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1巻
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プロローグ
もう九月も半ばになるというのに、夜になっても暑さが去ることはなく、とろりと絡みつくような熱が夜を支配していた。
空に浮かぶ半分だけ欠けた月は、舐めたら甘そうな蜜のような琥珀色がとても綺麗で、こんな時なのに思わず見惚れた。
「……いやぁぁ……」
突然、下肢を鋭く突き上げられて、自分の声とは信じられないか細い声が零れる。
「……随分、余裕だな」
掠れたどこか苛立ったような男の声が上から降ってくる。
見上げた先にある男――義弟の端整な顔が皮肉げな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
――余裕? そんなものあるわけがない。
今、自分の身に起こっていることが信じられなくて、現実から目を逸らしたかっただけだ。
――義理とはいえ二人は姉弟なのに……
体を繋げている現実があまりに重たくて、逃げ出したいのに、抵抗も敵わず床の上に縫い付けられている自分が情けなかった。
だが、美咲を見下ろす男は現実逃避さえ許してくれない。
知らない男の顔で自分を見つめる義弟に、苦しさが増す。
――何故? と思う。どうして? と考える。
「……ど……ぉ……して……」
思いはそのまま呟きになり、上げ続けた悲鳴と喘ぎに掠れた喉から零れ落ちる。
「今さら、それを聞くのか?」
呆れを隠さない声とは裏腹に、優しい仕草で頬に手を添えられ、口づけられる。
義弟の硬い指先からは、彼がいつも吸っている煙草のくせのある匂いがほのかに香った。
思わぬ優しい口づけに驚き瞠った瞳の先、義弟の長めの前髪が額に張り付いているのが視界に入る。美咲は無意識に手を伸ばし、その前髪をかき上げた。
二人の視線が絡み合う。
先ほど見上げていた月と同じ、蜜のようなとろとろの光を帯びた金褐色の瞳。
昔からこの瞳が苦手だった。時折、野生の獣のような威圧感を宿す瞳に、不穏な気配を感じて、射竦められたように身動きが取れなくなる。
綺麗な琥珀色の獣の瞳――
いつもは逃げ出したくなるのに、今この瞬間は魅入られたようにこの瞳から目を逸らせない。
「本当に、わからないのか。義姉さん?」
体の芯に深く響く美声で義弟が思わせぶりに囁く。額に添えていた手を取られた。
視線を合わせたまま、ゆっくりとした仕草で、義弟が美咲の指先、手のひら、手首に口づけを落としていく。もどかしい刺激に知らず体が震え、中にいる彼を締め付ける。自然と喘ぎ声が零れ、その反応に義弟がふっと笑った。
その笑みに緊張の糸が切れ、突然、激しいまでの感情が湧き上がる。
それが怒りなのか、恐怖なのか、悲しみなのか、美咲にはわからない。
込み上げる思いのまま美咲は声を振り絞る。
「あんたの……な……にを、わか……れってい……うのよ」
両親の三回忌のために久しぶりに帰ってきた実家で、子どもの頃から苦手だった義弟と二人っきり。
何も変わらないように見える家の中で、二人の距離だけが変わっていた。
両親の死から二年――久しぶりに再会した義弟は、見知らぬ男のようで戸惑った。
十代の頃から年に合わない落ち着きと威圧感を備えていたが、しばらく見ない間にその存在感は増していた。普段から立ち居振る舞いが静かで、気配を感じさせない動作は、滑らかなぶん野生の獣のようなしなやかな鋭さがあり、もともと綺麗だった顔立ちは精悍さを増していた。
気付けば、目が惹きつけられ、離せなくなる。
そんな義弟にどう接していいのかわからず、ほとんど会話もないままに、戸惑いばかりが募っていった。
夜の帳が降りてくるとともに高まっていく緊張感と、夜になっても引かない暑さに疲れ、窓辺のソファに座りため息をついたのを覚えている。
何も考えたくなくて、ぼんやりと月を眺めているうちに、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。唇に何かが触れる感触に目覚めると、驚くほど近くに義弟の端整な顔があった。
口づけられたのだと気付いた時には押し倒されていた。
言葉も何もないまま、突然始まった行為に、驚き抗う体は力強い腕に押さえつけられ、悲鳴は義弟の口の中に消えた。
恐怖に竦んだ心を置き去りにして、体は巧みな愛撫にあっけなく敗北した。気付けば熱に浮かされ、自分でも聞いたことのない甘い喘ぎ声がひきずり出されていた。
体中に征服の証を刻み込まれ、快楽に支配された体はもう自分のものではないようだった。感情とは切り離されたところで、体は快楽に溺れた。
まるで麻薬のような快楽に、涙が膜を張ったような瞳の先、見上げた月がやけに綺麗に見えて一瞬だけ、現実を忘れることが出来た。
この悪夢のような時間の中に、自分の意思はどこにもなかった。
たった数時間で、すべてのものが変えられてしまった。
義弟と再会してから続いていた緊張と、美咲の意思を無視して始まった行為に、心が対応しきれずに、張り詰めていた緊張の糸が切れ、まるで子どものように泣きじゃくることしか出来ない。
「いっ……体、なんなっ……のよ! 何がしたっ……いのよ!」
――怖かった。これから自分がどうなってしまうのかわからなかった。
こんな状況であっても、この野生の獣のように綺麗な義弟が、本気で自分を欲しがっているなんて思えなかった。
この男にとってこれは、いつもの遊びの一環でしかないのだろう。それがわかっているから辛かった。
両親や周囲の大人たちには上手に隠していたが、十代の前半には、すでに濃厚な男の気配を漂わせていた義弟。美しい顔立ちと年に合わない存在感は、いい意味でも悪い意味でも、同年代の中では際立って目立つ存在で、男女ともに彼の信奉者は多かった。
彼の周りには常に美しい女たちが、花の蜜に引き寄せられる蝶のように群れていて、気まぐれに女たちに手を出す義弟の姿を、半ば呆れながら見つめ続けたあの頃――時折、女の匂いをわざと纏いつかせ、それを隠そうともしない義弟を、十代の少女の潔癖さで嫌悪していた。
けれど、本当はその綺麗な琥珀色の瞳に映る女たちに嫉妬していた自分がいることを、美咲は知っている。でも、それを認めることは、決して出来なかった。認めてしまえば、美咲は美咲でいられなくなる。
――だから、嫌いだ。大嫌いだ。こんな男!
