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第八章~遥かな扉~
四百七十三話
城山家の庭園通路に夕陽が傾いている。宏ちゃんに抱き上げられて、薄赤い道を進んだ。
「大丈夫だよ。一緒に帰ろう」
「……っ、うう……」
優しく抱いてくれる夫の腕のなかで、涙が止まらなかった。
――さようなら。陽平……
もう、振り返らないと決めた迷子の影。
八月の終わりの蝉の声とか……子ども用の算数のドリルや、夕焼けの通学路みたいに、胸を焼くような「あこがれ」が心をめちゃくちゃにかきむしっている。
――かなしい……
未練じゃない。二度と戻らないと決めたからこそ、悲しかった。
――ごめんね。ひとりにして、ごめんね……。
ひ、と息を吸うと、頬をあたたかいものに包まれる。
「成、泣かないで……」
「ひろちゃん……」
涙の筋を親指が辿り、優しい感触に目を閉じる。
愛しい夫の背に、腕をまわした。宏ちゃんがいなければ、辛くて死んでしまいそうで。そんな自分が醜くて、不純やと思う。
「俺がいる。ずっと、成の側に居るよ」
「……っ」
それでも、泣きたいくらいに幸せだった。
意識が白くなる最後――夕焼けの道で、同じ制服を着た手と、手を離す幻を見た。ふたりぼっちがひとりになって、赤い道に残される。
ぼくは、片割れに背を向けて、歩き出す。ぼくを呼ぶ優しい声へ――
*
次に目が覚めたのは、車のなかだった。
優しく揺られている感覚。ぼくを抱いたまま、宏ちゃんが静かな低い声で、誰かに話している。
「――ええ。ヒートを起こしかけていると思います……周期ではないはずなので……」
ぼくは、目だけ動かして周囲を見まわした。宏ちゃんの膝に頭を乗せ、車の座席に寝ているみたい。はだかの下肢にはブランケットが巻かれていて、背中を大きな手が撫でてくれていた。
――……宏ちゃんの車じゃ、ない。センターの、車……?
熱っぽくて、ぼうっとする頭で思う。
運転席と後部座席を遮るアクリル板が見える。その向こうにいる人と、宏ちゃんは話しているみたいだった。真剣な横顔を、ぼくはそっと見上げる。
「どうされます。このまま、センターに向かわれますか?」
運転席から、女性の声が聞こえた。センター。その言葉に、どきりとする。ぼくは、宏ちゃんが何か答える前に、ぱっと膝に縋った。
「……やっ」
「成? 目が覚めたのか」
驚く宏ちゃんの膝に、ぎゅっと頬を寄せる。いやいや、と頭を振った。
「センターは、や……うちに。うちに、かえりたい……」
「……っ?」
宏ちゃんが、息を飲む。ぼくは子供みたいに、「うちがいい」と繰り返した。冷静になれば、何を甘えてるんやろって思うのにね。でも、宏ちゃんの家以外、行きたくなかったん。
「成!」
低く息を詰めた宏ちゃんが、ぼくを抱きしめてくれる。膝の上に抱きかかえられ、背中で両腕が固く交差した。ぎゅう、と締めつけられて、胸が甘く苦しい。
「……ひろ、ちゃ……」
「ああ、勿論だよ。俺達の家に帰ろうな」
「嬉しい……」
広い肩に頬を埋めると、深い木々の香りが騒めく。大好きな宏ちゃんの匂い。すんすんと鼻を鳴らして嗅いでいると、寂しさに揺らされた心の軸が、定められる。
――あったかい。
ふあ、と息を吐く。眠気に似た安堵が満ち、手足から力がぬけた。すると、からだの奥が、とろとろと熱く潤みだすような……不思議な陶酔感につつまれていく。
「……苦しくないか?」
「うん……」
甘い声に尋ねられて、夢心地に頷いた。ふわふわと心地良い。経験したことのない甘い感覚が、つま先から震えになって上ってくる。
――これは、なに?
