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第二章:葛藤と画策
2-4. 白銀の決意
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イーゼン王国の野営地。激戦の疲労と、停戦直後の戦いの糸がわずか緩んだ脆い安堵の気配の中、騎士団長の天幕だけが、静まり返っていた。夜空に煽られた厚手の天幕が、バサバサと乾いた音を立てている。ランプの頼りない明かりだけが揺れる、薄暗い室内。
アルヴィン・フェルムは、鉄枠に硬い布を張り渡しただけの、無骨な野戦用寝台に腰掛けていた。
銀と青氷の甲冑は外され、傍らのスタンドで輝きを放っている。武装を解いたその姿は、裏着を両肩から無造作に滑り落としていた。微かに血の滲む包帯が、痛々しく彼の上半身を覆っている。粗末な寝台には不釣り合いな長い手足、乱れた衣服の隙間から覗かれた鍛え抜かれた肉体は彫像のごとき均整美であり、その姿は戦場の泥臭さとは無縁の、研ぎ澄まされた美しさを放っていた。
恵まれた体躯を小さく折り曲げ、両手を顔で覆った。肋骨が軋む痛みなどどうでも良いくらいに、脳裏に焼き付いた、他人の感情が彼を苛んでいるのだ。
(……あれは、何だったんだ。あの底なしの闇は……)
あの敵将、レオン・キニスから流れ込んできたのは、圧倒的な破壊の力の影にある、完全なる支配に置かれた者の絶望。逃れられぬ罪の意識。そして、父の理想を自らの手で穢し続けることへの、身を切り刻まれるほどの罪と罰の味。
(あいつは、泣いていたのか?)
天幕の布が持ち上げられ、副官のエドリック・ハーヴェイが入ってきた。エドリックは、親友の異変を感じ眉をひそめる。
「おいおい、ひどい顔だ。そんなに傷が痛むのか?」
アルヴィンはゆっくりと顔を上げた。その碧眼は、焦点が定まらずに揺れている。
「エド……。俺は、あいつと斬り結んだ瞬間……見てしまったんだ」
「見た?何をだ?」
突拍子もない言葉に理解が追いつかないと、太い眉を寄せた。普段は温和な印象を与える翠玉の垂れ目は、今は怪訝そうに細められている。
アルヴィンは自らの胸を強く鷲掴みにした。まるでそこに残る痛みを確かめるように。
「奴の魔力と俺の剣が触れ合った時、流れ込んできたんだ。奴は、誰にも理解されない闇の中にいた。ただ、終わりを待つという諦め。……そして、奴の精神を食い荒らす、何者かのどす黒い支配の影だ」
「支配……だと?」
「ああ。俺たちの相手は、アグナス王国という、国だけじゃないかもしれない。もっと根深い、とてつもない怪物が、あいつの背後に潜んでいる気がしたんだ」
エドリックは息を呑んだ。アルヴィンの勘は、戦場において外れたことがない。その彼がここまで怯え、警戒するほどの影。
「だが、絶望だけじゃなかった」
意識は、天幕の壁を突き破り遥か遠くを見つめながら、言葉を紡ぎ出すようにゆっくりと告げた。
「その泥沼のような闇のさらに奥底に……一つだけ、輝くものが見えたんだ」
「輝くもの?」
「ああ。汚れた支配の中で、それだけがあまりに清らかに、輝いていた。それが何なのかは分からない。だが、直感が告げている。あれが消えてしまえば、俺たちは本当に終わりだと」
確信に満ちた眼差しでエドリックを見据えた。
「あの光は、レオン自身を救う鍵であると同時に……恐らく、この戦争の、いや……この世界を覆おうとする影を払うための、唯一の鍵なんだ」
「……世界を救う鍵、か」
狂人の妄言と呼ぶには、その横顔には一切の迷いが見当たらなかった。
「俺は……その光を守りたいと願ってしまった。あの瞬間、俺の頭は確かに殺すつもりでいた。だが、身体が理屈を裏切った。俺の剣は、奴を貫くことよりも、その悲鳴を止めることを選んでしまったんだ」