「ひ……っ、ひ、っく」
静かな部屋に美咲の泣き声だけが響く。
「あん……なんてっ……大、嫌い……」
泣きながら訴える美咲に、義弟は言う。
「知ってるよ。俺を嫌いなことなんて。でも、やめてやらない。憎まれても、恨まれてもいいから、あんたは俺を見ていろ。あんたは俺のものだ」
とても静かな口調で義弟は言った。あまりに身勝手な言葉に美咲は目を瞠る。しかし、言葉と同時に激しく腰を使われ、美咲は痛みと快感にわけがわからなくなった。
「……あ、や……ん……っ!」
今まで感じたこともないような快楽の渦に、強制的に叩き込まれ、美咲の思考は意味をなさなくなる。
白く濁っていく意識の中で、義弟の琥珀の瞳がまるで月のように輝いて見えて、綺麗だと思ったのが、美咲の最後の記憶だった――
☆
自分の腕の中で意識を失い眠る義姉の美咲を、そっと抱きしめる。
月光に照らされた彼女の顔は、涙に濡れていた。閉じられた瞼の先、睫には狂気の時間の名残の雫がいくつも絡みついていた。その雫はいまだ尽きることなく眦を伝い、美咲の乱れた黒髪を濡らしていく。
薄闇に包まれた室内に浮かび上がる白く華奢な肢体には、敦也がつけた指痕や赤い痕が無数に散らばっていた。それは大腿のきわどい場所にも無数に残され、白濁した蜜が美咲の下肢を汚していた。
一目で陵辱されたとわかる姿――
その痛々しい姿に、満足を覚える自分はおかしいのだろう。美咲に対する飢餓にも似た想い。
そんなことは、自分でもわかっている。
眠りながら、それでも泣き続ける美咲の眦に口づけて、その雫を拭った。
ピクリと美咲の瞼が震えて、睫に絡んでいた雫がまたいくつもの流れを作っていく。
涙と汗に濡れて乱れた、美咲の長く美しい黒髪を梳き整える。
絹のように滑らかな髪の感触が気持ちよくて、何度も指に絡めるように梳く。
それでも、美咲はぐったりとして起きることはなかった。
『初めまして、敦也君。私は美咲よ! 仲良くしようね』
初めて出会ったあの日――差し出された義姉の手を掴んだあの日から、自分はずっと囚われてきた。
その黒い瞳に。掴んだ手の温かさに。
敦也は昔から、この二つ年上の義姉が欲しかった。
決して自分を見ようとしない、この義姉が……
それは、ヒリヒリと灼けつくように熱く、トロリと絡みつくように甘い、渇望だった。
抱き寄せた美咲のぬくもりは心地よかった。だが、これだけでは満足出来なかった。敦也にはそれ以上に欲しいものがあった。
初めて抱いた美咲の体はまるで甘い毒のように、敦也の体に深い快楽をもたらした。
排泄行為としてのセックスとは違う、全身が総毛立つような深い官能。
快楽に染まって泣く美咲の瞳に映る自分を、もう一度見たかった。
美咲を追い詰めても、苦しめてもいいと思うこの想いは、綺麗なだけの感情ではない。
胃が灼けつくようなこの飢餓にも似た想いを鎮められるのは、ただ一人、義姉だけ。
家族としての優しいだけの情愛も、温かいだけの絆もいらない。
表面上は穏やかだった家族ごっこに終わりを告げる時が来た。
二度と自分は美咲を義姉とは呼ばないだろう。
自分はもう決めてしまった。
美咲を泣かせても、憎まれても、自分という男を美咲に刻み込む。
涙に濡れてその色を漆黒に染めた美咲の瞳に映る男は自分だけでいい。
眠る美咲に口づける。
自分の腕の中で眠る美咲は、誰よりも美しい。
もう自分はこの存在を手放すことは出来ない。
――ならば、手に入れるだけだ。
夜が明けていく。
まるで絡みつくようだった、熱を孕んでいた狂気のような夜が。
夜が明けた時、二人の関係は何もかもが変わっているだろう。
敦也が望んだままに――
第一章 パンドラの箱の底に沈めた恋
いつからだろう?
