精霊の御子

神泉朱之介

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37話

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 冷んやりとした空気が肌に触れる。
 ひっそりと澄んだ青い水を湛える地下湖。
 その畔に、黒髪の雅な青年は佇んでいた。
 黒銀のマントが天井から微かに差し入る太陽の光を反射した、水の照り返しにきらきらと輝いている。
「ナリェ?」
 李玲峰イレイネ は歩み寄りながら、呼びかけた。
 おずおずと、その傍らへと行って、水際の岩に腰を下ろす。
 那理恵渡玲ナリエドレ は拒まなかった。
 黙って、湖の水面をみつめている。
 昔から、那理恵渡玲ナリエドレ はあまり表情を顔に映さなかった。
 それでも、不思議にその青年の物静かな眼差しは、いつも何かを語っていたものだが。
那理恵渡玲ナリエドレ、怒っている?」
 李玲峰イレイネ は、ついに弁解がましく、そう語りかけた。
「怒っているよね。
 もうこの島には戻っちゃいけないって言われたのに。それなのに。でも、さ……」
「もし、わたしがあなたの訪れを拒むつもりなら、あなたの飛行船はこの島に着地することは出来なかったしょう、王子よ。おそらく、この 宇無土ウムド をみつけることすら出来なかった」
「それって、つまり、来ても良かったってこと。那理恵渡玲ナリエドレ ?」
「さぁ、わかりません。
 しかし、わたしがあなたにしてさしあげられることは多くはありませんね、李玲峰イレイネ
 那理恵渡玲ナリエドレ は 李玲峰イレイネ の方を見下ろし、そして微笑んだ。
「あなたが決断し、あなたが行動しなければなりません。それを、わたしが代行するわけにはいかない。
 わかりますか?」
「うん、わかるよ。
 李玲峰イレイネ は、少しひるんだような顔になった。
 岩の上で、膝を抱え込む。
「やることは、決めているんだ。根威座ネイザ へ行く」
根威座ネイザ へ?」
 那理恵渡玲ナリエドレ の声には、僅かに驚きが混じった。
「驚いた? でも、仕方ないじゃないか!
 このままじゃ、於呂禹オロウ と戦うしかなくなっちゃう! 於呂禹オロウ を正気に戻さなくっちゃ。それが出来る可能性がある者がいるとしたら、それって、おれだけでしょう、那理恵渡玲ナリエドレ
 於呂禹オロウ のことを諦めるのは嫌だ! だから、根威座ネイザ へ行って、真相を確かめてくる。於呂禹オロウ に何があったか」
 李玲峰イレイネ は、思いつめた表情で、一気に言った。
「もう、決断したのですか?」
 黒髪の青年は無表情に尋ねた。
「うん」
 李玲峰イレイネ は、きっぱりと答えた。
 炎の髪の少年はそして、強くぐい、と黒い双眸を 那理恵渡玲ナリエドレ へと向けた。
「だから。その前に、と思って、こっちに来てみたんだ。何か、少しでもわからないかな、と思って。於呂禹オロウ と、麗羅符露レイラフロ 、レイラのことについて。
 ナリェ、炎の精霊王 は言ったよ。まだ、間に合うって。そう、言ってくれたような気がする。
 だから、おれはその可能性に賭ける!
 今のまま戦ってたって、埒があかないからね」
 那理恵渡玲ナリエドレ は、愛し子へと静かな眼差しを投げた。
 その眼差しは、ほんの微かに微笑んでいるように 李玲峰イレイネ には思えた。
李玲峰イレイネ。先ほども言いましたように、わたしがあなたにしてあげられることは僅かです。あなたには、もうすでに教えるべきことはすべて教えましたので。
 でも、僅かでもよろしければ、力を貸しましょう」
「ナリェ!」
 李玲峰イレイネ は、嬉しそうに顔をほころばせた。
 那理恵渡玲ナリエドレ は、その期待を先に制するように、むしろ表情を読み取りにくい、厳し顔つきになった。
「言ったでしょう、僅かですが、と。
 あなたには夢見草の幻を見せてさしあげましょう、李玲峰イレイネ 」
「夢見草の幻?」
「ええ。
 少々危険ですが。思う気持ちさえ強ければ、あなたは何かを得られることでしょう。
 あなたは深い夢を見て、その中で望む真実の答えに限りなく近いものを得ることが出来ます。でも、それは真実に限りなく近いものでも、真実である、とは限りません。
 それでも、何も無いよりは、ひとつの指針として役立ってくれるでしょう。たった一つでも展望が見えれば、様々な可能性の扉が開かれる。そういうものではありませんか?」
「うん、そうだね。ナリェ」
 李玲峰イレイネ は、素直にうなずいた。