ランプの光に煽られ、巨大な影は天幕の壁で不安定に揺らめく。親友の苦悩と、今後の戦況、そして騎士が持つべき使命。エドリックは深く息を吐き出し、乱暴に頭をかいた。
「……参ったな。お前のその勘が、ただの感傷なのか、それとも真実を突いているのかそれを確かめずにみすみす勝機を逃すのは、副官としても愚策だな」
呆れたように言ったが、その表情に軽蔑の色はない。騎士としての建前を床に置くように、静かに向き直った。
「お前とあの魔導師との間に生まれた得体の知れない繋がりは、何なのかは今はまだわからない」
そこで飲み込むように区切ると、肩を強く叩いた。
「だが、その奇妙な現象に、俺たちが生きる活路が隠されていると、俺は信じたい」
不敵な笑みを浮かべ、人差し指を立てた。
「確かめればいい。お前の直感が正しいかどうか」
「確かめる……どうやってだ?」
「機会はある。数日後、停戦協定の署名式があるだろう」
そのままの勢いで言葉を続けた。
「公式にはまだ予定ってだけだが、前線じゃもう、レオン・キニスは来る……って話で決まりだ。それに――」
声を低く。
「看板の手綱を握ってるのは魔導研究の最高権威、ヴァルド・キニスだ。噂じゃ、国王ですらあいつの操り人形だという話もある。あれだけの研究者が、あの現象を見逃すわけがない。確かめるために、必ずレオンを差し出してくる。」
「……会える、というのか」
「公式の場だ。言葉を交わす時間はない。だが、至近距離ですれ違うことはできる」
声のトーンが、優秀な軍人へと切り替わる。
「商人ギルドに古いツテがあってな。警備の配置図と、式典の流れは把握できる。
……握手の一瞬、あるいは退場の混乱に乗じて、メッセージを渡すくらいなら可能だろう」
「エド……」
アルヴィンは、幼馴染の名を掠れた声で呼んだ。押し切られた呆然と、胸奥に灯った小さな希望が混じった声だった。
「ただし、危険だぞ。向こうの監視も厳しいだろうし、罠の匂いがプンプンする。ヴァルドがレオンを看板として出すってことは、もうお前がレオンに首ったけだって読まれてる可能性が高い。……俺たち、誘われてる側かもしれないぞ」
釘を刺しながらも、エドリックは親友の生真面目さを茶化すように、ニッと口角を吊り上げた。
「だが、お前がどうしてもと言うなら、俺がその数秒の機会を作ってやる」
エドリックはアルヴィンの肩を軽く小突き、わざとらしく溜息をついて見せた。
「なに、問題ない。汚れ仕事は俺の領分だ。それより、さっさとその見苦しい傷を癒やせよ。……万全の状態でなければ、あいつを救うどころか、俺たちの国を守ることすらできないだろう?」
アルヴィンは、親友の底なしの温かさと、強引なほどの実行力に押し切られ、呆然と頷くしかなかった。
アルヴィン・フェルムは、鉄枠に硬い布を張り渡しただけの、無骨な野戦用寝台に腰掛けていた。
銀と青氷の甲冑は外され、傍らのスタンドで輝きを放っている。武装を解いたその姿は、裏着を両肩から無造作に滑り落としていた。微かに血の滲む包帯が、痛々しく彼の上半身を覆っている。粗末な寝台には不釣り合いな長い手足、乱れた衣服の隙間から覗かれた鍛え抜かれた肉体は彫像のごとき均整美であり、その姿は戦場の泥臭さとは無縁の、研ぎ澄まされた美しさを放っていた。
恵まれた体躯を小さく折り曲げ、両手を顔で覆った。肋骨が軋む痛みなどどうでも良いくらいに、脳裏に焼き付いた、他人の感情が彼を苛んでいるのだ。
(……あれは、何だったんだ。あの底なしの闇は……)
あの敵将、レオン・キニスから流れ込んできたのは、圧倒的な破壊の力の影にある、完全なる支配に置かれた者の絶望。逃れられぬ罪の意識。そして、父の理想を自らの手で穢し続けることへの、身を切り刻まれるほどの罪と罰の味。
(あいつは、泣いていたのか?)
