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恋愛結婚
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「姫様、今日も殿下からバラの花束が届きましたよ」
お昼頃、イレーヌが嬉しそうにピンク色のバラの花束と小さな紙の箱を抱えて部屋に入って来た。
初めてプリムローズがアルバートを拒絶した次の日から、これくらいの時間になると客間のテーブルにバラが置かれるようになった。
部屋に入れる人物は他にアルバートしかいない。
だから贈り主はアルバートなのだと、何も知らずにいるイレーヌはとても喜んでいる。
「それにおいしそうな焼き菓子まで! アーモンドのとても良い香りがします。早速、今日のティータイムのお茶受けにいただきましょう」
でもプリムローズは見てしまった。
窓から見下ろすことのできる中庭には色とりどりのバラが植えられている。アルバートがバラを手に入れるのは中庭なのだろうと思って昨日、これくらいの時間に外を眺めていた。
思った通りアルバートがやって来て、庭師に借りたのだろう。剪定用のハサミを手にバラを摘みはじめた。
プリムローズの為に忙しい中でもバラの花束を用意してくれる。
その事実が嬉しくて、淑女に相応しい振る舞いではないけれどプリムローズは窓を開けてアルバートに声をかけようとした。
「アル……」
その時だ。
見知らぬ令嬢が姿を見せた。
彼女はアルバートに気がつくと笑顔で近寄って行く。知り合いなのか、アルバートはバラを摘む手を止めて彼女の方を向いた。
アルバートがどんな顔をしているのかはもう見えない。
でも令嬢の笑顔がずっと崩れずにいることから、それなりに親しい間柄であることは窺えた。
(アルバート様が既婚者だってご存知ないの?)
そんなはずはない。
じゃあどうして一人でいるアルバートに近寄るのか。
どうしてアルバートも、人に見られたら誤解されてしまうかもしれないのに二人だけで話しているのか。
(そんなの、理由は一つしかない)
想い合う二人を、政略結婚が決められていたプリムローズが引き裂いてしまったのだ。
そしてこのまま白い結婚を貫いてプリムローズがフィラグランテに帰れば、彼女と結婚できるのだろう。
だったらもう、会わない方がいい。
会えばどんどん好きになる。
彼が生まれ育った国の話をたくさん聞くと、ずっといても良いのかと勘違いしてしまいそうになる。
プリムローズはレースのカーテンを引いて窓に背中を向けた。
部屋にはたくさんのバラで溢れている。
だけどもう、ちっとも嬉しくない。
王妃からお茶会への招待を受けたその帰り、事件が起こった。
「恐れ入ります、プリムローズ姫……でございますね?」
突然声をかけられ、プリムローズは足を止めた。
横から美しい令嬢――アルバートと一緒に中庭にいた令嬢だ――が、四人の侍女を従えて優雅に笑っている。
「いきなりのお声がけ、大変失礼致します。わたくしはボードレット侯爵家長女エリザベスにございます」
身分が低いエリザベスが声をかけて来たことに対し、イレーヌが不快そうな目を隠すことなく向けた。
けれどエリザベスはそんな視線など全く気にした様子もなく、優雅な仕草で口元を扇子で覆った。まるでプリムローズよりエリザベスの方が地位が高い。そんな態度だ。
「プリムローズ姫とは一度、ぜひお話をしたいと思っておりましたの。――アルバートのことで」
王太子のアルバートを敬称でもなく名前で呼んでいるということは、相当に親しいらしい。
だけどイレーヌは今にも撤回しろと言わんばかりの顔をする。正直な気持ちを言えばプリムローズも、決して面白くはなかった。
「すでにお話が耳に入っておられるかもしれませんが、アルバートとわたくしは子供の頃から結婚の約束をしておりますの。――ですから」
