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午前8時。私服から作業服へと着替えた朱鈴は閉園期間中の日課となっている温室内での水撒きをはじめた。
通常ならば、植物園の開園時間は9時からだ。しかし、この時期に開園する予定はない。室内の換気および植物生育温度の保持が困難となるため、冬期は全館閉園している。
そして、受付スタッフの仕事は電話番が主な業務となった。しかし、日に数回しか鳴らない電話を待つには人件費が掛かりすぎていた。運営は経費の削減をはかり、閉園期間は研究員やスタッフの育成のためとして、博物館や資料室などの清掃,温室やバラ園の水やりなどを従事させられることになった。
今にして思えば、私が将来を悲観するようになったのは当然だろう。彩蘭は夫と共稼ぎをして、年収は500万円を優に超えていた。それなのに、私の方は200万円以下ときている。
私たちは中学時代からの親友だった。一緒に漫画をつくり、コミックマーケットに出展したこともあった。何をするにも一緒で、お互いにお気に入りの服を交換しては着まわしたこともあった。
5年前、彩蘭が妊娠したときは心の底から歓喜した。流産したと聞いて落胆もした。まるで、自分のことのように覚えていた――。
◇
――5年前。彼女の夫からlineで『彩蘭が流産した』と知らされ、私は仕事を抜けだし、彼女のもとへ駆けつけた。
夫の敬文は職場に戻ったのか、産婦人科の病室に姿はなかった。ぼんやりと空を見つめていた彩蘭と目が合う。そして、私の顔を見るなり泣きはじめた。
「ごめんね、朱鈴。朱鈴も赤ちゃんに会えるの楽しみにしていたのに。
こんな事になって、本当にごめんね」
彩蘭は瞳に溢れんばかりの涙を浮かべて、何度も繰りて返し謝ってきた。
「彩蘭がとっても悔しい気持ち、私が一番わかってあげられるから」
ベッドで上体を起こしていた彩蘭を私は優しく抱きしめた。
「ねぇ、彩蘭。旦那はどうしたの?」
「大事なお得意様を待たせているからって。もう、外回りに戻っていったわ」
「信じられない! 彩蘭よりも仕事を取るなんて!」
「大丈夫だから。彼にそういったら急いで出て行った……」
そのときの私たちは、男性をまったく理解していなかった。その言葉が「安心して任せてほしい」なんて意味合いを含んでいただなんて、考える余地もなかった。
◇
突然、PHSが鳴り響く。私は現実に引き戻されていった。
今日は珍しく、朝から植物園に電話を掛けてきた人がいるみたいだ。親機を経由してPHSに繋がる仕組みだ。
「お電話ありがとうございます。〇〇植物園です」
「道警の桜月と申します。白咲 朱鈴さんはいらっしゃいますか?」
「はい。私が白咲です」とても驚いた。
予定では、明日くらいに電話が掛かってくると思っていたからだ。
「驚かれるかもしれませんが、安倍 敬文さん御夫妻について伺いたく、お電話させていただきました」と女性の声がした。
「え? 何かあったのでしょうか?」少し驚いた素振りで訊ねた。
「おふたりのことは、ご存知でしょうか?」
「はい。とてもよく知ってます。彩蘭とは、中学時代からの親友ですから」やや早口で心配を装う自分が、なぜだか無性に腹が立ってきた。
「安倍 彩蘭さんから夫の敬文さんへの失踪届けが出されたことはご存知でしょうか?」
「はい。1週間ほど前に彩蘭から聞かされて知ってます」
「実はその彩蘭さんが、ここ数日ほど御自宅に戻られていないようなのですが、何かお心当たりはないしょうか?」
「いいえ……。でも、彼女の電話番号なら知っています。
こちらから、掛けてみましょうか?」
「その必要はありません。ですが、安倍彩蘭のお電話番号を教えて頂いてもよろしいでしょうか?」
「構いませんが、少し待って頂けないでしょうか? 仕事中は携帯電話を更衣室に置いているものでして。5分後に掛け直します」
そう言ってPHSを切ろうとしたが、「繋いだ状態で結構です」と向こうからの進言があった。何かを勘ぐったように感じた。
私は走り出した。こちらが、慌てていると思わせるためだ。
数十メートルほど走れば、更衣室に着く。そして、ロッカーの鍵をポケットから取り出し開錠する。中に置いてあるバッグから、自分の携帯電話を取り出した。
「お待たせしました。電話番号を読み上げてもいいですか?」
「はい。お願いします」
「060-××××-××××」
「ご協力、感謝します」 通話が途絶えた。
数秒後にロッカーの中から呼び出し音がした。彩蘭の携帯電話が鳴る音だ。
私はディスプレイされた番号を見た。おそらく、先ほどの道警の女性からだろう。
しばらくお待ち、鳴りやむのを確認した。それから素早くアプリを立ち上げた。
