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旅一座
第6話
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リリアは窓辺の椅子から、夜が明けていく様子をじっと眺めていた。
空気が夜の冷たさから少しずつ緩み、わずかに温かみを帯びる。
夜明け前、宿の梁が低く軋んだ。古い木が、眠りから目覚めるために背を伸ばすようなその響きを、リリアは好ましく思う。
──ただ、その音の奥には、忘れたくても忘れられない記憶が潜んでいる。
かつてアランと共に、同じように耳を澄ませて聞いた音。
学舎の片隅。石造りの講堂の梁が、夜更けに小さく鳴った時のこと。隣にいた彼は「まるで生き物の呼吸みたいだ」と笑った。その言葉も、笑顔も、胸に焼きついたまま離れない。今はもう会うことさえ許されない人。けれど梁が鳴るたび、胸の奥で彼が微笑む。
外では北門の番兵が眠気を追い払うように地面を踏み鳴らしていた。
星渡り一座は、闇の最後のひとかけらを背に、出立の支度を整える。荷馬車の車軸に油を差し、息を揃えて門をくぐった。
街道に出ると、世界の音が変わる。
石畳の硬い反響が消え、土の道の柔らかい沈みに置き換わる。左手では川が浅くせせらぎ、右手の丘では、草花が風に押されて一斉に揺れていた。
「最初は受け渡しだけ」
カイが旗の石突で地面を叩いた。
──トン・トン・トン・トン。
「俺が一、君が二。ずらさない。重ねない。投げて、受けて、返す」
リリアは黙ってうなずき、かかとで地面を打つ。
──トン・トン・トン・トン。
呼吸が二人でひとつの輪を描く。
祖母が伝えてくれた歌は、ひとりの器を想定していた。だが、器と器をつなぎ、ひとつの流れにできることを、耳が先に理解した。新しい感覚に心が震える。それと同時に、胸に小さな痛みが走った。
――もしこの拍を渡す相手がアランだったなら。
叶うはずのない想像が影のように忍び込む。
「いい感じ」
ジャドが荷車の後ろで空の木箱を叩き、合いの手を入れた。
車軸の単調な音しかなかった空間が、軽やかに弾み始める。
「誰かと一緒に拍を刻むなんて、考えたことなかった」
リリアがぽつりと呟くと、カイは無邪気な笑みを浮かべて問いかけた。
「楽しいでしょ? 同じ音を、ひとつずつ渡すのって……」
胸の奥に直接触れてくるような、柔らかなささやき。踏み入れてはならぬ境へ誘う音色に、おもわず返事をしようとしたが、その前にカリムの鋭い声が割って入る。
「音遊びをするのは構わないが、律を重ねるなよ。どうなってもしらんぞ」
「しないさ。俺だって拍術の専門家だ。カリムより詳しいくらいだよ」
軽口を叩くカイに、カリムはやれやれと肩をすくめる。
「お嬢ちゃん、こいつの言葉を真に受けすぎるな」
「……はい。気をつけます」
リリアは小さく答えたが、視線を逸らせなかった。
カイの瞳には試すような光が宿っている。危うくて、けれど惹かれてしまう。心を奪われそうになる感覚が、怖かった。
やがて太陽が真上に来る頃、一行は川幅の広がる場所へ出た。
そこに小さな祠が佇んでいた。白い石には苔が生え、供え物の皿は空っぽ。だが、祠の前の土には、昨日も誰かが足を運んだ痕が残っている。
「ここだわ」
ミリエラの声は穏やかだった。
「昼は眠るはずだけど、名を呼ばれるのを待つものは、時を忘れる」
風がひとつ、川面を渡って祠を撫でる。土ではない冷たさが、肌にゆるく触れる。昨夜、窓辺で聞いた乾いた唸り声。その源がここにあった。
「名前を探して」
ミリエラがささやく。
「この子たちの名前を呼んであげて」
リリアは腰の革袋から鈴を取り出した。手のひらの上に置くが、まだ鳴らさず、ただ感じる。