義弟の――敦也のあの琥珀の瞳が苦手になったのは……
初めて出会ったあの日、これから自分の義弟になるという二歳年下の敦也は、まるでお人形のように可愛くて、その茶色の瞳がガラス玉みたいに綺麗で、嬉しかったのを覚えている。
母は美咲が三歳の頃に交通事故で亡くなり、父は男手一つで美咲を育ててくれた。だが、仕事の忙しかった父は家を空けることも多く、小さな美咲はいつも祖父母の家に預けられていた。
祖父母は美咲をとても愛してくれたし、仕事で忙しい父が美咲を大切にしてくれているのはわかっていたから、寂しいと思うことは少なかったような気がする。
美咲が七歳になった時に父が再婚し、美咲には新しい母親と二歳年下の弟が出来た。それが敦也だった。
元モデルだったという美しい母親によく似た敦也は、子どもの頃からとても秀麗な顔をした、まるで人形のように可愛い子どもだった。
新しく出来た家族を、美咲は素直に喜んだ。
再婚前に両家の顔合わせを兼ねた食事会の席で、初めて見た敦也の瞳があまりに綺麗で、この子が弟になるのかと興奮した。
「初めまして、敦也君。私は美咲よ。仲良くしようね」
差し出した美咲の手を掴んだ、敦也の小さな手の感触さえも覚えている。
多分、あの時に、自分は彼の琥珀色の瞳に魅入られたのだろう。
それからしばらく、琥珀の瞳が見たくて、敦也の顔を覗き込むのが美咲のくせになったくらいには――
だが、いつの頃からだろう? 敦也の琥珀の瞳に不穏なものを感じるようになったのは。
その琥珀の瞳が苦手になったのは。
まるで、獲物を狙う野生の獣のように鋭くこちらを見つめてくる敦也の瞳が、美咲は怖くて仕方なかった。
その瞳は、美咲の中で眠る何かを揺り起こす――それを感じていたのかもしれない。
☆
目覚めはひどく不快だった。
体は鉛のように重く、指を動かすのさえも億劫だった。
寝返りを打とうとしても、だるさを訴える体は美咲の言うことを聞こうとはしなかった。
特に腰から下は自分のものではないように重く、痺れていた。
体が熱かった。そして、喉がひどく渇き、痛みを訴えている。
熱が出ているのかもしれないと美咲は思った。
だから、こんなに体がだるいのだろうと考える。
泣きすぎた後のように腫れぼったい瞼を開くと、そこは大学進学までの十八年間を過ごした実家の部屋だった。
窓から差し込む光はもう黄金色になり、時刻を確認すれば夕方の六時を過ぎていた。
――あれ、いつ実家に帰ってきたんだっけ?
そう思った次の瞬間、一気に美咲の脳裏に昨夜の出来事がフラッシュバックする。
「あぁ!」
掠れた叫びが美咲の喉から零れる。
――敦也! あの琥珀色の獣の瞳をした義弟に自分は……‼
「なん……で……」
がたがたと体が震えた。
半ばパニックになりながら、美咲はまるで自分のものではないような体を起こす。
そして、自分が素肌を曝したままであることに気付いた。
見下ろした自分の体中に散る赤い花びらのような痕に、昨日の生々しい感触が蘇る。
胸や内腿のきわどい部分を中心として無数に散った赤。手首には抗った美咲を押さえつけた時に出来たのだろう、指の痕がくっきりと残っていた。
体中に刻み込まれた敦也の痕は、昨日の狂気のような出来事が現実だったと知らしめてくる。
まるで、刻印のように刻まれたそれらを、美咲は呆然と眺めた。
夢だと思いたかった。
何もかもが悪い夢だと思いたかった。
だが、体中に刻まれた痕は、それを許してはくれない。
そして思い出すのは、美咲を揺さぶりながら言った敦也の言葉。
『知ってるよ。俺を嫌いなことなんて。でも、やめてやらない。憎まれても、恨まれてもいいから、あんたは俺を見ていろ。あんたは俺のものだ』
あまりに身勝手な言葉。美咲の意思も、何もかもを無視したものだった。
「……ふふ」
どれくらいそうしていたのかわからない。
やがて、パニックが去った後の美咲の唇から乾いた笑いが漏れた。
――何が、あんたは俺を見ていろよ! 何が、あんたは俺のものよ!
美咲は知っている。
――たとえ、美咲があの男のものになったとしても、あの美しい獣が決して美咲のものにはならないことを‼
自分の中の奥深くに、頑丈に鍵をかけて閉じ込めたものがある。
普段は忘れて、意識することもないそれが、美咲の心をかき乱す。
美咲は固く瞼を閉じて、指が白くなるほど強くシーツを握り締めた。
――何も思い出すな。何も感じるな。これは開けてはいけないパンドラの箱。
最後に残っているのは、希望ではなく絶望なのだから――
☆
絡みつくようだった厳しい残暑も、十月に入るとようやく秋らしい涼やかな夜を過ごせるようになってきた。
半分だけ欠けていた月も徐々にその本来の姿を現し、綺麗な円形になっている。
それに呼応するように、美咲の体に残された陵辱の痕は、少しずつ消えていった。
ひとつ、ひとつ。痕が消えていくたびに、美咲の心も少しずつ平静を取り戻していった。
そして、あの夜から二週間が経とうしていた――
「お疲れ様でした」
「お疲れ様~」
「あ、美咲! これから飲みに行かない?」
「ごめん、今日は疲れてるから、また今度」
仕事が終わり美咲は同僚たちに声をかけると、職場を後にする。
美咲が勤める『彩華―SAIKA―』は県内に数店舗を展開する、オーガニック系コスメや食品、アロマ用品などの雑貨を扱うリラクゼーション系総合サービスの会社だった。社員数は三十人と少ないが、その分フットワークも軽く、徐々に業績を伸ばしている。
美咲は大学の頃から販売員のバイトとしてここで働いていた。バイト時代に社長に気に入られ、そのまま正社員として就職した。
明日は久しぶりの休みだった。普段の休日前の夜なら、友人や同僚たちと飲みに行ったり、恋人の安田恭介とデートを楽しんだりするのだが、今はまだ、そんな気分にはならなかった。
美咲は一人、最寄の駅に向かって歩く。知らず、ため息が漏れた。
両親の三回忌から二週間――敦也との間に起こったことを、美咲は無理やり忘れることを選んだ。
