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第一話『呪われた髪』
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その夜、髪の短くなったわたしを見た姉のつむぎは、それは鳩が豆鉄砲をくらったかのように驚いていた。
「結衣、あんた……どうしたの、その髪……」
帰ってくるなりこれだ。どすどすと怪獣のような足踏みで、リビングのソファで寝転がるわたしの元へ歩み寄ってくる。顔を近づけてきて、やはり「なにがあったの!?」と宇宙人と遭遇したかの様子である。
面と向かってこんな態度を取られると、ちょっと恥ずかしい。実の姉と言っても。
「つむぎ、お酒臭いんだけど……それに飲んでくるなら先に言ってよね。夕飯作って待ってたのに」
「今そんなことはどうでもいいの! 結衣! なにがあったのか、ちゃんとお姉ちゃんに説明しなさい!」
この通り、姉がとにかく過保護だ。呪いがどうだとかは話したことはなかったけれど、お父さんの死をキッカケに精神が不安定になったこと、例の美容室の一件のことなどを経て、わたしが髪を切れない体質となったことを一番把握している。故の心配性。つむぎも変わったものだ。
昔は……それこそ一緒に住み始める二年ほど前までは、わたしたちは疎遠の姉妹だった。
姉の「如月つむぎ」とは、歳が7歳離れている。だからわたしよりはひと足先に大人となって、わたしが11歳のとき、つむぎが18歳のときだ。父と最後の大喧嘩を経て、つむぎは実家を出て行ってしまった。そのことに際して、わたしは悲しみも喜びもなかった。
もともと、つむぎはわたしに干渉するような姉ではなかった。遊んでくれた記憶もあまりない。だからこそ、特別だった感情を抱くこともなく、同じ屋根の下にいたとしても交わることもなく。
つむぎとの関係に変化が生じたのは、父の死後からだった。
葬儀の後すぐ、父の兄を名乗る人が現れた。初対面だったけれど、彼の方は一度だけわたしのことを見たことがあるという。まだわたしが赤ちゃんだった頃。当時のことを懐かしげに語る彼の顔が、どことなく父の面影と重なった。
そんな彼が、突然わたしを引き取ると言い出した。家は長崎県となかなかに離れているのだが、彼の子供たちは既に自立したこともあり部屋が余っているとか。
なにより、経済力があるという。「こんなでも大企業の重役さんだぞ」と親族の誰かが我ごとのように話していた。話は彼らの間うちで、着々と進んでいった。「この子のために」「将来が」「父親と母親がいた方がいい」「お金が」など、子供のわたしには到底抗えない事情ばかりだ。
なんだか捨て猫の話みたいだなって、そう思った。でも実際捨て猫みたいなもので、生きる力を持たないわたしにはお似合いだなと思わされた。美容師への憧れなどは、とうに失せ切っていた。
そんなときだった。
「なにも知らないあんたたちが、結衣のことを勝手に決めるな!」
つむぎが、いきなり怒鳴った。目を丸くさせる親戚一同に、「本人に決めさせろ」と啖呵を切ったのだ。理解不能だった。わたしのことで、あんなにも必死になっているつむぎを見たのははじめてだったからだ。
「ねぇ結衣。あんたは、一体どうしたいの?」
つむぎは、切ない表情でわたしに迫ってきた。
「行きたいなら行ってもいい。だけどさ、もしも残りたいなら、今ちゃんと言っておかないと。自分の人生なんだから。じゃないと、結衣、あんた一生後悔するよ」
そのとき、からだった。わたしの中で「姉なるもの」に過ぎなかったつむぎが、正真正銘の「姉」となったのは。
以来、つむぎとは一緒に暮らしている。築20年のマンション。2Kの間取り。もともとつむぎが彼氏と住んでいたらしい部屋に、わたしが転がり込んだ。「追い出したばかりだからちょうど良かった」とつむぎは言っていたが、本当のところは知らない。
そんなこんなで、決して裕福ではないけれど、社会人の姉と高校生のわたしは肩を寄せ合いながら生きている。不満はない。むしろ幸福なくらいだ。
「……そう。そういうこと」
事故間際、父に「美容師になりたい」と話したこと、それが原因で父と大喧嘩をしたこと、髪を掴まれたこと、父に呪いで髪を切れないと思い込んでいたこと。それら旨を、本日ついにつむぎに打ち明けた。もちろん「カクリヨ美容室」で見た黒い影のことや、ほだかさんの特別な事情は内緒にして。