「いいかい。俺が一、君が二だよ?」
カイが旗を握り直し、声をかけてきた。旗はただの旗ではなかった。拍術師が律を導き出すために使う拍杖と呼ばれるもの。魔力を響かせるための道具だ。
名を探すだけなら、本来は必要ないはず。問いかけるより早く、カイは杖で地面を叩いた。
──トン。
墓守の一族として生まれ、拍術を叩き込まれて育ったリリアは、音が鳴れば身体が反応してしまう。
リリアがかかとで地面を打つと、カイは満足げに微笑んだ。
「……名前、わかった?」
ミリエラの問いに、リリアは小さくうなずく。
ひとりの音では見えなかったものが、ふたりで響かせることで輪郭を帯びる。
「返ってきた位相は軽い。怒りじゃない。迷いが集まって、灯りになり損ねてる」
そう告げると、リリアはかかとを止め、鈴をひとつ鳴らした。
──リン。
清らかな音が祠に溶けていく。
カイがその音に続こうとした瞬間、カリムが素早く彼の腕を掴んで止めた。リリアは横目でそのやり取りを見ながら、さらに鈴を重ねた。
──リン、リン、リン。
帰る道を照らすような、やわらかな響き。
祠の影が揺れ、昼の光には不釣り合いな青白い灯がひとつ浮かんだ。ふっと川へ行こうとして、また戻る。
「──────」
リリアの口が自然に名前を告げていた。穏やかな響きで。そのまま喉の奥で祖母から伝えられた鎮律の歌を紡ぐ。
「きれいな歌」
ミリエラが目を細める。
「渡れなかった人たちの鼓動が、やっと形になったのね」
名を得た迷いは道を選ぶ。光は一つ、二つと増え、祠の前に列を作り、やがて川の向こう岸へ渡って消えていった。
「ここ、橋があったの。一緒に流されて、迷子になっていただけ」
「やっぱり狐じゃなかったわ」
「帰り道を教えたから、もう大丈夫」
「さすが元墓守さん」
ミリエラがころころと笑う。リリアもぎこちなく笑みを返した。
しかし、胸の奥には別の影が残っていた。
――私はきちんと魂を導けるのに……。アラン。あなたが墓守を廃した理由を、私はまだ知らない。
空気が夜の冷たさから少しずつ緩み、わずかに温かみを帯びる。
夜明け前、宿の梁が低く軋んだ。古い木が、眠りから目覚めるために背を伸ばすようなその響きを、リリアは好ましく思う。
──ただ、その音の奥には、忘れたくても忘れられない記憶が潜んでいる。
かつてアランと共に、同じように耳を澄ませて聞いた音。
学舎の片隅。石造りの講堂の梁が、夜更けに小さく鳴った時のこと。隣にいた彼は「まるで生き物の呼吸みたいだ」と笑った。その言葉も、笑顔も、胸に焼きついたまま離れない。今はもう会うことさえ許されない人。けれど梁が鳴るたび、胸の奥で彼が微笑む。
外では北門の番兵が眠気を追い払うように地面を踏み鳴らしていた。
星渡り一座は、闇の最後のひとかけらを背に、出立の支度を整える。荷馬車の車軸に油を差し、息を揃えて門をくぐった。
街道に出ると、世界の音が変わる。
石畳の硬い反響が消え、土の道の柔らかい沈みに置き換わる。左手では川が浅くせせらぎ、右手の丘では、草花が風に押されて一斉に揺れていた。
「最初は受け渡しだけ」
カイが旗の石突で地面を叩いた。
──トン・トン・トン・トン。
「俺が一、君が二。ずらさない。重ねない。投げて、受けて、返す」
リリアは黙ってうなずき、かかとで地面を打つ。
──トン・トン・トン・トン。
呼吸が二人でひとつの輪を描く。
祖母が伝えてくれた歌は、ひとりの器を想定していた。だが、器と器をつなぎ、ひとつの流れにできることを、耳が先に理解した。新しい感覚に心が震える。それと同時に、胸に小さな痛みが走った。
――もしこの拍を渡す相手がアランだったなら。
叶うはずのない想像が影のように忍び込む。
