステラが、出産時にどれほどの魔力暴走を起こすか。兄の生ぬるい研究では防げるはずがなく、彼女の死は避けられない。だから、この石を埋め込んだ。これは彼女の命を救い、暴走する魔力を支配するための、彼なりの救済の試み。そして、救った暁には、彼女は自分だけのものになるはずだった。
その瞬間、雷鳴が轟いたのと同時に、手の中の石が耐えきれないほどの熱を発し砕け散った。破片が掌を切り、血が滲む。だが痛みなど感じなかった。ただ、指の間から零れ落ちる光の欠片を、呆然と見つめていた。まるで、ステラの命が、自分の手から永遠に離れていくかのように。体が重くなり、血管の隅々から、張り詰めていた力が音もなく抜け落ちていく。
……支配が、切れた?
理論は完璧だったはずだ。だが消滅した対なる石は、ステラの魔力が暴走の極限を超え、そして完全に消滅したことを告げていた。彼女が、最期の力で私の支配を拒絶したのだ。
研究室を飛び出し、嵐の中を兄の家へと踏み込んだ。血の匂いが充満する部屋の中、彼が見たのは、穏やかな顔で息絶えたステラの亡骸と、その傍らで産声を上げる生まれたばかりの赤子を抱きしめ、絶望に打ちひしがれる兄アリエスの姿だった。
ステラの遺体は、兄の胸に縋り付くように崩れ落ちていた。血に塗れた細い指は、死してなお、兄のシャツの裾を強く握りしめて離さない。助けを求めたのではない。最期の瞬間に誰を愛し、誰の腕の中で逝きたかったのか。その残酷な答えが、そこにはあった。
「……ありえない」
小さく呟く。ステラは、最期の瞬間に支配に抵抗し、その全魔力と愛を赤子に注ぎ込み、死を選んだのだ。自分の腕の中で生きるよりも、兄との子に命を託して死ぬことを選んだ。その場に膝をつく。絶望が、愛する女を失った喪失感が、彼の心と天才的な頭脳を空っぽにしていく。これは感情ではない。単なるデータの不整合なのだと、彼は自分にそう言い聞かせながら、理論の糸を必死に繋ぎ止めた。
ゆっくりと顔を上げた。ヴァルドの瞳の奥は、光を拒絶する真っ暗な深淵だけが広がっていた。
(――失敗ではない。未完なだけだ)
彼の視線は、ステラの亡骸から、兄の腕の中で泣き叫ぶ赤子へと移る。そこには、ステラが最期に選んだ答えが息づいていた。
(ステラ。お前は私の理論を否定した。しかし、それは手段にすぎない。目的そのものは、なお有効だ。お前が残したこの子供は、完璧な再現体なのだ。お前が拒絶した支配を、今度はこの器を通じて実現する。お前を救うために。たとえそれが、お前の愛した意思を上書きし、この子の心を殺すことになろうとも)
彼は静かに立ち上がった。兄の存在など、すでに視界に入っていなかった。アリエスはただの背景。無意味な変数。頭の中は、異様なまでに静かだった。
そこに残るのは、ステラへの歪んだ愛。彼女を永遠に自分のものにするための、冷徹な計算だけ。
漆黒の雲が渦を巻く。雨は激しさを増し、大地を冷たく打ち続けた。この夜の雷鳴が、やがて世界を焼き尽くす永劫の煉獄の産声だった。
薄暗い研究室の冷たい椅子に深く沈み、ヴァルド・キニスは窓ガラスを殴りつける豪雨の音を聞いていた。断続的な稲光が走るたび、彼の彫刻のような横顔と、乱雑に積まれた資料の山が、闇の中に一瞬だけ白く浮かび上がる。
ここからでも分かる。研究所に隣接する、兄アリエス・キニスの自宅で、愛する女の魔力が荒れ狂っているのが。
「……ステラ」
彼が胸元で握りしめるのは、ステラの胎内に埋め込んだ結晶とリンクする、対となる制御石だ。その石は今、遠く離れた彼女の苦痛と同期するように、指の隙間から濁った光を放ち、ドクン、ドクンと激しく脈打っている。