ひどく酷薄そうにエリザベスは目を細めた。
「一日も早くいなくなって下さらないかしら」
そうして彼女に従う侍女と共にクスクスと笑いはじめる。
何という侮辱的な言動だろうか。
プリムローズは怯むどころか逆に頭が冷えて行くのを感じた。
身分の高さが全てだとは思わない。
でも、相手との身分の差を弁えられないことはとても恥ずべきことだ。
「それはお約束をなさった殿下に訴えるべきことではないでしょうか。フィラグランテ国第一王女であり、イルダリア国王太子妃でもあるわたくしに初対面のあなたが言うべきことではありません」
「姫様……!」
凛と言い放つプリムローズに、イレーヌはよくぞ言ったとばかりに歓喜の声をにじませる。一方でエリザベスたちは鼻白んだ。
まさか反撃があるなどと思ってもみなかったのだろう。一国の王女なのに、ずいぶんと甘く見られている。
「な、何よ! 元は敗戦国の王女風情が偉そうに!」
エリザベスがヒステリックな声をあげれば、ますますプリムローズは冷静になった。
自国の民を、祖先をばかにすることは決して許されない。
戦が長引きそうな様相に、両国が歩み寄って和平が結ばれたと教えられている。その証拠に和平が結ばれて以降、不当に占拠されている領地は一つもない。国王と王妃もプリムローズを捕虜同然に扱ったりせず、貴人として接してくれていた。
イルダリアでは自国が勝戦国だと語り継がれているような発言は、いくら一介の令嬢のものであろうと国交問題に発展しかねない。
「訂正して下さい。祖先たちは皆が勇敢に戦ってくれました。彼らの働きがあったからこそ今のわたくしがおります。決して風情などと、軽んじられる立場ではありません」
「可愛げがない妻では、アルバートもわたくしに安らぎを見出して当然ね」
「……っ」
その言葉が、いちばんプリムローズの心を抉った。
エリザベスもそこに気がついたらしい。再び口元を意地悪そうに吊り上げる。女として勝った。そういう顔だ。
「一体何の騒ぎだ」
王妃とのお茶会が終わったと連絡を受けたからなのか、エリザベスがプリムローズと接触を持ったからなのか。
いずれにしろ偶然とは思えないタイミングでアルバートが姿を見せた。
「アルバート……!」
エリザベスはアルバートを見るなり、涙ながらに駆け寄った。先程までの態度はどこへやら、一転して弱々しい態度でしなだれかかる。
「プリムローズ様ったらひどいの。フィラグランテの王女であることを笠に着て、わたくしにひどい暴言を……」
「まあ! 我が姫様を一方的に侮辱しておいて、正当な反論をされたら暴言だなどと何て言い草!」
嘘をつくエリザベスにイレーヌは激昂した。
どんな時もイレーヌは味方でいてくれる。そのことに強い喜びを覚えながらプリムローズはやんわりと首を振り、たった一人の味方である彼女を制した。
アルバートは、エリザベスの言い分を信じるのだろう。
だって、本当に結婚したい人だから。
「姫、」
「わたくしが否定したところで、エリザベス様のお味方はそちらの侍女も含めて五人いらっしゃいます。イレーヌしかいないわたくしが何を申し上げようと、信じては下さらないのでしょう?」
五人。
その数字にアルバートが表情を変えた。
エリザベスが連れている侍女は全部で四人だ。残りの一人は自分のことを示していると気がついたのだろう。
「申し開きは何も致しません。どうぞエリザベス様の証言を受けて、殿下がご判断なさって下さい。そのご決定に、従いますから」
「姫様……!」
「いいの。行きましょう、イレーヌ」
期待なんてしない。
プリムローズは一行に対して淑女の礼をすると顔を上げたまま、王女らしく毅然とした姿勢を崩さずにその横を通り抜けた。
背中に侮蔑と優越感のこもった強い視線が刺さる。振り向けばきっと、エリザベスは勝ち誇った笑みを浮かべているに違いない。でもプリムローズには勝ち負けなんてどうでも良かった。