天幕の布が持ち上げられ、副官のエドリック・ハーヴェイが入ってきた。エドリックは、親友の異変を感じ眉をひそめる。
「おいおい、ひどい顔だ。そんなに傷が痛むのか?」
アルヴィンはゆっくりと顔を上げた。その碧眼は、焦点が定まらずに揺れている。
「エド……。俺は、あいつと斬り結んだ瞬間……見てしまったんだ」
「見た?何をだ?」
突拍子もない言葉に理解が追いつかないと、太い眉を寄せた。普段は温和な印象を与える翠玉の垂れ目は、今は怪訝そうに細められている。
アルヴィンは自らの胸を強く鷲掴みにした。まるでそこに残る痛みを確かめるように。
「奴の魔力と俺の剣が触れ合った時、流れ込んできたんだ。奴は、誰にも理解されない闇の中にいた。ただ、終わりを待つという諦め。……そして、奴の精神を食い荒らす、何者かのどす黒い支配の影だ」
「支配……だと?」
「ああ。俺たちの相手は、アグナス王国という、国だけじゃないかもしれない。もっと根深い、とてつもない怪物が、あいつの背後に潜んでいる気がしたんだ」
エドリックは息を呑んだ。アルヴィンの勘は、戦場において外れたことがない。その彼がここまで怯え、警戒するほどの影。
「だが、絶望だけじゃなかった」
意識は、天幕の壁を突き破り遥か遠くを見つめながら、言葉を紡ぎ出すようにゆっくりと告げた。
「その泥沼のような闇のさらに奥底に……一つだけ、輝くものが見えたんだ」
「輝くもの?」
「ああ。汚れた支配の中で、それだけがあまりに清らかに、輝いていた。それが何なのかは分からない。だが、直感が告げている。あれが消えてしまえば、俺たちは本当に終わりだと」
確信に満ちた眼差しでエドリックを見据えた。
「あの光は、レオン自身を救う鍵であると同時に……恐らく、この戦争の、いや……この世界を覆おうとする影を払うための、唯一の鍵なんだ」
「……世界を救う鍵、か」
狂人の妄言と呼ぶには、その横顔には一切の迷いが見当たらなかった。
「俺は……その光を守りたいと願ってしまった。あの瞬間、俺の頭は確かに殺すつもりでいた。だが、身体が理屈を裏切った。俺の剣は、奴を貫くことよりも、その悲鳴を止めることを選んでしまったんだ」
ランプの光に煽られ、巨大な影は天幕の壁で不安定に揺らめく。親友の苦悩と、今後の戦況、そして騎士が持つべき使命。エドリックは深く息を吐き出し、乱暴に頭をかいた。
「……参ったな。お前のその勘が、ただの感傷なのか、それとも真実を突いているのかそれを確かめずにみすみす勝機を逃すのは、副官としても愚策だな」
呆れたように言ったが、その表情に軽蔑の色はない。騎士としての建前を床に置くように、静かに向き直った。
「お前とあの魔導師との間に生まれた得体の知れない繋がりは、何なのかは今はまだわからない」
そこで飲み込むように区切ると、肩を強く叩いた。
「だが、その奇妙な現象に、俺たちが生きる活路が隠されていると、俺は信じたい」
不敵な笑みを浮かべ、人差し指を立てた。
「確かめればいい。お前の直感が正しいかどうか」
「確かめる……どうやってだ?」
「機会はある。数日後、停戦協定の署名式があるだろう」
そのままの勢いで言葉を続けた。
「公式にはまだ予定ってだけだが、前線じゃもう、レオン・キニスは来る……って話で決まりだ。それに――」
声を低く。
「看板の手綱を握ってるのは魔導研究の最高権威、ヴァルド・キニスだ。噂じゃ、国王ですらあいつの操り人形だという話もある。あれだけの研究者が、あの現象を見逃すわけがない。確かめるために、必ずレオンを差し出してくる。」
「……会える、というのか」
「公式の場だ。言葉を交わす時間はない。だが、至近距離ですれ違うことはできる」
声のトーンが、優秀な軍人へと切り替わる。
「商人ギルドに古いツテがあってな。警備の配置図と、式典の流れは把握できる。
……握手の一瞬、あるいは退場の混乱に乗じて、メッセージを渡すくらいなら可能だろう」
「エド……」
アルヴィンは、幼馴染の名を掠れた声で呼んだ。押し切られた呆然と、胸奥に灯った小さな希望が混じった声だった。
「ただし、危険だぞ。向こうの監視も厳しいだろうし、罠の匂いがプンプンする。ヴァルドがレオンを看板として出すってことは、もうお前がレオンに首ったけだって読まれてる可能性が高い。……俺たち、誘われてる側かもしれないぞ」
釘を刺しながらも、エドリックは親友の生真面目さを茶化すように、ニッと口角を吊り上げた。
「だが、お前がどうしてもと言うなら、俺がその数秒の機会を作ってやる」
エドリックはアルヴィンの肩を軽く小突き、わざとらしく溜息をついて見せた。
「なに、問題ない。汚れ仕事は俺の領分だ。それより、さっさとその見苦しい傷を癒やせよ。……万全の状態でなければ、あいつを救うどころか、俺たちの国を守ることすらできないだろう?」
アルヴィンは、親友の底なしの温かさと、強引なほどの実行力に押し切られ、呆然と頷くしかなかった。
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