 場所は、ここが良いでしょう、と 那理恵渡玲ナリエドレ は言った。
 この、地下湖のほとり。
 ここは、麗羅符露レイラフロ と 於呂禹オロウ 、それに 李玲峰イレイネ の、三人の 精霊の御子 が強い想いを残している場所だ。
 引き離された時の悲しみ、悔しさ、そして痛み。
 すべて、この場所に残っている。
 那理恵渡玲ナリエドレ は、血のような紅色に黄色い斑点のある、山百合のような花を摘んできた。
 その花には、どこか禍々しさを感じさせるものがあった。
 那理恵渡玲ナリエドレ は湖の畔に小枝で櫓を築き、それに火をつけた。
 真っ赤に燃えたところで、その紅い禍々しい花の花片をちぎって投げ込むと、それは甘い、ねっとりした匂いを発し始めた。
 気が遠くなるような、重い香りだ。
李玲峰イレイネ。一息だけ、この匂いを胸いっぱいに吸い込みなさい。ゆっくり。用心して」
 那理恵渡玲ナリエドレ に言われて、花を焼く炎の脇へと進み出た。
「心を落ち着けて。
 怖がると、悪い夢に陥ります。怖がる必要はありません。二人のことを考えなさい。
 於呂禹オロウ と、麗羅符露レイラフロ のことを」
 李玲峰イレイネ はうなずいた。
 もとより、炎への恐怖はない。
 炎は、いつだって彼の味方、友達なのだから。
 炎へと向かってゆき、目を瞑って匂いを胸の中に吸い込んだ。
 一瞬、くらり、と地面が揺らいだ。
(……何……だ?)
 目眩。
 そして、浮遊するような感覚。
 肉体をそこに置いて、はじけるように心だけが飛翔する!


 水のイメージ。
 見渡す限りの水。
 水の原。
 押し寄せる、透明な水。
 まるで草の波のように、その水面には一面に波が寄っている。
 金色に輝く波頭。
 きらきらとはじける、光のイメージが脳裏を占める。
(レイラ。於呂禹オロウ !)
 李玲峰イレイネ は呼んだ。
 すると、心を圧倒する水と光が綾なす不思議なイメージは、次第に引いていく。
 代わりに、闇が心に満ちた。
 悲しみと、苦痛と。
「イレー」
 於呂禹オロウ の声が遠くから聞こえた。
 一生懸命に聞き取ろうと耳をそばだてなければ聞き取れない。
 そんな微かな弱々しい声。
於呂禹オロウ!)
 李玲峰イレイネ は、心の中でもがく。
 なんて苦しそうな声だろう。
 於呂禹オロウ はやっぱり困難な状況にいるのか?
 黄金の甲冑を身につけて戦場を縦横に駆け巡る 根威座ネイザ の魔将軍。
 あれは、魔皇帝が彼を欺くために送り込んだ幻影に過ぎないのか?
於呂禹オロウ、レイラ? どこにいるんだい? おれが行く。おれが行くよ! だから、教えてくれ、きみたちは一体、どこにいるんだ!?)
 ゆらゆらと水の中でなびく、白銀の髪。
 麗羅符露レイラフロ の髪だ。
 水の中で藻のように広がっている。
 いや? なびいているように見えるのに、その髪は、動いていない。
 藻のように広がり、なびいたままの状態で凍りついたように。
 凍りついた?
 麗羅符露レイラフロ 。
 哀しげな顔。
 桜色のはずの唇が紫色かかっている。
 口元は引き結んだまま。
 目も瞑ったままで、白銀の濃い睫毛がぴんと反りかえった様子が見て取れる。
 その瞼の奥にあるはずの、あの綺麗な水の色を映したような碧い瞳を覗くことは出来ない。
 白いなめらかな頬から細い首、うなじにかけての曲線には、女らしいまろやかさが加わっている。
 死んでいる?
 いや、眠っているのか?
 何かを、その両腕に抱いている。
 何を?
 李玲峰イレイネ は、息を飲む。
 宝剣!?
 あれは!!
 まさか 水の宝剣 なのか!
 ガラスで出来ているかのような繊細な造りの、水の動きを意匠したような形の柄、透明なガラスか氷で出来ているかのような刀身!
 もし 水の宝剣 というものがあるとしたら、あれがまさしくその 水の宝剣 だろう。
 水色がかった白銀の髪を長く靡かせた少女は、水の宝剣 を腕に抱いて、凍りついたような空間に眠っている。
 そして!
 その傍らに哀しげに寄り添っている少年がいる。
 透き通った姿。
 金色の髪。
 於呂禹オロウ
(レイラ。於呂禹オロウ!)
 李玲峰イレイネ は夢中で呼ぶ。
 しかし、於呂禹オロウ にもレイラにも彼の声は届いていない。
 急速に、幻が薄れていく。
(待ってくれっ! レイラ、於呂禹オロウ 。おれだよ! 待っていて。絶対、絶対、救い出してみせるから!)
 だが、夢見草の幻は、そこで終わった。
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