「待って下さい、姫。話したいことがあります」
足を止めることも振り返ることもしない。
プリムローズは政略で嫁いで来た、たった一年限りの妻でしかないのだ。
「――リジィ!」
後ろから手を掴まれた。
何が起こったのか分からなくて顔を上げる。
真剣な、けれどどこか泣きそうな顔でアルバートがプリムローズの手を掴んでいた。
「アルバート、様……?」
その表情には見覚えがあった。
初めて会った時と同じだ。あの時のアルバートは母である王妃を亡くしたばかりなのだと後で知った。
「少しの時間だけでも構いません。あなたと話がしたい」
同意がない白い結婚なんて続かない。でもプリムローズはやっぱり、妥協なんてできなかった。
それならば誤魔化しのきかない亀裂が入る前に、しっかりと決めておくべきことなのだろう。
プリムローズが覚悟を決めて頷き返せば、手を離すことのないままアルバートは足を進めた。そうして部屋に辿り着くとようやく手を離し、向き合って座る。
イレーヌがすぐに紅茶を淹れてくれた。
ただし、話し合いの場に顔を出すわけには行かない。プリムローズを気遣うような視線を向けつつ部屋を後にした。
「一年と言わず明日にでも離縁して祖国フィラグランテに帰ろうと思います。未熟なわたくしではイルダリアの王妃は務まりそうにないと、皆様には説明致しますから」
先に口を開いたのはプリムローズだった。
エリザベスに傷つけられた心が痛い。
早く一人になって、大きな声で泣きたかった。
「それは――できません」
「どうしてですか」
十年前から決められていた政略結婚だ。
プリムローズのわがまま一つで三カ月も経たずに終わらせられるものでもない。でも、終わらせるべきなのだと思った。
「妻として愛して欲しいと願うのもだめ。明日帰るのもだめ。アルバート様が他の方とご結婚なさる日まで、わたくしは一年間ずっと檻の中にいろと仰るのですか」
「他の人と結婚?」
「そうお伺いしました。子供の頃から心に決めた方がいらっしゃると」
「誰からその話を?」
「エリザベス様です。先程そう仰っていました」
余計なことを。
アルバートの表情がそう言っている気がした。
それなら、アルバートの口から直接プリムローズに告げたら良かったのだ。白い結婚だなんて遠回しなことを言わず、本当は別に想い続けている人がいるのだと。
「あなたにだけは、言わずにいようと思っていたのに」
ため息と共にアルバートが呟く。
今にも涙が出そうになった。懸命に両手を握りしめて堪える。
でも無理だった。
涙が頬を伝う。
それを見てアルバートが椅子から立ち上がった。躊躇いがちに手を伸ばし、そっと拭ってくれる。
「隠し続けて来た自分の想いを、他人の口から伝えられるというのも癪なものですね。だったら最初から、あなたを愛していると伝えてしまえば良かった」
「え……。アルバート様は、エリザベス様と心を通じ合わせていらっしゃるのでは、ないのですか?」
「えっ?」
同じ言葉が、ニュアンスを変えてお互いの口からこぼれた。
アルバートは口元を手で覆った。けれどすぐに膝の上で固く握られたプリムローズの手を優しく開かせ、包み込む。
「私が初めて会った日からずっと、あなたを十年も想い続けていることを聞いたのではなかったのですか」
「違、います、でも」
「まだ恋も知らない九歳のあなたに将来、政略結婚をさせてしまうことが申し訳なく、でも私の元に嫁いで来てくれることを嬉しく思っていました」
再び涙が潤んだ。
「わたくしがこの十年間、アルバート様の元にお嫁に行ける日をどれだけ楽しみにしていたか、知りもしないで……っ」
「――すみません」
「人の気持ちを勝手に決めつけないで下さい」
とうとうしゃくりあげれば抱き締められた。
背中に手を回し、好き、と繰り返す。私もです、そう返って来るのがたまらなく幸せだった。