ステラ・キニスは彼の幼馴染だった。彼女は幼い頃から、いつも先を歩いていた。その背中は眩しく、遠く、だからこそ、彼女が運命に翻弄されないようこの手で導き、全てを捧げたいと願った。誰よりも彼女を理解しているのは、この自分だと信じていた。だが、彼女は兄であるアリエスを選んだ。何の力も持たぬ、理想ばかりを語るあの兄に、いとも容易く奪われたのだ。
(兄さんではお前を救えないよ……)
兄が目指す救いの理想を、ヴァルドは内心でずっと弱さだと見下していた。類まれな強大すぎる魔力を宿したステラが、出産時にどれほどの魔力暴走を起こすか。兄の生ぬるい研究では防げるはずがなく、彼女の死は避けられない。だから、この石を埋め込んだ。これは彼女の命を救い、暴走する魔力を支配するための、彼なりの救済の試み。そして、救った暁には、彼女は自分だけのものになるはずだった。
その瞬間、雷鳴が轟いたのと同時に、手の中の石が耐えきれないほどの熱を発し砕け散った。破片が掌を切り、血が滲む。だが痛みなど感じなかった。ただ、指の間から零れ落ちる光の欠片を、呆然と見つめていた。まるで、ステラの命が、自分の手から永遠に離れていくかのように。体が重くなり、血管の隅々から、張り詰めていた力が音もなく抜け落ちていく。
……支配が、切れた?
理論は完璧だったはずだ。だが消滅した対なる石は、ステラの魔力が暴走の極限を超え、そして完全に消滅したことを告げていた。彼女が、最期の力で私の支配を拒絶したのだ。
研究室を飛び出し、嵐の中を兄の家へと踏み込んだ。血の匂いが充満する部屋の中、彼が見たのは、穏やかな顔で息絶えたステラの亡骸と、その傍らで産声を上げる生まれたばかりの赤子を抱きしめ、絶望に打ちひしがれる兄アリエスの姿だった。
ステラの遺体は、兄の胸に縋り付くように崩れ落ちていた。血に塗れた細い指は、死してなお、兄のシャツの裾を強く握りしめて離さない。助けを求めたのではない。最期の瞬間に誰を愛し、誰の腕の中で逝きたかったのか。その残酷な答えが、そこにはあった。
「……ありえない」
小さく呟く。ステラは、最期の瞬間に支配に抵抗し、その全魔力と愛を赤子に注ぎ込み、死を選んだのだ。自分の腕の中で生きるよりも、兄との子に命を託して死ぬことを選んだ。その場に膝をつく。絶望が、愛する女を失った喪失感が、彼の心と天才的な頭脳を空っぽにしていく。これは感情ではない。単なるデータの不整合なのだと、彼は自分にそう言い聞かせながら、理論の糸を必死に繋ぎ止めた。
ゆっくりと顔を上げた。ヴァルドの瞳の奥は、光を拒絶する真っ暗な深淵だけが広がっていた。
(――失敗ではない。未完なだけだ)
彼の視線は、ステラの亡骸から、兄の腕の中で泣き叫ぶ赤子へと移る。そこには、ステラが最期に選んだ答えが息づいていた。
(ステラ。お前は私の理論を否定した。しかし、それは手段にすぎない。目的そのものは、なお有効だ。お前が残したこの子供は、完璧な再現体なのだ。お前が拒絶した支配を、今度はこの器を通じて実現する。お前を救うために。たとえそれが、お前の愛した意思を上書きし、この子の心を殺すことになろうとも)
彼は静かに立ち上がった。兄の存在など、すでに視界に入っていなかった。アリエスはただの背景。無意味な変数。頭の中は、異様なまでに静かだった。
そこに残るのは、ステラへの歪んだ愛。彼女を永遠に自分のものにするための、冷徹な計算だけ。
漆黒の雲が渦を巻く。雨は激しさを増し、大地を冷たく打ち続けた。この夜の雷鳴が、やがて世界を焼き尽くす永劫の煉獄の産声だった。
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