いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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第七章~おごりの盾~

四百六十五話【SIDE:陽平】

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 愛おしい香りに導かれ、たどり着いたのは俺の私室だ。

「――!?」

 ドアを叩き開けると、あまりの芳しさに目を瞑ってしまう。まるで、甘い風が吹きつけてきたようだった。

 ――この、香り……

 俺は操られるように、ふらふらと香りの発生源に向かう。部屋の奥――壁際のベッドのそばに来ると、どさりと崩れ落ちるように膝まづいた。

「成己」

 白いシーツの上に、恋しいオメガが、花束のように横たわっている。
 眠っているのか、長い睫毛は伏せられていた。小さな桜色の唇は薄く開き、浅い呼吸を吐いている。

「なるみ……本当、に……?」

 マットに肘をついて、恐る恐る手を伸ばした。細い腕が簡単に手の中におさまって、ぬくもりが伝わってくる。身じろいだ拍子に、ふわりと瑞々しい花の香りが鼻腔を撫でた。

「あぁ……」

 懐かしさに、まぶたがじんと熱をもつ。
 
 ――成己だ……!
 
 記憶の中で、何度も反芻した成己の香りだった。……愛おしい、懐かしい。ほんの三月前までは、お前の側に居ることが当然だったなんて、とても信じられない。
 奥歯を噛みしめ、歪んだ頬に涙が伝った。

「……っ、ふ……」

 鼻を啜り、横たわる成己を見つめる。
 相変わらず、細い。
 それに……かわいい。
 見慣れない装いをしていた。
 ミルク色の肌を映えさせる漆黒のフリルシャツに、華奢な脚線を引き立てるタイトなパンツ。一瞬、よくできた人形と見まがうほどだ。
 どうして、こんな格好を――。ぼんやりと思い、はっとする。
 
 『成己さんが、部屋にいるの。あなたのお嫁さんになるために……』

 母さんの言葉が蘇った。
 そこで、成己の細い両腕が、頭上のヘッドボードに結びついていることに、やっと気づく。その手首を固く戒める深紅のベルトが血のように見え、ゾッとする。
 
 ――まさか……母さんは、成己を強引に連れてきたのか……?
 
 既婚のオメガを攫うなんて、常識じゃあり得ないが……母さんならやりかねない。
 浅く息を吐き、ぐったりと動かない成己の姿に、俺は青褪めた。

「成己……おい、成己っ」

 華奢な肩を掴み、揺り動かす。――成己は、「んん」と小さく呻いて、眉を寄せたが、目を覚ます気配はない。むしろ、その吐息の甘さに、俺は狼狽えた。
 身じろいだ拍子に仰のいた顎のラインが、白く眩しい。
 
 ――綺麗、だ……
 
 成己はこんなに美しかったか、と思う。俺のもとに居た時は、こいつはまるきり幼くて。一緒のベッドで眠っても、安らぎしかなかったんだ。
 それがいまは、こんな……甘い水が滴るような。
 
 ――……野江なのか? 幼かったお前を、こんな風にしたのは……
 
 嫉妬に胸が焦げ付きそうになる。
 
 『城山くん』

 制服を着て本を抱く、出会ったころの成己が浮かぶ。無邪気な笑顔は、俺だけのものだったはずだ。

「……っ、何考えてんだ。そうだ、手。解いてやらねえと……」

 俺は馬鹿な考えを振り切るよう、成己の手首を戒めるベルトに手を伸ばす。自然、覆いかぶさる姿勢になり、心臓が激しく鼓動する。指が震えて、なかなか上手くほどけない。

「クソッ……」

 ただでさえ、ずっといい匂いがして、脳がくすぐられてるみたいなのに。
 腕の下に成己がいて、平静でいられるはずもない。
 
 ――早く、解かねえと。自由にしてやらなきゃ、俺は……
 
 腹の奥を突きあげる衝動に気づかないふりをして、ベルトのバックルから剣先を引き抜こうとする。焦るあまり、ガシャガシャと耳障りな音が響き、成己が眉を顰めた。

「……う」

 長い睫毛が、震える。
 成己の目が、ゆるりと開いた。
 
 
 

「……ぁ……!」

 ときめいたのは一瞬で、この状況にさっと血の気が引いた。母さんが無理やり連れてきたなら、俺のことをどう思っているか、聞かなくてもわかることだ。
 
 ――軽蔑される。
 
 石のように固まって俺は、成己を凝視した。
 固唾を飲み断罪のときを待つ。

「……」

 しかし成己は、まだ夢を見ているように、ぼんやりとしていた。はしばみ色の瞳は焦点を結ばず、ふらふらと彷徨っている。予想していた嫌悪や拒絶がやってこないことに、俺は戸惑う。

「……成己?」

 恐る恐る、問う。
 すると、成己の目がこっちを見る。鋭く息を飲んだ俺の目の前で、
 

「…………ひろ、ちゃん?」

 
 唇が、花のようにほころんだ。

「!」

 それは劇的な変化だった。
 甘い声で憎い男の名を呼び――ふわりと匂い立つように、可憐な”花”を咲き誇らせる。

「ひろちゃん……」

 成己は、自分に覆いかぶさる男が、俺だと気づいていないようだ。いつも通り、自分の夫である野江だと、思い込んでいるらしい。

「よかった」

 小さく呟いて、潤んだ瞳が安心したように、ふたたび閉じられる。吐息が、深くなった。
 自分に、男が覆いかぶさっているのに、あのお堅い成己が。この後に、たとえ何が起きても構わないというように――。

「は……はは……」

 乾いた笑いが漏れる。
 胸の奥が、からからに干からびていくような感覚だった。灼けた砂を飲まされたように、喉も内臓も肌も――全部痛い。

 ――成己は、あの男にそこまで許したのか。

 俺に優しくして、愛を注いだ体を……全て、あの男に。

「……畜生ッ!」

 俺は、怒鳴った。
 ベッドの上に乗りあげると、華奢な肢体を閉じ込めるように覆いかぶさる。怒りと焦燥で赤くなる視界に、愛しいオメガを映した。――この身体のどこにも、俺の入る余地はないのか? 本当に?

「成己……」

 薄く開いた唇から、目が離せない。……試してみたい。自分の呼吸が獣のように早くなるのがわかる。
 脳裏で、冷静な自分が「止せ」と囁く。成己を愛しているなら、止せって。
 
 ――でも俺は。俺だって、お前を……!
 
 衝動に押し切られるように、俺は成己に自分を押し付けた。

「……っ!」

 やわらかな唇に触れた瞬間、理性が焼き果てる。小さくて、少し冷たい成己の唇。久しぶりの感触に、脳がどろどろに溶けそうな快楽が襲う。
 
 ――成己!
 
 深くキスしながら、華奢な身体を抱きしめる。甘い香りを漂わせる肌に、涙が滲むほどの愛おしさがこみ上げた。
 そうだ。理性で手放せるなら、誰も後悔なんかしない。

 『成己さんにはきちんとしてやれ』

 誰かの声が、彼方に消えていった。
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