「責任を持って、先っぽだけじゃなくって全部、入れて下さい」
「あなたは、ご自身が何を仰っているのか分かっているのですか」
「もちろんですとも」
アルバートは困ったように笑う。
そっと唇が触れ合った。
結婚式で誓いの為にした口づけ以来だ。
でも、これが本当の意味で初めての口づけだった。
お昼頃、イレーヌが嬉しそうにピンク色のバラの花束と小さな紙の箱を抱えて部屋に入って来た。
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だから贈り主はアルバートなのだと、何も知らずにいるイレーヌはとても喜んでいる。
「それにおいしそうな焼き菓子まで! アーモンドのとても良い香りがします。早速、今日のティータイムのお茶受けにいただきましょう」
でもプリムローズは見てしまった。
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思った通りアルバートがやって来て、庭師に借りたのだろう。剪定用のハサミを手にバラを摘みはじめた。
プリムローズの為に忙しい中でもバラの花束を用意してくれる。
その事実が嬉しくて、淑女に相応しい振る舞いではないけれどプリムローズは窓を開けてアルバートに声をかけようとした。
「アル……」
その時だ。
見知らぬ令嬢が姿を見せた。
彼女はアルバートに気がつくと笑顔で近寄って行く。知り合いなのか、アルバートはバラを摘む手を止めて彼女の方を向いた。
アルバートがどんな顔をしているのかはもう見えない。
でも令嬢の笑顔がずっと崩れずにいることから、それなりに親しい間柄であることは窺えた。
(アルバート様が既婚者だってご存知ないの?)
そんなはずはない。
じゃあどうして一人でいるアルバートに近寄るのか。
どうしてアルバートも、人に見られたら誤解されてしまうかもしれないのに二人だけで話しているのか。
(そんなの、理由は一つしかない)
想い合う二人を、政略結婚が決められていたプリムローズが引き裂いてしまったのだ。
そしてこのまま白い結婚を貫いてプリムローズがフィラグランテに帰れば、彼女と結婚できるのだろう。
だったらもう、会わない方がいい。
会えばどんどん好きになる。
彼が生まれ育った国の話をたくさん聞くと、ずっといても良いのかと勘違いしてしまいそうになる。
プリムローズはレースのカーテンを引いて窓に背中を向けた。
部屋にはたくさんのバラで溢れている。
だけどもう、ちっとも嬉しくない。
王妃からお茶会への招待を受けたその帰り、事件が起こった。
「恐れ入ります、プリムローズ姫……でございますね?」
突然声をかけられ、プリムローズは足を止めた。
横から美しい令嬢――アルバートと一緒に中庭にいた令嬢だ――が、四人の侍女を従えて優雅に笑っている。
「いきなりのお声がけ、大変失礼致します。わたくしはボードレット侯爵家長女エリザベスにございます」
身分が低いエリザベスが声をかけて来たことに対し、イレーヌが不快そうな目を隠すことなく向けた。
けれどエリザベスはそんな視線など全く気にした様子もなく、優雅な仕草で口元を扇子で覆った。まるでプリムローズよりエリザベスの方が地位が高い。そんな態度だ。
「プリムローズ姫とは一度、ぜひお話をしたいと思っておりましたの。――アルバートのことで」
王太子のアルバートを敬称でもなく名前で呼んでいるということは、相当に親しいらしい。
だけどイレーヌは今にも撤回しろと言わんばかりの顔をする。正直な気持ちを言えばプリムローズも、決して面白くはなかった。
「すでにお話が耳に入っておられるかもしれませんが、アルバートとわたくしは子供の頃から結婚の約束をしておりますの。――ですから」
ひどく酷薄そうにエリザベスは目を細めた。
「一日も早くいなくなって下さらないかしら」
そうして彼女に従う侍女と共にクスクスと笑いはじめる。
