いつでも僕の帰る場所

高穂もか

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第七章~おごりの盾~

四百七十一話

 突然解放され、ぼくは激しく咳き込んだ。シーツの上に倒れ込みそうになったところを、熱い腕にしっかりと抱き留められる。

「成……成己!」
「ゲホッ、ゲホ……」

 必死な声が、耳元で響く。苦しさで溢れ出した涙のむこう、愛しい面影が映る。

「……っ、ひろ、ちゃ……」

 声を絞り出すと、喉が引き攣るように痛む。ケホ、と咳き込むと大きな手が背を擦ってくれた。

「大丈夫か!? なんて無茶をするんだ!」

 苦しみを吐くように囁いた宏ちゃんが、ぎゅっとぼくを抱く。……ぼくをすっぽりと包んでしまいそうな、大きな体。背を撫でてくれる大きな手。あたたかな木々の香りに包まれて、どっと安堵が襲ってきたん。

 ――宏ちゃん……宏ちゃんだ……!

 顔がくしゃりと歪む。鼻の奥がツンと痛んで、嗚咽が漏れた。

「ああ……ごめんな。すぐに外してやる」

 泣きだしたぼくに、悲しい顔になった宏ちゃんが、急いで手首の戒めを解いてくれる。バラッ、と音を立てて拘束が落ちるとともに、ぼくは逞しい首に抱きついていた。

「わああん……宏ちゃんっ……」
「成……っ」

 ぎゅう、と両腕で齧りつく。家の明かりを見つけた、迷子の子どもみたいに、ぼくはわあわあ泣き叫んだ。

「怖かった……怖かったよぅ……!」
「よしよし……辛かったな。もう大丈夫だから……」

 宏ちゃんは、ぼくをしっかり抱いて、頭を撫でてくれた。低く優しい声が、脳を甘く揺らす。とくん、とくん、と鼓動が脈打って、全身にあたたかな血が通いだした。
 宏ちゃん。
 ぼくの、大切な人。
 鼻先を埋めたシャツに、汗と血のにおいがして胸が締め付けられる。こんな、ぼくのせいで。

「ひっ……うう。ごめ、なさ……」
「いいんだよ。成……うちに帰ろう。な?」

 しゃくりあげるぼくに、宏ちゃんが優しく言い聞かせる。何度も頷くと、宏ちゃんはぼくの頭を彼の肩に抱え込んだ。
 それから、シャツを脱いでぼくに着せかけてくれる。

 ――うちに帰れる。宏ちゃんと、おうちに……

 喜びと安堵でぼうっとしていると、背後で呻き声が聞こえた。ぼくは、はっとする。

「ぐっ……野江……」

 左頬を赤く腫らした陽平が、よろめきながら身を起こす。険しい紅茶色の瞳が、ぼくを射抜く。ビクリと肩を震わせると、宏ちゃんが守るように抱きしめてくれた。

「無駄だ、城山」

 宏ちゃんの声は、冷たく静かだった。本気で怒ってると伝わるそれに、自分に向けられていないのに、肌がさあっと粟立った。
 そして、やっと状況が少し見えてきたん。

 ――あ!

 腕を戒めていたはずのベルトは、打ち捨てられていた。
 宏ちゃんを押さえつけていた男たちは、全員倒れている。外傷はないみたいやのに、全員白目をむいていた。きっと、フェロモンに当てられたんだ。
 陽平も、苦しそうに息を吐いている。状況は、すっかり逆転していた。

「成己を、離せ……!」
「断る」

 宏ちゃんが言い、静かに後じさる。陽平は、叫んだ。

「ふざけるなッ……成己は俺のだ。俺の、オメガなんだよ!お前なんかが、手に入れられるもんか……!」

 子どもの駄々のような叫びだった。歪んだ目から、お気に入りのおもちゃを失くしたような、幼い必死さが溢れ出す。その顔に、高校時代の陽平が重なった。
 さあ、と風が吹き込んで、シャツがはためく。夕焼けの教室で笑い合ったことが甦った。
 
 


 放課後、ぼくがセンターからの送迎車を待っているとき。陽平は気まぐれにやってきて、一緒に待ってくれた。
 一緒に本を読んだり、お喋りしたり。でもね……話し出してしばらくすると、むっつりと黙り込んで、窓の外をじっと見てることに、気が付いたんよ。

 『陽平?』
 『……』

 教室の窓から、黙って校庭を見下ろしていた陽平。唇をぎゅっと引き締めて、何を尋ねても黙っていた。
 はじめは、何なんやろう?って不思議やった。
 でもね、次第に分かったん。
 陽平は、校門を見ていたんやって。だって、陽平がその顔をしたらね。すぐにセンターの職員さんから「校門に着いたよ」って連絡が来たんやもん。
  


「陽平」

 ぼくは、泣いていた。溢れ出す涙をそのままに、陽平を見返すと――紅茶色の瞳が見ひらかれる。

「成己?」
「……っ」

 涙を噛み縛り、俯く。過ぎ去った日が迫って、胸が痛い。

 ――あのとき……お別れを、惜しんでくれたんよね?

 ずっと忘れてたけど、思い出した。
 あれが初めてやったん。陽平にとって、ぼくは惜しんでもらえる存在なのかも、って思えた瞬間やったんや。
 宏ちゃん以外で、初めて……ぼくのことを見てくれたんやないかって思ったから。

「成?」

 ほとほとと零れた涙を、大きな手が受け止めてくれた。
 心配そうに、ぼくを見つめる灰色の瞳に笑み返す。ぼくの痛みに、誰より聡いこの人が悲しい。

「……宏ちゃん。ありがとう」

 愛しい夫を抱きしめて、紅茶色の瞳を振り切った。
 最後に思い出せて、良かった。宏ちゃんの背に腕をまわすと、そっと抱き上げられる。

「成己!!!」

 迷子の叫びが、真っ赤な夕焼けに染まる部屋に響く。胸が痛くなるような声。それでも――それはきっとぼく自身の感傷なんだ。
 目を伏せて、夕陽に立ち尽くす子供の残影を、意識の外に追いやった。

「さようなら、陽平」

 ぼくは、もう振り返らない。
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