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五章
1.夢の世界
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悪夢の書に取り込まれてから何度日が巡ったことだろうか。
なんてことのない日々が目の前で繰り返されていく。身体は自由に動かせず、声さえも自らの意思で発することは出来ない。まるで誰かの身体に入り込んで感覚を共有させてもらっているかのよう。その身体の主は『イーディス』と呼ばれていた。だが同じなのは名前だけではない。鏡の前に立った時に見えた姿は紛れもなくイーディスのもの。ただ、少し印象が違う。覇気がないのだ。よく手入れされた髪は艶があるものの、目は光を失ったようにくすんでいた。この世に希望がないとでも思っているかのよう。きっと夢の中の『イーディス』にとって、この世界にはもう希望も何もないのだろう。
婚約者は『イーディス』に興味はなく、唯一の友人であったマリアもこの世を去っているのだから。
この世界はまるで乙女ゲームの世界のようだ。乙女ゲームではマリアの存在は明かされていない。モブの友人役などさして重要ではなかったのだろう。だが婚約解消を言い渡される場面で彼女の味方が誰もいなかったことだけは確かだ。もしかしたらあの世界でも『イーディス』の唯一の友人は、身体の弱い彼女は亡くなってしまっていたのかもしれない。
「行ってまいります」
「お気をつけて」
使用人に見送られた『イーディス』は馬車に乗り込み、学園に向かう。悪夢のような空間へ毎日向かわねばならないのだ。
「今日もまたあの子、リガロ様の隣にいるわ」
「あの図々しさが私達にもあればいいのですけど」
「まぁあれでも公爵家の養子ですから。断れないのでしょう」
「イーディス様、あなた言ってきなさいよ。彼は私の婚約者だって」
「私は、リガロ様がいいのであればそれで構いませんわ」
「いくらあなたに魅力がないからって相手は元平民ですよ」
「あなたがそんなだから聖女様は調子に乗るのですわ。本当にやんなっちゃう」
この世界の『イーディス』はリガロに脳筋がと暴言を吐くこともなければ、令嬢達からどんなに嫌みを言われても受け流してきた。けれどやはり嫌われたまま。周りにはいつだって嫌みな令嬢達がいる。
剣聖の孫に気安く話しかける元平民は気に入らない。けれど彼女は養子とはいえ、公爵家の令嬢なのだ。男爵・子爵辺りの令嬢が突っかかれるような相手ではない。だから代わりに婚約者である『イーディス』の元へやって来るのだ。
元平民の女にたった一ヶ月とせずに婚約者を取られた惨めな女ーーそれが『イーディス』の立ち位置だった。
けれど『イーディス』に何が出来るというのか。
ゲームの中のようにリガロは周りに明るく振る舞っている。外から見ればこの一年で彼は変わったように見えるだろう。確かに彼は変わった。ゲーム設定である脳筋キャラもピタリと当てはまっているように見える。だが『イーディス』から見た彼は全く違った。『イーディス』に向けられるリガロの瞳はいつだって海の底みたいに冷え切っていた。嫌悪を孕んだ瞳に初めこそ戸惑った。けれどこの一年で『イーディス』も変わったのだ。親友を失った彼女はついに婚約者に期待することを止めた。とっくにボロボロになっていた恋心は剣聖 ザイル=フライドへの憧れを育てる養分にし、『剣聖の誕生』に尽くすことにした。どんなに彼が『イーディス』を嫌っていようとも、『イーディス』は『剣聖の孫』の婚約者に選ばれたのだ。リガロの成長を阻害しないように他の令嬢達から嫌みを言われる壁になるーーそれが自分の役目だと思い込むことにした。
相変わらずリガロには嫌われたまま。登下校が別どころか、学園で挨拶しても無視される。さすがに社交界は共に参加してくれるが、会場に入った後は放置されることがほとんどだ。なぜ嫌われているのか、理由さえも分からない。けれど昔のようには傷つかない。
例え他の女性と懇意にしていようと、それがリガロの意思であれば『イーディス』は邪魔しようとは思わなかった。それどころかスチュワート王子の婚約者であるローザが嫌がらせをする姿を遠目で眺めながら、よくやるものだと感心していた。
「私の方が彼を愛しているのに!」
ローザのようにメラメラと燃えさかる恋心を『イーディス』は知らない。彼女の中にあるのは、リガロが次の剣聖になってくれますようにとの願いだけ。毎日繰り返し告げられる令嬢達からの嫌みも、学園での様子を気にする両親も、どうでも良かった。
リガロも『イーディス』の思いがないことに気付いたのだろう。聖女との仲を深めていく度に『イーディス』の扱いはぞんざいになっていった。
特に王家の夜会での扱いはひどかった。会場入りした途端に飲み物と共に壁に追いやられた。まるでここから動くな、間違っても聖女様の視界に入るなとでも言うように。放置さえもしてくれなかったのだ。リガロ自身は会場の真ん中で、彼の色を纏った聖女様とダンスをし、バルコニーで楽しそうに話を弾ませる。ご丁寧にも『イーディス』を追いやったのとは真逆の場所を選んで。その間『イーディス』が散々令嬢達に嫌みを言われ、令息達には嗤われていたことなど知ろうともしない。だから平気で彼女と二人きりで外泊だってする。
この世界のリガロは、『イーディス=フランシカ』に転生する前にイーディスが嫌っていた男そのもの。いや、『イーディス』の視点で見た彼は画面越しに見る以上に最悪だった。メリーズもよくもまぁこんなモラハラ予備軍みたいな男に惚れたものだ。