何という侮辱的な言動だろうか。
プリムローズは怯むどころか逆に頭が冷えて行くのを感じた。
身分の高さが全てだとは思わない。
でも、相手との身分の差を弁えられないことはとても恥ずべきことだ。
「それはお約束をなさった殿下に訴えるべきことではないでしょうか。フィラグランテ国第一王女であり、イルダリア国王太子妃でもあるわたくしに初対面のあなたが言うべきことではありません」
「姫様……!」
凛と言い放つプリムローズに、イレーヌはよくぞ言ったとばかりに歓喜の声をにじませる。一方でエリザベスたちは鼻白んだ。
まさか反撃があるなどと思ってもみなかったのだろう。一国の王女なのに、ずいぶんと甘く見られている。
「な、何よ! 元は敗戦国の王女風情が偉そうに!」
エリザベスがヒステリックな声をあげれば、ますますプリムローズは冷静になった。
自国の民を、祖先をばかにすることは決して許されない。
戦が長引きそうな様相に、両国が歩み寄って和平が結ばれたと教えられている。その証拠に和平が結ばれて以降、不当に占拠されている領地は一つもない。国王と王妃もプリムローズを捕虜同然に扱ったりせず、貴人として接してくれていた。
イルダリアでは自国が勝戦国だと語り継がれているような発言は、いくら一介の令嬢のものであろうと国交問題に発展しかねない。
「訂正して下さい。祖先たちは皆が勇敢に戦ってくれました。彼らの働きがあったからこそ今のわたくしがおります。決して風情などと、軽んじられる立場ではありません」
「可愛げがない妻では、アルバートもわたくしに安らぎを見出して当然ね」
「……っ」
その言葉が、いちばんプリムローズの心を抉った。
エリザベスもそこに気がついたらしい。再び口元を意地悪そうに吊り上げる。女として勝った。そういう顔だ。
「一体何の騒ぎだ」
王妃とのお茶会が終わったと連絡を受けたからなのか、エリザベスがプリムローズと接触を持ったからなのか。
いずれにしろ偶然とは思えないタイミングでアルバートが姿を見せた。
「アルバート……!」
エリザベスはアルバートを見るなり、涙ながらに駆け寄った。先程までの態度はどこへやら、一転して弱々しい態度でしなだれかかる。
「プリムローズ様ったらひどいの。フィラグランテの王女であることを笠に着て、わたくしにひどい暴言を……」
「まあ! 我が姫様を一方的に侮辱しておいて、正当な反論をされたら暴言だなどと何て言い草!」
嘘をつくエリザベスにイレーヌは激昂した。
どんな時もイレーヌは味方でいてくれる。そのことに強い喜びを覚えながらプリムローズはやんわりと首を振り、たった一人の味方である彼女を制した。
アルバートは、エリザベスの言い分を信じるのだろう。
だって、本当に結婚したい人だから。
「姫、」
「わたくしが否定したところで、エリザベス様のお味方はそちらの侍女も含めて五人いらっしゃいます。イレーヌしかいないわたくしが何を申し上げようと、信じては下さらないのでしょう?」
五人。
その数字にアルバートが表情を変えた。
エリザベスが連れている侍女は全部で四人だ。残りの一人は自分のことを示していると気がついたのだろう。
「申し開きは何も致しません。どうぞエリザベス様の証言を受けて、殿下がご判断なさって下さい。そのご決定に、従いますから」
「姫様……!」
「いいの。行きましょう、イレーヌ」
期待なんてしない。
プリムローズは一行に対して淑女の礼をすると顔を上げたまま、王女らしく毅然とした姿勢を崩さずにその横を通り抜けた。
背中に侮蔑と優越感のこもった強い視線が刺さる。振り向けばきっと、エリザベスは勝ち誇った笑みを浮かべているに違いない。でもプリムローズには勝ち負けなんてどうでも良かった。
「待って下さい、姫。話したいことがあります」
足を止めることも振り返ることもしない。
プリムローズは政略で嫁いで来た、たった一年限りの妻でしかないのだ。
