抜け忍

神泉朱之介

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抜け忍

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「この中に裏切り者がいる」
 狡猾そうな目を細め、唇の間からちろちろと桃色の舌を覗かせて、蝮丸が行った。
 天正八年。
 板東へと向かう足柄路の途中にある、荒ら屋同然の民家。
「裏切り者?」
 お絹が口を開く。
 年の頃十五、六の、見たところ純朴そうな小娘だが、手練手管を使って殺した男の数は百人をくだらない。
「人別帳を奪うため、追っ手が放たれた。どうあっても我々を幻庵宗哲様のいる小田原には入れさせないつもりのようだ」
 角力のような巨体を震わせながら、蝦蟇太夫が言う。
 体に反して、妙に甲高い耳障りな声をしていた。
「悪源太を殺し、主膳にこのような深手を負わせたのも、伊賀からの追ってか」
 土間に敷かれた茣蓙むしろの上に横たわる、血だらけで息も絶え絶えの男を見下ろしながら蝦蟇太夫が言った。
 隅にはもう一人、荒縄で縛られた老齢の男が倒れていた。
 こちらは散々殴られたのか、顔は痣で赤黒く変色し、唇や瞼は腫れ、鼻の下に乾いた血がこびりついている。
「そう考えるのは早計じゃないのかい。相州は風魔衆の縄張りだよ。私らが幻庵様を通じて北条家に仕官しようとしていることに気づいて、乱波どもが人別帳を狙いに来ているのかもしれん」
「何でそう思うんだ」
 お絹の言葉尻を捕らえ、蝮丸が上唇を舐めながら言う。
「そういうお前が、相州の乱波どもにこの件を漏らしたんじゃないのか」
「何だって」
 お絹は眉尻を鋭く吊り上げた。
「どちらにせよ、悪源太の持っていた人別帳の一部は失われた。あれがなければ我々の仕官はままならぬ」
 蝦蟇太夫が一触即発の二人を制した。
 人別帳とは、南伊買を統べる上忍、百地丹波守が手元に秘蔵する帳面である。
 全国各地に散った伊賀者たちの消息が事細かに記されたものだ。
 各家に紛れ込んだ者の中には、武者として近習衆にまで出世した者、家臣の側女として子を産んでいるくノ一もいる。
 これが人手に渡るのは、伊賀にとっては死活に関わることだ。
 この場にいる連中は、お互いに手を組んで伊賀から抜けてきた。
 盗み出した人別帳を手土産に、北条家の家老であり相州乱波の元締めでもある幻庵宗哲に会い、士分として仕官するつもりだった。
 ところが、お互いに裏切りのないよう、人別帳を五つに引き裂いて分けて持ち、足柄峠の入口にある古刹を落ち合い先に決めたが、仲間の一人、悪源太が殺されて人別帳を奪われ、それを知らせに来た多岐川主膳も斬られて瀕死の重傷を負っていた。
 危険と見た抜け忍たちは古刹から引き、通り掛かった娘を襲って、強盗よろしくその住処に押し入り、家にいた老父を縛り上げた。
「こっちに来て酒を注げ」
 青ざめた顔で板の間の隈で俯いている娘に向かって蝮丸が言う。
 戸惑った様子で近づいてきた娘の手を握り、膝元に引き寄せると、蜆丸は娘の着物の裾を割って手を差し入れ、股ぐらをまさぐり始めた。
 目に涙を浮かべ、娘が嫌がって身を捩る。
「いい加減にしろ。まだやるつもりか」
 眉根を寄せて蝦蟇太夫が言う。
「悪いか。俺はいらいらしているんだ」
 娘の体をまさぐりながら蝮丸が答える。
「お前の汚い尻なんか見たかないよ。今はそんなことしている場合じゃないだろ」