とはいえ、そのお陰で『イーディス』は『リガロ』から解放されることになるのだが。
なんてことのない日々が目の前で繰り返されていく。身体は自由に動かせず、声さえも自らの意思で発することは出来ない。まるで誰かの身体に入り込んで感覚を共有させてもらっているかのよう。その身体の主は『イーディス』と呼ばれていた。だが同じなのは名前だけではない。鏡の前に立った時に見えた姿は紛れもなくイーディスのもの。ただ、少し印象が違う。覇気がないのだ。よく手入れされた髪は艶があるものの、目は光を失ったようにくすんでいた。この世に希望がないとでも思っているかのよう。きっと夢の中の『イーディス』にとって、この世界にはもう希望も何もないのだろう。
婚約者は『イーディス』に興味はなく、唯一の友人であったマリアもこの世を去っているのだから。
この世界はまるで乙女ゲームの世界のようだ。乙女ゲームではマリアの存在は明かされていない。モブの友人役などさして重要ではなかったのだろう。だが婚約解消を言い渡される場面で彼女の味方が誰もいなかったことだけは確かだ。もしかしたらあの世界でも『イーディス』の唯一の友人は、身体の弱い彼女は亡くなってしまっていたのかもしれない。
「行ってまいります」
「お気をつけて」
使用人に見送られた『イーディス』は馬車に乗り込み、学園に向かう。悪夢のような空間へ毎日向かわねばならないのだ。
「今日もまたあの子、リガロ様の隣にいるわ」
「あの図々しさが私達にもあればいいのですけど」
「まぁあれでも公爵家の養子ですから。断れないのでしょう」
「イーディス様、あなた言ってきなさいよ。彼は私の婚約者だって」
「私は、リガロ様がいいのであればそれで構いませんわ」
「いくらあなたに魅力がないからって相手は元平民ですよ」
「あなたがそんなだから聖女様は調子に乗るのですわ。本当にやんなっちゃう」
この世界の『イーディス』はリガロに脳筋がと暴言を吐くこともなければ、令嬢達からどんなに嫌みを言われても受け流してきた。けれどやはり嫌われたまま。周りにはいつだって嫌みな令嬢達がいる。
剣聖の孫に気安く話しかける元平民は気に入らない。けれど彼女は養子とはいえ、公爵家の令嬢なのだ。男爵・子爵辺りの令嬢が突っかかれるような相手ではない。だから代わりに婚約者である『イーディス』の元へやって来るのだ。
元平民の女にたった一ヶ月とせずに婚約者を取られた惨めな女ーーそれが『イーディス』の立ち位置だった。
けれど『イーディス』に何が出来るというのか。
ゲームの中のようにリガロは周りに明るく振る舞っている。外から見ればこの一年で彼は変わったように見えるだろう。確かに彼は変わった。ゲーム設定である脳筋キャラもピタリと当てはまっているように見える。だが『イーディス』から見た彼は全く違った。『イーディス』に向けられるリガロの瞳はいつだって海の底みたいに冷え切っていた。嫌悪を孕んだ瞳に初めこそ戸惑った。けれどこの一年で『イーディス』も変わったのだ。親友を失った彼女はついに婚約者に期待することを止めた。とっくにボロボロになっていた恋心は剣聖 ザイル=フライドへの憧れを育てる養分にし、『剣聖の誕生』に尽くすことにした。どんなに彼が『イーディス』を嫌っていようとも、『イーディス』は『剣聖の孫』の婚約者に選ばれたのだ。リガロの成長を阻害しないように他の令嬢達から嫌みを言われる壁になるーーそれが自分の役目だと思い込むことにした。
相変わらずリガロには嫌われたまま。登下校が別どころか、学園で挨拶しても無視される。さすがに社交界は共に参加してくれるが、会場に入った後は放置されることがほとんどだ。なぜ嫌われているのか、理由さえも分からない。けれど昔のようには傷つかない。
例え他の女性と懇意にしていようと、それがリガロの意思であれば『イーディス』は邪魔しようとは思わなかった。それどころかスチュワート王子の婚約者であるローザが嫌がらせをする姿を遠目で眺めながら、よくやるものだと感心していた。
「私の方が彼を愛しているのに!」
ローザのようにメラメラと燃えさかる恋心を『イーディス』は知らない。彼女の中にあるのは、リガロが次の剣聖になってくれますようにとの願いだけ。毎日繰り返し告げられる令嬢達からの嫌みも、学園での様子を気にする両親も、どうでも良かった。
リガロも『イーディス』の思いがないことに気付いたのだろう。聖女との仲を深めていく度に『イーディス』の扱いはぞんざいになっていった。
特に王家の夜会での扱いはひどかった。会場入りした途端に飲み物と共に壁に追いやられた。まるでここから動くな、間違っても聖女様の視界に入るなとでも言うように。放置さえもしてくれなかったのだ。リガロ自身は会場の真ん中で、彼の色を纏った聖女様とダンスをし、バルコニーで楽しそうに話を弾ませる。ご丁寧にも『イーディス』を追いやったのとは真逆の場所を選んで。その間『イーディス』が散々令嬢達に嫌みを言われ、令息達には嗤われていたことなど知ろうともしない。だから平気で彼女と二人きりで外泊だってする。
この世界のリガロは、『イーディス=フランシカ』に転生する前にイーディスが嫌っていた男そのもの。いや、『イーディス』の視点で見た彼は画面越しに見る以上に最悪だった。メリーズもよくもまぁこんなモラハラ予備軍みたいな男に惚れたものだ。
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