「――リジィ!」
後ろから手を掴まれた。
何が起こったのか分からなくて顔を上げる。
真剣な、けれどどこか泣きそうな顔でアルバートがプリムローズの手を掴んでいた。
「アルバート、様……?」
その表情には見覚えがあった。
初めて会った時と同じだ。あの時のアルバートは母である王妃を亡くしたばかりなのだと後で知った。
「少しの時間だけでも構いません。あなたと話がしたい」
同意がない白い結婚なんて続かない。でもプリムローズはやっぱり、妥協なんてできなかった。
それならば誤魔化しのきかない亀裂が入る前に、しっかりと決めておくべきことなのだろう。
プリムローズが覚悟を決めて頷き返せば、手を離すことのないままアルバートは足を進めた。そうして部屋に辿り着くとようやく手を離し、向き合って座る。
イレーヌがすぐに紅茶を淹れてくれた。
ただし、話し合いの場に顔を出すわけには行かない。プリムローズを気遣うような視線を向けつつ部屋を後にした。
「一年と言わず明日にでも離縁して祖国フィラグランテに帰ろうと思います。未熟なわたくしではイルダリアの王妃は務まりそうにないと、皆様には説明致しますから」
先に口を開いたのはプリムローズだった。
エリザベスに傷つけられた心が痛い。
早く一人になって、大きな声で泣きたかった。
「それは――できません」
「どうしてですか」
十年前から決められていた政略結婚だ。
プリムローズのわがまま一つで三カ月も経たずに終わらせられるものでもない。でも、終わらせるべきなのだと思った。
「妻として愛して欲しいと願うのもだめ。明日帰るのもだめ。アルバート様が他の方とご結婚なさる日まで、わたくしは一年間ずっと檻の中にいろと仰るのですか」
「他の人と結婚?」
「そうお伺いしました。子供の頃から心に決めた方がいらっしゃると」
「誰からその話を?」
「エリザベス様です。先程そう仰っていました」
余計なことを。
アルバートの表情がそう言っている気がした。
それなら、アルバートの口から直接プリムローズに告げたら良かったのだ。白い結婚だなんて遠回しなことを言わず、本当は別に想い続けている人がいるのだと。
「あなたにだけは、言わずにいようと思っていたのに」
ため息と共にアルバートが呟く。
今にも涙が出そうになった。懸命に両手を握りしめて堪える。
でも無理だった。
涙が頬を伝う。
それを見てアルバートが椅子から立ち上がった。躊躇いがちに手を伸ばし、そっと拭ってくれる。
「隠し続けて来た自分の想いを、他人の口から伝えられるというのも癪なものですね。だったら最初から、あなたを愛していると伝えてしまえば良かった」
「え……。アルバート様は、エリザベス様と心を通じ合わせていらっしゃるのでは、ないのですか?」
「えっ?」
同じ言葉が、ニュアンスを変えてお互いの口からこぼれた。
アルバートは口元を手で覆った。けれどすぐに膝の上で固く握られたプリムローズの手を優しく開かせ、包み込む。
「私が初めて会った日からずっと、あなたを十年も想い続けていることを聞いたのではなかったのですか」
「違、います、でも」
「まだ恋も知らない九歳のあなたに将来、政略結婚をさせてしまうことが申し訳なく、でも私の元に嫁いで来てくれることを嬉しく思っていました」
再び涙が潤んだ。
「わたくしがこの十年間、アルバート様の元にお嫁に行ける日をどれだけ楽しみにしていたか、知りもしないで……っ」
「――すみません」
「人の気持ちを勝手に決めつけないで下さい」
とうとうしゃくりあげれば抱き締められた。
背中に手を回し、好き、と繰り返す。私もです、そう返って来るのがたまらなく幸せだった。
「責任を持って、先っぽだけじゃなくって全部、入れて下さい」
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