――何もなかった。あの夜には何もなかったのだ。
そう言い聞かせることで、美咲は必死に自分を保っていた。
すべてのことに目をつぶり、耳を塞いで普段通りの日常を演じる。たとえそれが、薄皮一枚の上の危ういバランスのもとに保たれたものだとしても、美咲はあの夜の出来事を忘れたかった。
仕事中や誰かといる時は、ほとんど成功していたが、こうして疲れた夜に一人でいると、日常の底に閉じ込めたはずの悪夢が顔を出しそうになる。
浮かび上がってくる映像を振り払いたくて、美咲はギュっと目をつぶった。
――違う! 知らない、こんなこと! あの夜には何もなかったのだ‼
「美咲!」
切れ切れに浮かび上がってくる映像に、美咲が恐怖に包まれそうになった瞬間、後ろからよく知った声に呼ばれた。
ハッとして振り向くと、そこには恋人の恭介がいた。
走ってきたのだろう。息を切らせた様子の恭介が美咲に向かって微笑む。
その顔に安堵と罪悪感を覚え、美咲はぎこちない微笑を浮かべることしか出来なかった。
「どうしたの、恭介? そんなに焦って……」
「美咲に会いたくて店に行ったら、今帰ったばかりだって聞いたから、走って追いかけてきた」
荒い息のままにこりと微笑む男に、美咲の胸の奥が疼く。
「電話くれればよかったのに……」
「言われてみればそうだな」
美咲の言葉に、恭介の優しい顔が困ったようになり、言葉を濁して視線が逸らされた。
その様子に、美咲の笑みも強張り、ぎこちない沈黙が二人の間に落ちる。
取引先の担当者だった三歳年上の恭介と付き合って二年。最近は少しずつお互いに結婚を意識していた。だが、ここ二週間、美咲は恭介とうまく接することが出来なかった。
「なんか、美咲が実家に帰ってから避けられている気がして」
思い切ったように、恭介がそう言った。
「何で? 私が恭介を避ける理由なんてないよ?」
美咲は平静を装って、何とか微笑らしきものを浮かべて答えるが、その笑みが強張っているのが自分でもわかる。
――嘘。本当は恭介を避けていた。
最初は敦也が残した痕を見られるわけにはいかなくて。
今は、無理やりであっても敦也に抱かれた自分を恭介に知られたくなくて、美咲は彼から逃げていた。
「最近、電話してもメールしても、仕事以外で会ってくれなかっただろう? だから……」
「ごめん」
美咲は恭介との距離を詰めると、その大きな手を握る。
「美咲?」
罪悪感に歪みそうになる顔を見られたくなくて、恭介の肩に額を押し付ける。
「ごめん。両親の三回忌が終わって、ちょっとナーバスになってる。今さらだけど、両親がもういないんだなって実感しちゃった」
その言葉に恭介の体から力が抜けるのを感じた。
嘘ではなかった。でも、本当の理由でもない。
「そっか。そうだよな。こっちこそごめん。美咲が実家に帰っていた理由を、ちゃんと考えてなかった」
「ううん。ちゃんと話せなくてごめん。うまく気持ちの整理がつかなくて……」
「いや、俺が悪い。変な勘違いしてた。他に好きなやつでも出来たのかって、妙に焦った」
おかしいよなと苦笑する恭介の言葉に、何故かどきりとした。
脳裏に浮かぶのは敦也の琥珀色の瞳。その瞳が美咲の嘘を嘲笑っているように思えた。
――違う! 違う‼ 私が好きなのは、恭介だけだ!
美咲はそれを振り払いたくて、甘えるように恭介の肩に額を擦り付ける。肩に恭介の腕が回され、往来の真ん中で抱きしめられた。比較的、人通りの少ない時間帯だったおかげで、周囲に人はいない。
「もう少しだけ、待って。ちゃんと気持ちの整理をつけるから」
「俺もいる。あんまり一人で抱え込むなよ」
「わかった。ありがとう」
ぎゅっと美咲を抱く恭介の腕に力がこもる。
美咲の言い訳をすんなりと信じてくれた恋人の優しさに、どうしようもない罪悪感が込み上げてきた。
でも、あの夜のことを、恭介にだけは絶対に知られたくなかった――
途中まで送ってくれた恭介と別れ、美咲は自宅マンションまでの短い道のりを歩く。
住宅街を歩きながら見上げた月は、綺麗な満月だった。
舐めたら甘そうな綺麗な琥珀色。あの夜、最後に見た敦也の瞳と同じ色。
今日、恭介に言われた他に好きなやつという言葉に、何故か浮かんだ敦也の瞳。
その瞳が恭介と過ごす美咲を攻め立てる。
考えたくもないのに、今、思い出すのは敦也のことだった。
昔も、今も、美咲には敦也が何を考えているのかわからなかった。
ただ言えるのは、あの綺麗な琥珀色の獣の瞳をした男が、決して本気で自分を欲しがることはないということだけ。
あの夜、敦也が言った言葉を、美咲は信じていなかった。
信じるつもりなんてなかった。
あれは、敦也にとって、ただの気まぐれでしかない。義弟を毛嫌いしている自分に対しての、度を過ぎた嫌がらせだ。
そうに決まっている。それで美咲がどれほど傷つくかなんて、あの義弟はわかっていないのだ。
その証拠に、目覚めた美咲は実家に一人で取り残されていた。
敦也の存在に怯える美咲の心を嘲弄するかのように、義弟はどこにもいなかった。
あの瞬間、敦也の気まぐれに踊らされ、飽きればあっさりと捨てられる存在でしかないのだと思い知らされた。
冗談じゃなかった。自分は玩具ではない。心もあれば感情もある人間だ。
ままならない体のまま、美咲は逃げるように実家を後にした。
もう敦也と会うつもりはなかった。
ピアニストとして活躍し、もともと海外を拠点にして生活している敦也とは、美咲が大学に入学してから、それこそ数えるほどしか会っていない。あの夜を含めても片手で足りるほどだ。
両親の葬儀の時でさえも、敦也は仕事のために帰ってこなかった。
意識して避ければ、たとえ義姉弟といってももう会うことはないだろう。
もう九月も半ばになるというのに、夜になっても暑さが去ることはなく、とろりと絡みつくような熱が夜を支配していた。
空に浮かぶ半分だけ欠けた月は、舐めたら甘そうな蜜のような琥珀色がとても綺麗で、こんな時なのに思わず見惚れた。