「いい感じ」
ジャドが荷車の後ろで空の木箱を叩き、合いの手を入れた。
車軸の単調な音しかなかった空間が、軽やかに弾み始める。
「誰かと一緒に拍を刻むなんて、考えたことなかった」
リリアがぽつりと呟くと、カイは無邪気な笑みを浮かべて問いかけた。
「楽しいでしょ? 同じ音を、ひとつずつ渡すのって……」
胸の奥に直接触れてくるような、柔らかなささやき。踏み入れてはならぬ境へ誘う音色に、おもわず返事をしようとしたが、その前にカリムの鋭い声が割って入る。
「音遊びをするのは構わないが、律を重ねるなよ。どうなってもしらんぞ」
「しないさ。俺だって拍術の専門家だ。カリムより詳しいくらいだよ」
軽口を叩くカイに、カリムはやれやれと肩をすくめる。
「お嬢ちゃん、こいつの言葉を真に受けすぎるな」
「……はい。気をつけます」
リリアは小さく答えたが、視線を逸らせなかった。
カイの瞳には試すような光が宿っている。危うくて、けれど惹かれてしまう。心を奪われそうになる感覚が、怖かった。
やがて太陽が真上に来る頃、一行は川幅の広がる場所へ出た。
そこに小さな祠が佇んでいた。白い石には苔が生え、供え物の皿は空っぽ。だが、祠の前の土には、昨日も誰かが足を運んだ痕が残っている。
「ここだわ」
ミリエラの声は穏やかだった。
「昼は眠るはずだけど、名を呼ばれるのを待つものは、時を忘れる」
風がひとつ、川面を渡って祠を撫でる。土ではない冷たさが、肌にゆるく触れる。昨夜、窓辺で聞いた乾いた唸り声。その源がここにあった。
「名前を探して」
ミリエラがささやく。
「この子たちの名前を呼んであげて」
リリアは腰の革袋から鈴を取り出した。手のひらの上に置くが、まだ鳴らさず、ただ感じる。
「いいかい。俺が一、君が二だよ?」
カイが旗を握り直し、声をかけてきた。旗はただの旗ではなかった。拍術師が律を導き出すために使う拍杖と呼ばれるもの。魔力を響かせるための道具だ。
名を探すだけなら、本来は必要ないはず。問いかけるより早く、カイは杖で地面を叩いた。
──トン。
墓守の一族として生まれ、拍術を叩き込まれて育ったリリアは、音が鳴れば身体が反応してしまう。
リリアがかかとで地面を打つと、カイは満足げに微笑んだ。
「……名前、わかった?」
ミリエラの問いに、リリアは小さくうなずく。
ひとりの音では見えなかったものが、ふたりで響かせることで輪郭を帯びる。
「返ってきた位相は軽い。怒りじゃない。迷いが集まって、灯りになり損ねてる」
そう告げると、リリアはかかとを止め、鈴をひとつ鳴らした。
──リン。
清らかな音が祠に溶けていく。
カイがその音に続こうとした瞬間、カリムが素早く彼の腕を掴んで止めた。リリアは横目でそのやり取りを見ながら、さらに鈴を重ねた。
──リン、リン、リン。
帰る道を照らすような、やわらかな響き。
祠の影が揺れ、昼の光には不釣り合いな青白い灯がひとつ浮かんだ。ふっと川へ行こうとして、また戻る。
「──────」
リリアの口が自然に名前を告げていた。穏やかな響きで。そのまま喉の奥で祖母から伝えられた鎮律の歌を紡ぐ。
「きれいな歌」
ミリエラが目を細める。
「渡れなかった人たちの鼓動が、やっと形になったのね」
名を得た迷いは道を選ぶ。光は一つ、二つと増え、祠の前に列を作り、やがて川の向こう岸へ渡って消えていった。
「ここ、橋があったの。一緒に流されて、迷子になっていただけ」
「やっぱり狐じゃなかったわ」
「帰り道を教えたから、もう大丈夫」
「さすが元墓守さん」
ミリエラがころころと笑う。リリアもぎこちなく笑みを返した。
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