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 マルガレーテの手をとったあの夜から、冬が終わって春も終わっていつの間にかまた夏が来ていた。


 私は、あれから…一度もお菓子の家には戻っていない。 
 理由は色々ある。最初の頃はもう勝手にお菓子の家に行かないようにと家に閉じ込められていたから。今は…母さんが泣くから。父さんが真顔になるから。ヨハン兄さんが無言で拳を見せてくるから。ハンスがじっと私を見つめてくるから。

 でも…たぶん一番の理由は単なる逃げだ。私はまた逃げようとしている。ガトーに説明をする義務から。

 …本当に私は馬鹿だ。いつか戻るなんて言っていたが…戻って私は、いなかった期間のことをガトーにどう説明するつもりだったのか。
 森で迷子になっていたとでも適当に嘯いてみるか?…この長い間?迷子?それで生きて家に戻って来る?あまりにもあほらしい話だろう。それに残念ながら、私にはもう嘘を重ねる気力がない。これ以上ガトーに嘘を重ねたら、私のなにかが崩れ落ちてしまおう。
 じゃあどうするかという話だが…結局それは、真実をすべて打ち明けるしかないのではないだろうか。本当は記憶はあったけど、ガトーを利用するために嘘をついて、火事を防がせて…って。

 だけど、そんな勇気は私にはやっぱりない。
 
 真実を打ち明けるという恐怖は、ガトーに再び会えることの喜びよりも強い。
 私はそれがいつの日か逆転するのではないかとうだうだ待ってた。だが、その日はいつまでたっても来なくて、いつの間にかここまで来ていた。
 もういっそのこと、ガトーには私を死んだものとして欲しい。メイは…グレーテルは夜に勝手に部屋から抜け出して、森の中でクマにでも食われて大地に還ったのだ。全て話して腐りきった魚のような私の本性を晒すよりも、そっちの方がずっと美しい結末じゃないか。

 私はあの日、なぜもう少し考えてからマルガレーテの手を取らなかったのか…と何度思ったかわからない。

 …でもまぁ、今考えると私はあそこから逃げ出したかったのだ。
 だから深く考えることをやめて、マルガレーテの手をとった。
 ガトーを騙している罪悪感に耐えられなかったから。部屋でガトーと二人きりの閉塞的な日々に限界を感じていたから。ガトーから向けられている感情に向き合うことが辛かったから。「これから」のことをもう考えたくなかったから。
 ただ、だからといって別に、マルガレーテの手を取る前の私の心が全部嘘だったわけじゃない。ガトーを守りたかったことも、ヨハン兄さんを守りたかったことも全部本心だ。心の底から思っていた。判断を翌日に持ち越せば私の「村に戻る」という覚悟が鈍っていたことも間違いない。それぐらいに私の心は揺れ動いていた。
 でも、だからこそ、私はその心の奥の「逃げたい」に背中を優しく押されてしまった。

 …結局、私はいつでも逃げてばっかりだ。本当に、なんて馬鹿で、なんて愚かな女なんだろう。

 こうやって過去の逃げた自分のことを罵倒しながらも、結局今の自分も逃げている。逃げた自分を恥じるならば、今すぐ現在の「逃げ」をやめてガトーのところに行って謝罪すればいいのだ。
 でも、結局そんなことはできずに、こうやって自分で自分を傷つけて、勝手に罪を贖ったつもりになっている。私が私の心を傷つけたところで、本当は別になんの意味も生産性もないし、ガトーが得るものはなにもないのに。本当に…嫌だ。

 でも、もっとイヤなのはガトーへの「罪悪感」とでもいうべき感情が少しずつ薄れていること。冬よりも春はガトーのことを考える時間は減ったし、今は春よりもさらにガトーのことを考える時間が減った。ゆっくりと、でも確実に私はガトーとの生活と私の罪を過去のものとしようとしている。…打ち明ける「恐怖」は消えないのに皮肉なことだ。
 


 そんな私にマルガレーテは、ただただ意味深な視線を寄越すばかりで、なにかを直接言ってくるようなことはなかった。
  村に帰ってから彼女に事情も…前世の云々は多少ぼかしつつなんやかんや全部話していたし、彼女はそれらを一応信じると言ってくれた。
 だけど、彼女は私がいつまでも村にいることについてなにもいってこなかった。そう、なかったのだ。
 