「……いやぁぁ……」
突然、下肢を鋭く突き上げられて、自分の声とは信じられないか細い声が零れる。
「……随分、余裕だな」
掠れたどこか苛立ったような男の声が上から降ってくる。
見上げた先にある男――義弟の端整な顔が皮肉げな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
――余裕? そんなものあるわけがない。
今、自分の身に起こっていることが信じられなくて、現実から目を逸らしたかっただけだ。
――義理とはいえ二人は姉弟なのに……
体を繋げている現実があまりに重たくて、逃げ出したいのに、抵抗も敵わず床の上に縫い付けられている自分が情けなかった。
だが、美咲を見下ろす男は現実逃避さえ許してくれない。
知らない男の顔で自分を見つめる義弟に、苦しさが増す。
――何故? と思う。どうして? と考える。
「……ど……ぉ……して……」
思いはそのまま呟きになり、上げ続けた悲鳴と喘ぎに掠れた喉から零れ落ちる。
「今さら、それを聞くのか?」
呆れを隠さない声とは裏腹に、優しい仕草で頬に手を添えられ、口づけられる。
義弟の硬い指先からは、彼がいつも吸っている煙草のくせのある匂いがほのかに香った。
思わぬ優しい口づけに驚き瞠った瞳の先、義弟の長めの前髪が額に張り付いているのが視界に入る。美咲は無意識に手を伸ばし、その前髪をかき上げた。
二人の視線が絡み合う。
先ほど見上げていた月と同じ、蜜のようなとろとろの光を帯びた金褐色の瞳。
昔からこの瞳が苦手だった。時折、野生の獣のような威圧感を宿す瞳に、不穏な気配を感じて、射竦められたように身動きが取れなくなる。
綺麗な琥珀色の獣の瞳――
いつもは逃げ出したくなるのに、今この瞬間は魅入られたようにこの瞳から目を逸らせない。
「本当に、わからないのか。義姉さん?」
体の芯に深く響く美声で義弟が思わせぶりに囁く。額に添えていた手を取られた。
視線を合わせたまま、ゆっくりとした仕草で、義弟が美咲の指先、手のひら、手首に口づけを落としていく。もどかしい刺激に知らず体が震え、中にいる彼を締め付ける。自然と喘ぎ声が零れ、その反応に義弟がふっと笑った。
その笑みに緊張の糸が切れ、突然、激しいまでの感情が湧き上がる。
それが怒りなのか、恐怖なのか、悲しみなのか、美咲にはわからない。
込み上げる思いのまま美咲は声を振り絞る。
「あんたの……な……にを、わか……れってい……うのよ」
両親の三回忌のために久しぶりに帰ってきた実家で、子どもの頃から苦手だった義弟と二人っきり。
何も変わらないように見える家の中で、二人の距離だけが変わっていた。
両親の死から二年――久しぶりに再会した義弟は、見知らぬ男のようで戸惑った。
十代の頃から年に合わない落ち着きと威圧感を備えていたが、しばらく見ない間にその存在感は増していた。普段から立ち居振る舞いが静かで、気配を感じさせない動作は、滑らかなぶん野生の獣のようなしなやかな鋭さがあり、もともと綺麗だった顔立ちは精悍さを増していた。
気付けば、目が惹きつけられ、離せなくなる。
そんな義弟にどう接していいのかわからず、ほとんど会話もないままに、戸惑いばかりが募っていった。
夜の帳が降りてくるとともに高まっていく緊張感と、夜になっても引かない暑さに疲れ、窓辺のソファに座りため息をついたのを覚えている。
何も考えたくなくて、ぼんやりと月を眺めているうちに、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。唇に何かが触れる感触に目覚めると、驚くほど近くに義弟の端整な顔があった。
口づけられたのだと気付いた時には押し倒されていた。
言葉も何もないまま、突然始まった行為に、驚き抗う体は力強い腕に押さえつけられ、悲鳴は義弟の口の中に消えた。
恐怖に竦んだ心を置き去りにして、体は巧みな愛撫にあっけなく敗北した。気付けば熱に浮かされ、自分でも聞いたことのない甘い喘ぎ声がひきずり出されていた。
体中に征服の証を刻み込まれ、快楽に支配された体はもう自分のものではないようだった。感情とは切り離されたところで、体は快楽に溺れた。
まるで麻薬のような快楽に、涙が膜を張ったような瞳の先、見上げた月がやけに綺麗に見えて一瞬だけ、現実を忘れることが出来た。
この悪夢のような時間の中に、自分の意思はどこにもなかった。
たった数時間で、すべてのものが変えられてしまった。
義弟と再会してから続いていた緊張と、美咲の意思を無視して始まった行為に、心が対応しきれずに、張り詰めていた緊張の糸が切れ、まるで子どものように泣きじゃくることしか出来ない。
「いっ……体、なんなっ……のよ! 何がしたっ……いのよ!」
――怖かった。これから自分がどうなってしまうのかわからなかった。
こんな状況であっても、この野生の獣のように綺麗な義弟が、本気で自分を欲しがっているなんて思えなかった。
この男にとってこれは、いつもの遊びの一環でしかないのだろう。それがわかっているから辛かった。
両親や周囲の大人たちには上手に隠していたが、十代の前半には、すでに濃厚な男の気配を漂わせていた義弟。美しい顔立ちと年に合わない存在感は、いい意味でも悪い意味でも、同年代の中では際立って目立つ存在で、男女ともに彼の信奉者は多かった。
彼の周りには常に美しい女たちが、花の蜜に引き寄せられる蝶のように群れていて、気まぐれに女たちに手を出す義弟の姿を、半ば呆れながら見つめ続けたあの頃――時折、女の匂いをわざと纏いつかせ、それを隠そうともしない義弟を、十代の少女の潔癖さで嫌悪していた。
けれど、本当はその綺麗な琥珀色の瞳に映る女たちに嫉妬していた自分がいることを、美咲は知っている。でも、それを認めることは、決して出来なかった。認めてしまえば、美咲は美咲でいられなくなる。
――だから、嫌いだ。大嫌いだ。こんな男!