答えを求めるように、愛しい夫にしがみ付いた。不安でいっぱいの胸を彼のそれにくっつける。息を詰めた宏ちゃんが、ぼくの髪を指で梳きながら、呟いた。
「大丈夫だよ」
「……っ」
子どもに言い聞かせるより、優しく。
ぼくは、小さくほほ笑んだ。――宏ちゃんが答えを持っていてくれる、って感じられたから。
うさぎやについたときには、外はすっかり薄暗く、空も墨を撒いたようやった。
「は……ぅ……」
「あと少しだ、頑張れ」
宏ちゃんに抱えられ、階段を上る。ただ運ばれているだけなのに、吐息が弾んだ。――このころには、自分の反応が何なのか、流石にわかってたん。恥ずかしい声をあげないよう、必死に唇を結んでいると、宏ちゃんが苦笑する。
「我慢しないでいい」
「で、も……」
「俺しか聞かないよ。ほら……」
「あぅ……!」
耳たぶに唇をつけ、甘く囁かれる。びくり、と肩を震わせると、宏ちゃんはくすりと笑った。
「うそ……だ、めぇ……」
信じがたいことに、声だけで、ブランケットの中で熱く兆してしまった。こんなことって、と目が泳ぐ。もじもじと膝を擦り合わせるぼくに、気づかないふりをしてくれながら、宏ちゃんは運んでくれた。
――あ……!
廊下を歩む夫が、居間に向かっているのに気づき、ぼくは慌てて肩を叩く。
「成?」
「まって。お……おふろに。おふろに行かせて……」
もつれそうな舌で、必死に訴える。
自分の体から、薔薇の残り香がするって、思い出したん。陽平に触れられた体で、宏ちゃんとの空間に入るのは辛かった。
「おねがい……」
宏ちゃんをじっと見上げる。灰色がかった目は、心配そうに揺れていたけど、「わかった」と頷いてくれる。
「危ないし、俺も一緒に入るぞ。いいな?」
「うん……」
断固とした声に、ぼくは頷く。背中を抱く手に力が籠ったのを感じ、お腹の奥がきゅうと疼いた……。
「大丈夫だよ。一緒に帰ろう」
「……っ、うう……」
優しく抱いてくれる夫の腕のなかで、涙が止まらなかった。
――さようなら。陽平……
もう、振り返らないと決めた迷子の影。
八月の終わりの蝉の声とか……子ども用の算数のドリルや、夕焼けの通学路みたいに、胸を焼くような「あこがれ」が心をめちゃくちゃにかきむしっている。
――かなしい……
未練じゃない。二度と戻らないと決めたからこそ、悲しかった。
――ごめんね。ひとりにして、ごめんね……。
ひ、と息を吸うと、頬をあたたかいものに包まれる。
「成、泣かないで……」
「ひろちゃん……」
涙の筋を親指が辿り、優しい感触に目を閉じる。
愛しい夫の背に、腕をまわした。宏ちゃんがいなければ、辛くて死んでしまいそうで。そんな自分が醜くて、不純やと思う。
「俺がいる。ずっと、成の側に居るよ」
「……っ」
それでも、泣きたいくらいに幸せだった。
意識が白くなる最後――夕焼けの道で、同じ制服を着た手と、手を離す幻を見た。ふたりぼっちがひとりになって、赤い道に残される。
ぼくは、片割れに背を向けて、歩き出す。ぼくを呼ぶ優しい声へ――
*
次に目が覚めたのは、車のなかだった。
優しく揺られている感覚。ぼくを抱いたまま、宏ちゃんが静かな低い声で、誰かに話している。
「――ええ。ヒートを起こしかけていると思います……周期ではないはずなので……」
ぼくは、目だけ動かして周囲を見まわした。宏ちゃんの膝に頭を乗せ、車の座席に寝ているみたい。はだかの下肢にはブランケットが巻かれていて、背中を大きな手が撫でてくれていた。
――……宏ちゃんの車じゃ、ない。センターの、車……?