 鬱陶しそうにお絹が言う。
 蝮丸は舌打ちすると、半ば突き飛ばすようにして娘を解放した
 慌てて娘は蝮丸から離れ、再び板の間の隅で膝を抱え、怯えた目で抜け忍たちを見守る。
 その時、土間に倒れている主膳が呻き声を上げた。
 どうやらまだ息はあるようだ。
「手当をしてやった方がいいんじゃないか。お前、主膳のこれだろう」
 人差し指と中指の間に親指を挟み、お絹の方に突き出しながら蝦蟇太夫が言う。
「まあ、そうだけどね」
「……拙者の傷口に触るな」
 ふと主膳が口を開き、か細い声を上げた。
「傷口に毒でも塗られたらたまらん」
「ふん。私のことも信用できないのかい」
 面白くなさそうにお絹が言う。
「娘、頼む、汗を拭いてくれ」
 主膳が言うと、困惑顔で娘は立ち上がり、体を拭くための手水を取りに外に出た。
「逃げないだろうね」
「老父がいるから大丈夫だろう。それに娘一人逃げたところで何もできまい」
 蝦蟇太夫がそう言った時、外から娘の悲嗚が聞こえてきた。
「何だ」
 お絹が呟き、蝦蟇太夫が声を潜めて言う。
「蝮丸、様子を見て来い」
「俺に指図するな」
 言い捨て、蝮丸が小屋の外に出て行った。
 すぐに戻ってくるものと思われたが、暫く経っても何も起こらない。
 蝦蟇太夫とお絹は互いに目配せし、立ち上がった。
 入口の戸板を横に開くと、すぐのところに蝮丸が俯せに倒れている。
 傍らでは娘が、手の平で頻を覆って路り、体を震わせて泣いていた。
「これは……」
 蝦蟇太夫が、転がっているものに気がついた。悪源太の生首だ。
 両眼に深く棒手裏剣が突き刺さり、無念の形相で、白々と明け始めた空に浮かぶ明星を見上げている。
「おのれ、見つかったか」
 お絹は震えている娘の腕を掴んで無理やり立たせ、小屋の中に引き摺り込んだ。
 戸板を厳重に閉め切ると、お絹は自分とあまり年端も変わらぬ娘の胸倉を掴み、ぐらぐらと前後に揺らした。
「蝮丸を殺ったのはどんなやつだった。見ていた筈だ。答えろ」
 娘は涙目で首を左右に振るばかりである。
 おそらく、手水を取るために外に出たところで悪源太の生首を見つけて悲嗚を上げ、出てきた蝮丸が、伊賀からの追ってか、風魔衆のいずれかに襲われたのだろう。
 娘を床に突き飛ばし、お絹は馬乗りになって嫌がる娘の衣服を脱がしに掛かった。
「何をしている」
「決まってるだろ。この女と着ているものを取り替えて逃げるのさ」
 確かに、刺客が見境なく殺しているなら、この娘も一緒に殺されていた筈だ。
 どうやら面も割れているらしい。
「待て。主膳はどうするんだ」
「放っておけよ、そんな死に損ない」
 無情に言い放ち、お絹は自らも衣服を脱いで裸になると、娘から引っ剥がした地味な色合いの野良着を着込んだ。
「伊賀を抜けたら、お前は主膳と夫婦になるつもりじゃなかったのか」
「女は仕官できないから、そうするつもりだっただけだ」
 そう言ってお絹は倒れている主膳を見る。
「あのままじゃ苦しかろう。せめて行く前に止めを刺してやってくれ」
 仕方ないというように頷き、蝦蟇太夫は腰の刀を抜くと、喉笛を掻き切るために主膳の傍らにしゃがみ込んだ。
「うっ」
 その蝦蟇太夫の背中に刃が深く突き刺さる。
「何を……」
 よろめきながら蝦蟇太夫が立ち上がり、お絹の方を振り向く。
「私に背を向けるとは馬鹿だね」
 飛び退きながらお絹が言う。
「お前と一緒に逃げたんじゃ目立って仕方がない。懐の人別帳はいただくよ」