「ひ……っ、ひ、っく」
静かな部屋に美咲の泣き声だけが響く。
「あん……なんてっ……大、嫌い……」
泣きながら訴える美咲に、義弟は言う。
「知ってるよ。俺を嫌いなことなんて。でも、やめてやらない。憎まれても、恨まれてもいいから、あんたは俺を見ていろ。あんたは俺のものだ」
とても静かな口調で義弟は言った。あまりに身勝手な言葉に美咲は目を瞠る。しかし、言葉と同時に激しく腰を使われ、美咲は痛みと快感にわけがわからなくなった。
「……あ、や……ん……っ!」
今まで感じたこともないような快楽の渦に、強制的に叩き込まれ、美咲の思考は意味をなさなくなる。
白く濁っていく意識の中で、義弟の琥珀の瞳がまるで月のように輝いて見えて、綺麗だと思ったのが、美咲の最後の記憶だった――
☆
自分の腕の中で意識を失い眠る義姉の美咲を、そっと抱きしめる。
月光に照らされた彼女の顔は、涙に濡れていた。閉じられた瞼の先、睫には狂気の時間の名残の雫がいくつも絡みついていた。その雫はいまだ尽きることなく眦を伝い、美咲の乱れた黒髪を濡らしていく。
薄闇に包まれた室内に浮かび上がる白く華奢な肢体には、敦也がつけた指痕や赤い痕が無数に散らばっていた。それは大腿のきわどい場所にも無数に残され、白濁した蜜が美咲の下肢を汚していた。
一目で陵辱されたとわかる姿――
その痛々しい姿に、満足を覚える自分はおかしいのだろう。美咲に対する飢餓にも似た想い。
そんなことは、自分でもわかっている。
眠りながら、それでも泣き続ける美咲の眦に口づけて、その雫を拭った。
ピクリと美咲の瞼が震えて、睫に絡んでいた雫がまたいくつもの流れを作っていく。
涙と汗に濡れて乱れた、美咲の長く美しい黒髪を梳き整える。
絹のように滑らかな髪の感触が気持ちよくて、何度も指に絡めるように梳く。
それでも、美咲はぐったりとして起きることはなかった。
『初めまして、敦也君。私は美咲よ! 仲良くしようね』
初めて出会ったあの日――差し出された義姉の手を掴んだあの日から、自分はずっと囚われてきた。
その黒い瞳に。掴んだ手の温かさに。
敦也は昔から、この二つ年上の義姉が欲しかった。
決して自分を見ようとしない、この義姉が……
それは、ヒリヒリと灼けつくように熱く、トロリと絡みつくように甘い、渇望だった。
抱き寄せた美咲のぬくもりは心地よかった。だが、これだけでは満足出来なかった。敦也にはそれ以上に欲しいものがあった。
初めて抱いた美咲の体はまるで甘い毒のように、敦也の体に深い快楽をもたらした。
排泄行為としてのセックスとは違う、全身が総毛立つような深い官能。
快楽に染まって泣く美咲の瞳に映る自分を、もう一度見たかった。
美咲を追い詰めても、苦しめてもいいと思うこの想いは、綺麗なだけの感情ではない。
胃が灼けつくようなこの飢餓にも似た想いを鎮められるのは、ただ一人、義姉だけ。
家族としての優しいだけの情愛も、温かいだけの絆もいらない。
表面上は穏やかだった家族ごっこに終わりを告げる時が来た。
二度と自分は美咲を義姉とは呼ばないだろう。
自分はもう決めてしまった。
美咲を泣かせても、憎まれても、自分という男を美咲に刻み込む。
涙に濡れてその色を漆黒に染めた美咲の瞳に映る男は自分だけでいい。
眠る美咲に口づける。
自分の腕の中で眠る美咲は、誰よりも美しい。
もう自分はこの存在を手放すことは出来ない。
――ならば、手に入れるだけだ。
夜が明けていく。
まるで絡みつくようだった、熱を孕んでいた狂気のような夜が。
夜が明けた時、二人の関係は何もかもが変わっているだろう。
敦也が望んだままに――
第一章 パンドラの箱の底に沈めた恋
いつからだろう?