『ディープフェイク』と呼ばれるAI顔交換アプリ。フェイススワップ(顔交換)機能を開く。そして、掛かってきた電話番号に掛け直す。予め機能を拡張しておいたそれをTV電話として立ち上げた。
通常ならば、植物園の開園時間は9時からだ。しかし、この時期に開園する予定はない。室内の換気および植物生育温度の保持が困難となるため、冬期は全館閉園している。
そして、受付スタッフの仕事は電話番が主な業務となった。しかし、日に数回しか鳴らない電話を待つには人件費が掛かりすぎていた。運営は経費の削減をはかり、閉園期間は研究員やスタッフの育成のためとして、博物館や資料室などの清掃,温室やバラ園の水やりなどを従事させられることになった。
今にして思えば、私が将来を悲観するようになったのは当然だろう。彩蘭は夫と共稼ぎをして、年収は500万円を優に超えていた。それなのに、私の方は200万円以下ときている。
私たちは中学時代からの親友だった。一緒に漫画をつくり、コミックマーケットに出展したこともあった。何をするにも一緒で、お互いにお気に入りの服を交換しては着まわしたこともあった。
5年前、彩蘭が妊娠したときは心の底から歓喜した。流産したと聞いて落胆もした。まるで、自分のことのように覚えていた――。
◇
――5年前。彼女の夫からlineで『彩蘭が流産した』と知らされ、私は仕事を抜けだし、彼女のもとへ駆けつけた。
夫の敬文は職場に戻ったのか、産婦人科の病室に姿はなかった。ぼんやりと空を見つめていた彩蘭と目が合う。そして、私の顔を見るなり泣きはじめた。
「ごめんね、朱鈴。朱鈴も赤ちゃんに会えるの楽しみにしていたのに。
こんな事になって、本当にごめんね」
彩蘭は瞳に溢れんばかりの涙を浮かべて、何度も繰りて返し謝ってきた。
「彩蘭がとっても悔しい気持ち、私が一番わかってあげられるから」
ベッドで上体を起こしていた彩蘭を私は優しく抱きしめた。
「ねぇ、彩蘭。旦那はどうしたの?」
「大事なお得意様を待たせているからって。もう、外回りに戻っていったわ」
「信じられない! 彩蘭よりも仕事を取るなんて!」
「大丈夫だから。彼にそういったら急いで出て行った……」
そのときの私たちは、男性をまったく理解していなかった。その言葉が「安心して任せてほしい」なんて意味合いを含んでいただなんて、考える余地もなかった。
◇
突然、PHSが鳴り響く。私は現実に引き戻されていった。
今日は珍しく、朝から植物園に電話を掛けてきた人がいるみたいだ。親機を経由してPHSに繋がる仕組みだ。
「お電話ありがとうございます。〇〇植物園です」
「道警の桜月と申します。白咲 朱鈴さんはいらっしゃいますか?」
「はい。私が白咲です」とても驚いた。
予定では、明日くらいに電話が掛かってくると思っていたからだ。
「驚かれるかもしれませんが、安倍 敬文さん御夫妻について伺いたく、お電話させていただきました」と女性の声がした。
「え? 何かあったのでしょうか?」少し驚いた素振りで訊ねた。
「おふたりのことは、ご存知でしょうか?」
「はい。とてもよく知ってます。彩蘭とは、中学時代からの親友ですから」やや早口で心配を装う自分が、なぜだか無性に腹が立ってきた。
「安倍 彩蘭さんから夫の敬文さんへの失踪届けが出されたことはご存知でしょうか?」
「はい。1週間ほど前に彩蘭から聞かされて知ってます」
「実はその彩蘭さんが、ここ数日ほど御自宅に戻られていないようなのですが、何かお心当たりはないしょうか?」
「いいえ……。でも、彼女の電話番号なら知っています。
こちらから、掛けてみましょうか?」
「その必要はありません。ですが、安倍彩蘭のお電話番号を教えて頂いてもよろしいでしょうか?」
「構いませんが、少し待って頂けないでしょうか? 仕事中は携帯電話を更衣室に置いているものでして。5分後に掛け直します」
そう言ってPHSを切ろうとしたが、「繋いだ状態で結構です」と向こうからの進言があった。何かを勘ぐったように感じた。
私は走り出した。こちらが、慌てていると思わせるためだ。
数十メートルほど走れば、更衣室に着く。そして、ロッカーの鍵をポケットから取り出し開錠する。中に置いてあるバッグから、自分の携帯電話を取り出した。
「お待たせしました。電話番号を読み上げてもいいですか?」
「はい。お願いします」
「060-××××-××××」
「ご協力、感謝します」 通話が途絶えた。
数秒後にロッカーの中から呼び出し音がした。彩蘭の携帯電話が鳴る音だ。
私はディスプレイされた番号を見た。おそらく、先ほどの道警の女性からだろう。
しばらくお待ち、鳴りやむのを確認した。それから素早くアプリを立ち上げた。
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