「おのれ……」
 恨み言を口にする間もなく、蝦蟇太夫は口から血を吐き出して倒れた。
 その懐を探り、お絹は人別帳の切れ端を取り出す。
「悪源太の分が足りないが、これだけでも十分だ」
 そう呟き、お絹は裏手の戸板に手を掛け、出て行こうとした。
 その背中に衝撃が走る。
 お絹は手の平で空を掻いたが、何も掴むことができず、土間に卒倒した。
 見上げると、そこには先ほどまで茣蓙むしろの上で呻き声を上げていた主膳が立っている。
「お前こそ油断が過ぎたな。傷口を改めなかったのは手落ちだ。悪源太を殺したのは拙者だ。その返り血を体に塗って、深手を負っているふりをしていたのだ」
「仲間を風魔に売ったのか」
「まあな。数人まとめての仕官はままならぬようだから、仕掛けさせてもらった。お絹、お前だけは最初の約束通り、妻に娶ってやろうかと思っていたが、話を聞いていて気が変わった。やはり忍びの女は信用ならんな」
 そう言うと、主膳はお絹の返事を待たずに刀の先で心の臓をひと突きした。
「さてと……」
 主膳は小屋の中を見回す。蝦蟇太夫とお絹の死体の他は、虫の息で縛られ、土間の隅に転がされているこの家の老父と、裸に剥かれて土間に突っ伏して泣いている娘だけだった。
 お絹が脱いで放り出した着物を拾い、主膳はそれを娘に掛けてやる。
「巻き込んでしまってすまなかったな。命まで奪う気はない。さらばだ」
 懐から金子を取り出し、詫びつもりか娘の傍らに放り投げると、主膳は小屋の外も出た。
 戸口には、蝮丸の亡骸と、悪源太の生首が転がっている。
 人気のない森の奥に向かって、主膳は声を張り上げた。
「伊買の多岐川主膳だ! 人別帳は揃った。さあ、拙者を幻庵様のところへ……」
 その時、主膳の背に鋭い痛みが走り、血に塗れた刀の切っ先が鳩尾の辺りを貰いて飛び出し、すぐに引き抜かれた。
 主膳は地面に倒れる。
 先ほどまで土間に突っ伏して泣いていた娘が、裸身に小袖を羽織り、刀を手に仁王立ちしている。
「伊買者なんてこんなものか? 一人一人連れ出して殺るつもりだったが、勝手に殺し合ってくれて、手間が省けたよ」
 冷たい目で見下ろしている娘の正体を察し、主膳は呻く。
 蝮丸はこの娘に殺られたのか。
「風魔衆がお前なんざを本当に幻庵様に目通りさせると思ってたのかい。お目出度いやつだな。人別帳だけもらっとくよ」
 主膳の額に刃を突き立てると、娘は懐から血に濡れた人別帳を取り出した。
「よし。やっと全部揃った。殺すだけなら容易い仕事だったのにな」
 にんまりと微笑むと、娘は倒れている蝮丸の亡骸の顔に、ぺっと唾を吐きかける。
「ちっとも良くなかったよ、この短小が」
 小屋の中に戻ると、娘は縛られて土間の隅に転がされている老父の縄を解いた。
 譫言のように老父が娘に向かって呻き声を上げる。
「悪いね。お前が連れていた娘は私が殺して外に埋めた。見分けがつかないのかい? 惚けてるんだね」
 優しく老父の頭を撫でてやると、娘は立ち上がり、出て行こうとした。
「……骸なら、まだあと二つ埋まってるぜ」
 背後から声がした。
 あっと思って娘は振り向く。
 老父のふりをしていたその男が、人別帳を取り戻すため、くノ一を連れてここに住んでいた父娘と入れ替わり、待ち伏せしていた伊賀の追っ手だと気づいた時には、もう遅かった。
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