 …今日までは。

「あなた、いいの?」

 様々な薬草が生える村のはずれ。お菓子の家での暮らしで多少薬草に詳しくなった私は、村の人から薬草の採集を時々任されるようになっていた。
 なぜ、マルガレーテがここにいたのかはわからない。でも、挨拶と雑談を少しして、そろそろ私は薬草を摘まなきゃだから別れようという時にこの言葉をかけられた。

「いいって…なにが?」
「お菓子の家、戻るんじゃなかったの?」

 その言葉に、私は思わずマルガレーテから視線をそらし黙り込む。

「…私はあなたがこの村にいてくれて…嬉しくはないけど、でもまぁいないよりはマシって感じだから…別にいてくれていいけど。でも、いいの?」

 あなた、お菓子の家に必ず戻るってあんなに言ってたじゃない。なのに…

 と、視線を揺らすマルガレーテ。
 マルガレーテの言葉に糾弾の意思は感じられない。ただ親愛と心配が伝わってくる。でも、今の私にその質問は…痛い。

「それとも、やっぱりあなたは洗脳されてたの?」
「いや…」
「じゃあ、なんで?その程度の関係だったの?」
「…」

 「その程度の関係」という言葉が重い。その程度の関係では、おそらく…なかったと思う。恋愛とかそういうのではないけれど、温かくて優しい感情がそこには間違いなくあった。でも…

 再び黙り込んだ私に痺れを切らしたのか諦めたのか、マルガレーテは視線を少し彷徨わせながら口を開く。

「…たぶん、そうじゃないのよね。あなたの話が全部本当なら」

 彼女の声は、少しだけ震えている。

「…その…あなたたちの関係性を壊したのが私だとしたら…本当にごめんなさい」

 …なぜか謝られてしまった。

「いや、私が原因じゃないわけないわよね。だって、あなたのことを脅してあそこから連れ出したのは私だもの」

 そういってマルガレーテは自嘲でもするように、口の端を少し上げる。
 そんなマルガレーテを前に、私はただ無言で首を横に振ることしかできない。
 
 …苦しい。私の勇気のなさが原因で起きていることが、マルガレーテの心すらも蝕んでいる。
 彼女に全部事情を話してしまったばっかりに、私がガトーになにをしたのか、彼女が迎えに来たあの日がどういう日だったのか、マルガレーテは全部知っている。そして、私の性格も、思考回路も、私がどういう人間なのかも彼女はよく知っている。…全部知った上で、私がどういった感情に苛まれているか察せない彼女ではない。だから余計にきっと…。
 
 本当は全部私が悪いのだ。本当に。もともと嘘と偽りの上にガトーとの関係を築いたのは私だったし、あの日村に帰る決断をしたのも私だし、いつまでもお菓子の家に行かないのも私の弱さが理由だ。マルガレーテは私に情報を渡して、私の背中を押そうとする「逃げたい」気持ちにそっと手を添えただけなのだ。

 だから、本当にマルガレーテは悪くない。
 …そう言いたいのに、喉が締め付けられてなんの声も出ない。

「…本当に、ごめんなさい」

 いつも勝気な彼女のそんな言葉に、私はどうしようもなくなって半分泣きながら首を横に振る。

 そんな私を見て、マルガレーテはさらに表情を暗くする。

「…私は…」

 その言葉を絞り出したっきり、マルガレーテは俯き黙り込む。いや、正確には喉元まで言葉は出ているのに、それが舌に乗ろうとすると突然蒸発してしまうとでもいうような動作をずっとずっと繰り返していた。
 やがて、浅いため息を吐くと、自分を納得させるかのように小さく頷き、「やっぱなんでもない」と緩く左右の唇の端をあげた。

 明らかになんでもないわけがない彼女の言葉にも、私は結局何も言えないまま、俯くふりをして小さく首を縦にふった。
 その様子を確認すると、マルガレーテはさっきのなんでもなくない笑顔を再び浮かべて「…じゃあ、私は一足先に村に帰るわね」とその場から立ち去って行った。


 私は、その姿を見送った後も、薬草なんか摘む気になれなくて…ただ、その場で浅く息を吸っていた。






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