義弟の――敦也のあの琥珀の瞳が苦手になったのは……
初めて出会ったあの日、これから自分の義弟になるという二歳年下の敦也は、まるでお人形のように可愛くて、その茶色の瞳がガラス玉みたいに綺麗で、嬉しかったのを覚えている。
母は美咲が三歳の頃に交通事故で亡くなり、父は男手一つで美咲を育ててくれた。だが、仕事の忙しかった父は家を空けることも多く、小さな美咲はいつも祖父母の家に預けられていた。
祖父母は美咲をとても愛してくれたし、仕事で忙しい父が美咲を大切にしてくれているのはわかっていたから、寂しいと思うことは少なかったような気がする。
美咲が七歳になった時に父が再婚し、美咲には新しい母親と二歳年下の弟が出来た。それが敦也だった。
元モデルだったという美しい母親によく似た敦也は、子どもの頃からとても秀麗な顔をした、まるで人形のように可愛い子どもだった。
新しく出来た家族を、美咲は素直に喜んだ。
再婚前に両家の顔合わせを兼ねた食事会の席で、初めて見た敦也の瞳があまりに綺麗で、この子が弟になるのかと興奮した。
「初めまして、敦也君。私は美咲よ。仲良くしようね」
差し出した美咲の手を掴んだ、敦也の小さな手の感触さえも覚えている。
多分、あの時に、自分は彼の琥珀色の瞳に魅入られたのだろう。
それからしばらく、琥珀の瞳が見たくて、敦也の顔を覗き込むのが美咲のくせになったくらいには――
だが、いつの頃からだろう? 敦也の琥珀の瞳に不穏なものを感じるようになったのは。
その琥珀の瞳が苦手になったのは。
まるで、獲物を狙う野生の獣のように鋭くこちらを見つめてくる敦也の瞳が、美咲は怖くて仕方なかった。
その瞳は、美咲の中で眠る何かを揺り起こす――それを感じていたのかもしれない。
☆
目覚めはひどく不快だった。
体は鉛のように重く、指を動かすのさえも億劫だった。
寝返りを打とうとしても、だるさを訴える体は美咲の言うことを聞こうとはしなかった。
特に腰から下は自分のものではないように重く、痺れていた。
体が熱かった。そして、喉がひどく渇き、痛みを訴えている。
熱が出ているのかもしれないと美咲は思った。
だから、こんなに体がだるいのだろうと考える。
泣きすぎた後のように腫れぼったい瞼を開くと、そこは大学進学までの十八年間を過ごした実家の部屋だった。
窓から差し込む光はもう黄金色になり、時刻を確認すれば夕方の六時を過ぎていた。
――あれ、いつ実家に帰ってきたんだっけ?
そう思った次の瞬間、一気に美咲の脳裏に昨夜の出来事がフラッシュバックする。
「あぁ!」
掠れた叫びが美咲の喉から零れる。
――敦也! あの琥珀色の獣の瞳をした義弟に自分は……‼
「なん……で……」
がたがたと体が震えた。
半ばパニックになりながら、美咲はまるで自分のものではないような体を起こす。
そして、自分が素肌を曝したままであることに気付いた。
見下ろした自分の体中に散る赤い花びらのような痕に、昨日の生々しい感触が蘇る。
胸や内腿のきわどい部分を中心として無数に散った赤。手首には抗った美咲を押さえつけた時に出来たのだろう、指の痕がくっきりと残っていた。
体中に刻み込まれた敦也の痕は、昨日の狂気のような出来事が現実だったと知らしめてくる。
まるで、刻印のように刻まれたそれらを、美咲は呆然と眺めた。
夢だと思いたかった。
何もかもが悪い夢だと思いたかった。
だが、体中に刻まれた痕は、それを許してはくれない。
そして思い出すのは、美咲を揺さぶりながら言った敦也の言葉。
『知ってるよ。俺を嫌いなことなんて。でも、やめてやらない。憎まれても、恨まれてもいいから、あんたは俺を見ていろ。あんたは俺のものだ』
あまりに身勝手な言葉。美咲の意思も、何もかもを無視したものだった。
「……ふふ」
どれくらいそうしていたのかわからない。
やがて、パニックが去った後の美咲の唇から乾いた笑いが漏れた。
――何が、あんたは俺を見ていろよ! 何が、あんたは俺のものよ!
美咲は知っている。
――たとえ、美咲があの男のものになったとしても、あの美しい獣が決して美咲のものにはならないことを‼
自分の中の奥深くに、頑丈に鍵をかけて閉じ込めたものがある。
普段は忘れて、意識することもないそれが、美咲の心をかき乱す。
美咲は固く瞼を閉じて、指が白くなるほど強くシーツを握り締めた。
――何も思い出すな。何も感じるな。これは開けてはいけないパンドラの箱。
最後に残っているのは、希望ではなく絶望なのだから――
☆
絡みつくようだった厳しい残暑も、十月に入るとようやく秋らしい涼やかな夜を過ごせるようになってきた。
半分だけ欠けていた月も徐々にその本来の姿を現し、綺麗な円形になっている。
それに呼応するように、美咲の体に残された陵辱の痕は、少しずつ消えていった。
ひとつ、ひとつ。痕が消えていくたびに、美咲の心も少しずつ平静を取り戻していった。
そして、あの夜から二週間が経とうしていた――
「お疲れ様でした」
「お疲れ様~」
「あ、美咲! これから飲みに行かない?」
「ごめん、今日は疲れてるから、また今度」
仕事が終わり美咲は同僚たちに声をかけると、職場を後にする。
美咲が勤める『彩華―SAIKA―』は県内に数店舗を展開する、オーガニック系コスメや食品、アロマ用品などの雑貨を扱うリラクゼーション系総合サービスの会社だった。社員数は三十人と少ないが、その分フットワークも軽く、徐々に業績を伸ばしている。
美咲は大学の頃から販売員のバイトとしてここで働いていた。バイト時代に社長に気に入られ、そのまま正社員として就職した。
明日は久しぶりの休みだった。普段の休日前の夜なら、友人や同僚たちと飲みに行ったり、恋人の安田恭介とデートを楽しんだりするのだが、今はまだ、そんな気分にはならなかった。
美咲は一人、最寄の駅に向かって歩く。知らず、ため息が漏れた。