熱っぽくて、ぼうっとする頭で思う。
運転席と後部座席を遮るアクリル板が見える。その向こうにいる人と、宏ちゃんは話しているみたいだった。真剣な横顔を、ぼくはそっと見上げる。
「どうされます。このまま、センターに向かわれますか?」
運転席から、女性の声が聞こえた。センター。その言葉に、どきりとする。ぼくは、宏ちゃんが何か答える前に、ぱっと膝に縋った。
「……やっ」
「成? 目が覚めたのか」
驚く宏ちゃんの膝に、ぎゅっと頬を寄せる。いやいや、と頭を振った。
「センターは、や……うちに。うちに、かえりたい……」
「……っ?」
宏ちゃんが、息を飲む。ぼくは子供みたいに、「うちがいい」と繰り返した。冷静になれば、何を甘えてるんやろって思うのにね。でも、宏ちゃんの家以外、行きたくなかったん。
「成!」
低く息を詰めた宏ちゃんが、ぼくを抱きしめてくれる。膝の上に抱きかかえられ、背中で両腕が固く交差した。ぎゅう、と締めつけられて、胸が甘く苦しい。
「……ひろ、ちゃ……」
「ああ、勿論だよ。俺達の家に帰ろうな」
「嬉しい……」
広い肩に頬を埋めると、深い木々の香りが騒めく。大好きな宏ちゃんの匂い。すんすんと鼻を鳴らして嗅いでいると、寂しさに揺らされた心の軸が、定められる。
――あったかい。
ふあ、と息を吐く。眠気に似た安堵が満ち、手足から力がぬけた。すると、からだの奥が、とろとろと熱く潤みだすような……不思議な陶酔感につつまれていく。
「……苦しくないか?」
「うん……」
甘い声に尋ねられて、夢心地に頷いた。ふわふわと心地良い。経験したことのない甘い感覚が、つま先から震えになって上ってくる。
――これは、なに?
答えを求めるように、愛しい夫にしがみ付いた。不安でいっぱいの胸を彼のそれにくっつける。息を詰めた宏ちゃんが、ぼくの髪を指で梳きながら、呟いた。
「大丈夫だよ」
「……っ」
子どもに言い聞かせるより、優しく。
ぼくは、小さくほほ笑んだ。――宏ちゃんが答えを持っていてくれる、って感じられたから。
うさぎやについたときには、外はすっかり薄暗く、空も墨を撒いたようやった。
「は……ぅ……」
「あと少しだ、頑張れ」
宏ちゃんに抱えられ、階段を上る。ただ運ばれているだけなのに、吐息が弾んだ。――このころには、自分の反応が何なのか、流石にわかってたん。恥ずかしい声をあげないよう、必死に唇を結んでいると、宏ちゃんが苦笑する。
「我慢しないでいい」
「で、も……」
「俺しか聞かないよ。ほら……」
「あぅ……!」
耳たぶに唇をつけ、甘く囁かれる。びくり、と肩を震わせると、宏ちゃんはくすりと笑った。
「うそ……だ、めぇ……」
信じがたいことに、声だけで、ブランケットの中で熱く兆してしまった。こんなことって、と目が泳ぐ。もじもじと膝を擦り合わせるぼくに、気づかないふりをしてくれながら、宏ちゃんは運んでくれた。
――あ……!
廊下を歩む夫が、居間に向かっているのに気づき、ぼくは慌てて肩を叩く。
「成?」
「まって。お……おふろに。おふろに行かせて……」
もつれそうな舌で、必死に訴える。
自分の体から、薔薇の残り香がするって、思い出したん。陽平に触れられた体で、宏ちゃんとの空間に入るのは辛かった。
「おねがい……」
宏ちゃんをじっと見上げる。灰色がかった目は、心配そうに揺れていたけど、「わかった」と頷いてくれる。
「危ないし、俺も一緒に入るぞ。いいな?」
「うん……」
断固とした声に、ぼくは頷く。背中を抱く手に力が籠ったのを感じ、お腹の奥がきゅうと疼いた……。
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