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19話「人魚姫の一人の夜」
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「夕影先輩、お疲れ様です」
「ありがとうございます」
プールから上がると、すかさずタオルが届けられる。
マネージャーの日和だ。夕影はそれを受け取りながら、今の練習を振り返る。今のはターンがうまくいかなかった。ターンの練習を増やさないといけないな。そんな風に思いながら時計を見る。大丈夫、まだ終わりまで時間はある。クールダウンの時間も必要だが、後少しは練習できるだろう。
「夕影先輩、タイムもいい感じですね」
「まだまだですよ。もう少し練習したいんだけど、どこのコース使っていいですか?」
「1なら大丈夫です。ターンの練習ですか?」
「どうしてわかったんですか?」
「最近、ターンの練習増やしてましたから、そうなのかなって。じゃあ、1コースはラストまでターン練習にしますね」
パタパタと走り去っていく日和の背中を見ながら、夕影は「よく見ているな」と感心してしまう。
マネージャーという役柄が好きなのか、彼女はいつもいきいきとしていた。他の部員が日和は中学高校でも水泳部のマネージャーをしていたらしいと言っていたのを思い出し、日和は競泳が好きなんだなっと、ついつい同じぐらい競泳好きな彼女を思い出してしまう。今日は遅番だという彼女を迎えにいくのを楽しみにしつつ、練習を続けようとした時だった。
「顔がにやけてるぞ」
「……幸太郎。七星さんの事を思い出してた」
「からかってるのに真面目に返すなよ」
声を掛けてきたのは幸太郎だった。幸太郎はもう練習を止めるするのか、帽子を取って頭からタオルを掛けていた。
「日和ちゃん、随分お前につきっきりだな」
「そんな事ないだろ」
「そんな事あるんだよ」
からかうために話しを掛けてきたと思ったが、どうやらそうではないらしい。急に真剣な表情になったと思うと、夕影との距離を詰め、小声で耳打ちしてきた。
「どうやら、日和は高校の時からお前のファンだったらしいぞ」
「……なんだよ、それ」
「高校の時も水泳部のマネージャーをしていたのは知っているだろう?その時におまえの泳ぎを見て憧れてたそうだ。見ためも好みだったのか、試合の度にこっそり応援してたらしいぞ」
「何でそんな事知ってるんだ?」
「水泳部の友達の彼女が聞いたらしい。まだ噂にはなってないが、日和ちゃんのファンは多いから気をつけろよ」
「気をつけろよって俺には彼女がいるって言えばいいだろう」
「日和ちゃんファンは、彼女を悲しませるなんてって怒るだろう」
「くだらないな」
「俺もそう思うよ。俺もお前には恋人がいるって部員たちに噂流しておくよ。とびきり美人で溺愛している年上彼女がってな」
「頼む」
「少し否定しろよ。まあ、本当のことか。じゃあな、あんまり練習しすぎて無理するなよ」
手首をヒラヒラさせながら立ち去る幸太郎を見送り、夕影は小さくため息をついた。
自分の事をファンだという日和。本当なのかわからないが、気にはしないが面倒なことに巻き込まれるのはごめんだった。今は試合に集中したい。あまり深くは関わらないようにしよう。そう心に決め、夕影はまた水の中に潜ったのだった。
ーーー
今日も1日、仕事が終わった。
七星は疲労感を感じながらも、充実感も味わいつつロッカールームで着替えをしていた。
夕影と水泳をしたり、体を鍛えるようになってから、どうも疲れにくくなったような気がしていた。それに足の具合もいい気がするのだ。好きなことをして、体の調子もよくなる。仕事終わりでも、少し遠回りして散歩でもしようかと思えるぐらいに、体力に余裕が出来た。いい調子だな、と思えた。
「あら、七星さん。今日はゆっくりでいいの?彼氏さん待っているんじゃない?」
「水野さん。お疲れ様です。今日は、用事があって」
話を掛けてきたのは同じ売店で働く水野だった。いつも急いで帰りの身支度をする七星が珍しかったようだ。
「いつも一緒に帰っているなんて、仲睦まじいわねってみんなで話してたの。それにお相手さんイケメンだし」
「え、そんな話しをしていたんですか?」
「そうよ。美男美女でお似合いねって。あ、そうそう。今日一人なら丁度良かったわ。駅前のパスタ屋さんのテイクアウト無料券をいただいたの。ちょっと遠いけど行ってみたら」
「嬉しいです!ありがとうございます」
水野から貰った無料引換券は、駅前にオープンしたばかりのイタリアンパスタのお店のものだった。七星も気になっていたがまだ行ったことがないお店だったので、ありがたくいただく事にした。
仕事帰りに駅前に行くのも久しぶりだ。いろいろと店を覗いてみようと、七星は久しぶりの一人の買い物を楽しもうと決めたのだった。
「少し買いすぎたかな」
七星の手には複数の紙袋やビニール袋がある。久しぶりに繁華街での買い物で、財布の紐も緩んでしまった。七星は食材やコスメ、本屋などを巡っていろいろと買い込んでしまった。
中でも気に入ったのは新しく見つけた紅茶屋だった。豊富な種類の紅茶が所狭しと置かれており、値段もお手ごとで七星は香りが気に入ったものを数点購入してしまった。夕影と食後のティータイムを楽しもうと思ったんだ。他にも焼き菓子を買いこんだ。夕影がいない時も、彼との時間を考えてしまう。夕影の存在が七星には大きくなっているのが感じてしまう。
「……夕影くん、喜んでくれるかな?」
彼とのティータイムを想像して、七星は1人微笑んでしまう。初めてのデートでも一緒に紅茶を楽しんでくれたのだから、嫌いということはないはずだ。夕影が喜んでくれるだろうと思い、頬が緩む。
そんな時だった。
近くを賑やかな団体が通り過ぎようとしていた。若い学生だろうか。みんな鍛えているのかガッシリとした体型の男の人達であった。七星が自然に視線を向かわせてのは、理由があった。夕影がいたからだ。
「……夕影くん」
彼もこの繁華街で集まっていたのだろう。お酒のせいかほんのり頬を赤くしながら、友達同士で仲良く話をしている。
「夕影先輩も2次会行きますよね?私も行くので来てくださいね」
「あー、俺は帰ろうかな。行きたいところあるし」
「ダメですよ!みんなで行くんですから」
夕影と話しているのは、少し前の練習試合の時に七星を案内してくれたマネージャーの日和だった。その日和という女性は甘ったるい声を出しながら、夕影の腕を取り、二次会に誘っていた。
その姿を見て、七星は「やめてほしい」「私の彼なのに」という気持ちではないものが湧き上がってきた。
「……やっぱりお似合い、だな」
大学生同士で、当たり前のように皆が若い。七星と一緒にいる時よりも、夕影の雰囲気が明るく、素のように感じられたのだ。夕影は友達と一緒だと、こんなににこやかに笑うのだ。七星と一緒にいる時とは違った笑顔である。
同年代の方が話しは合うし、気が楽なのだろうか。
それに七星と一緒に歩くより、日和と歩いているの方がお似合いのように感じてしまうのだ。美男美女のカップル。誰が見てもそう思うはずだ。自分と歩いている時はもしかしたら、年の離れたお姉さんに思われていたのかなっと考えると切なさは増してくる。
「早く、帰ろう」
七星は、自分の荷物をギュッと強く掴むと、学生の集団から逃げるように足早に去ったのだった。
あんなに楽しみにしていた紅茶も焼き菓子もすべて袋に入れたまま、七星は何も食べずに布団にもぐり寝てしまった。いや、寝れるはずはない。寝れない夜を1人で過ごしたのだった。
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