両親の三回忌から二週間――敦也との間に起こったことを、美咲は無理やり忘れることを選んだ。
――何もなかった。あの夜には何もなかったのだ。
そう言い聞かせることで、美咲は必死に自分を保っていた。
すべてのことに目をつぶり、耳を塞いで普段通りの日常を演じる。たとえそれが、薄皮一枚の上の危ういバランスのもとに保たれたものだとしても、美咲はあの夜の出来事を忘れたかった。
仕事中や誰かといる時は、ほとんど成功していたが、こうして疲れた夜に一人でいると、日常の底に閉じ込めたはずの悪夢が顔を出しそうになる。
浮かび上がってくる映像を振り払いたくて、美咲はギュっと目をつぶった。
――違う! 知らない、こんなこと! あの夜には何もなかったのだ‼
「美咲!」
切れ切れに浮かび上がってくる映像に、美咲が恐怖に包まれそうになった瞬間、後ろからよく知った声に呼ばれた。
ハッとして振り向くと、そこには恋人の恭介がいた。
走ってきたのだろう。息を切らせた様子の恭介が美咲に向かって微笑む。
その顔に安堵と罪悪感を覚え、美咲はぎこちない微笑を浮かべることしか出来なかった。
「どうしたの、恭介? そんなに焦って……」
「美咲に会いたくて店に行ったら、今帰ったばかりだって聞いたから、走って追いかけてきた」
荒い息のままにこりと微笑む男に、美咲の胸の奥が疼く。
「電話くれればよかったのに……」
「言われてみればそうだな」
美咲の言葉に、恭介の優しい顔が困ったようになり、言葉を濁して視線が逸らされた。
その様子に、美咲の笑みも強張り、ぎこちない沈黙が二人の間に落ちる。
取引先の担当者だった三歳年上の恭介と付き合って二年。最近は少しずつお互いに結婚を意識していた。だが、ここ二週間、美咲は恭介とうまく接することが出来なかった。
「なんか、美咲が実家に帰ってから避けられている気がして」
思い切ったように、恭介がそう言った。
「何で? 私が恭介を避ける理由なんてないよ?」
美咲は平静を装って、何とか微笑らしきものを浮かべて答えるが、その笑みが強張っているのが自分でもわかる。
――嘘。本当は恭介を避けていた。
最初は敦也が残した痕を見られるわけにはいかなくて。
今は、無理やりであっても敦也に抱かれた自分を恭介に知られたくなくて、美咲は彼から逃げていた。
「最近、電話してもメールしても、仕事以外で会ってくれなかっただろう? だから……」
「ごめん」
美咲は恭介との距離を詰めると、その大きな手を握る。
「美咲?」
罪悪感に歪みそうになる顔を見られたくなくて、恭介の肩に額を押し付ける。
「ごめん。両親の三回忌が終わって、ちょっとナーバスになってる。今さらだけど、両親がもういないんだなって実感しちゃった」
その言葉に恭介の体から力が抜けるのを感じた。
嘘ではなかった。でも、本当の理由でもない。
「そっか。そうだよな。こっちこそごめん。美咲が実家に帰っていた理由を、ちゃんと考えてなかった」
「ううん。ちゃんと話せなくてごめん。うまく気持ちの整理がつかなくて……」
「いや、俺が悪い。変な勘違いしてた。他に好きなやつでも出来たのかって、妙に焦った」
おかしいよなと苦笑する恭介の言葉に、何故かどきりとした。
脳裏に浮かぶのは敦也の琥珀色の瞳。その瞳が美咲の嘘を嘲笑っているように思えた。
――違う! 違う‼ 私が好きなのは、恭介だけだ!
美咲はそれを振り払いたくて、甘えるように恭介の肩に額を擦り付ける。肩に恭介の腕が回され、往来の真ん中で抱きしめられた。比較的、人通りの少ない時間帯だったおかげで、周囲に人はいない。
「もう少しだけ、待って。ちゃんと気持ちの整理をつけるから」
「俺もいる。あんまり一人で抱え込むなよ」
「わかった。ありがとう」
ぎゅっと美咲を抱く恭介の腕に力がこもる。
美咲の言い訳をすんなりと信じてくれた恋人の優しさに、どうしようもない罪悪感が込み上げてきた。
でも、あの夜のことを、恭介にだけは絶対に知られたくなかった――
途中まで送ってくれた恭介と別れ、美咲は自宅マンションまでの短い道のりを歩く。
住宅街を歩きながら見上げた月は、綺麗な満月だった。
舐めたら甘そうな綺麗な琥珀色。あの夜、最後に見た敦也の瞳と同じ色。
今日、恭介に言われた他に好きなやつという言葉に、何故か浮かんだ敦也の瞳。
その瞳が恭介と過ごす美咲を攻め立てる。
考えたくもないのに、今、思い出すのは敦也のことだった。
昔も、今も、美咲には敦也が何を考えているのかわからなかった。
ただ言えるのは、あの綺麗な琥珀色の獣の瞳をした男が、決して本気で自分を欲しがることはないということだけ。
あの夜、敦也が言った言葉を、美咲は信じていなかった。
信じるつもりなんてなかった。
あれは、敦也にとって、ただの気まぐれでしかない。義弟を毛嫌いしている自分に対しての、度を過ぎた嫌がらせだ。
そうに決まっている。それで美咲がどれほど傷つくかなんて、あの義弟はわかっていないのだ。
その証拠に、目覚めた美咲は実家に一人で取り残されていた。
敦也の存在に怯える美咲の心を嘲弄するかのように、義弟はどこにもいなかった。
あの瞬間、敦也の気まぐれに踊らされ、飽きればあっさりと捨てられる存在でしかないのだと思い知らされた。
冗談じゃなかった。自分は玩具ではない。心もあれば感情もある人間だ。
ままならない体のまま、美咲は逃げるように実家を後にした。
もう敦也と会うつもりはなかった。
ピアニストとして活躍し、もともと海外を拠点にして生活している敦也とは、美咲が大学に入学してから、それこそ数えるほどしか会っていない。あの夜を含めても片手で足りるほどだ。
両親の葬儀の時でさえも、敦也は仕事のために帰ってこなかった。
意識して避ければ、たとえ義姉弟といってももう会うことはないだろう。
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