つむぎは難しい顔を作り、しばしの沈黙タイムを持ったあと、
「結衣。ちょっと待ってて」
そう言い残し、寝室へ引っ込んでいくつむぎ。寝室からガサゴソと物音が聞こえてきた。それから数分ほど経って、つむぎは手に真っ黒い包みを抱えて戻ってきた。
「本当はあたしが墓場まで持っていくつもりだったけど、うん……やっぱり血は争えないって、そういうことかな」
「? どういうこと?」
つむぎは「見たら分かるから」と、その包みをわたしに手渡してきた。カチャリ……音が聞こえてきた。金属でも入ってるのかな? と、首を傾げるわたしだ。ゆっくり、四つ折りの包みを解いていく。中身があらわとなる。
まさかと、鳥肌が立つ。
「なんで……シザーケースがここに」
それは、白い革生地のシザーケースだった。使い込まれたのか、それとも経年劣化によるものなのか白がくすんでいる。いずれにせよ、最近買ったものではまずないだろう。ケース内に収まった二丁のシザーも、コームも、かつて誰かが使っていたもののように感じられた。
訳も分からず固まっているわたしに、つむぎはぼそぼそと語り出した。
「それ、母さんのなの……母さんね、実は昔、美容師だったんだよ」
全身に電流が走った。
「あたしが小さい頃は、よく髪を切ってもらってたから覚えてる」
信じられなかった。でも、真実なのだろう。語るつむぎの真剣な表情が、それを物語る。
「でね、これはおばあちゃんから聞いた話。母さんは、うつ病だった。当時母さんの働いていた美容室がかなりの激務だったみたいでね、給料も少なくて、それでも自分の店を持ちたいからって、文句一つ言わず頑張ってたんだってさ」
美容師が激務だってことは、話に聞いたことがある。一日中体を使いながらの立ち仕事で、加えてお客さまに粗相がないようずっと神経を張ってないといけない。
そもそもいっぱしのスタイリストになるまで何年も修行を積む必要があるけれど、その過程で半数以上の美容師さんが消えていくらしい。信号機の数より美容室は多いと言われているみたいだけど、全体の美容師から考えると限られた数なのだと。実際わたしたちが接しているのは、その厳しい環境を生き延びた美容師さんだけ──
「そんなときだったんだって、母さんと父さんが出会ったのは。友達の紹介で行った美容室で、担当したのが母さん。辛そうに見えたって、父さんはそう感じたみたい」
その後も、つむぎは父と母の馴れ初めを教えてくれた。次第に恋仲となり、母さんがつむぎを身篭り、美容師を辞めて、結婚して……そんな家族の話。
そして、わたしが生まれるときの話に移った。
「結衣はどう聞いたか分からないけど、母さんもともと血管が切れやすい体質だったみたいよ。あたしが生むときもそうだったらしいけど、出産すること自体危なかったらしいの。だから結衣を産むって決めたときは、みんなから反対された。でもね……父さんだけが、いつも母さんを応援してたよ。
母さんが亡くなったあと、父さん仏壇の前で毎日泣いてた。『守ってやれなかった』って、ずっと言ってた。
父さんが結衣を美容師にさせたくなかったのは、そんな母さんと結衣の姿が重なったからだと思う。それに結衣は母さんとよく似てるから、いつか母さんみたいに苦しんで、死んでしまう気がして、怖かったんじゃないのかな」
わたしは、言葉を失っていた。
「まあ、父さんと喧嘩ばかりしてたあたしが言うのもなんだけど……必死だったんだろうね。怒り慣れてくせに無理するから、あんな感じになって、あたしも躍起になってた。もうね、どうしようもなかった。だから……あたしがいなくなった方が上手くいくと思ったんだ」
あたしが家を出て行ったのは、そんな感じ。最後まで、父さんと理解し合えなかった。でもね、良い父親だったとは今でも思ってる。不器用だっただけで、誰よりもあたしたちのことを考えてくれてた。だから……恨んでなんかないよ。絶対」
「でも」
「ん?」
「……じゃあなんで、お父さんはあのとき……わたしの髪を、引っ張ったりしたのかな」
そこだけが、どうしても腑におちなかった。言葉はいつもきつかったけど、手だけは決してあげなかった父。その父が、あのときだけは本気だった。本気で、わたしの髪を引っ張ったのだ。
だから恨まれてるのかなって、わたしは──
「ああ、そっか……結衣には、父さんがどんな風に亡くなったのか、伝えてなかったね」
わたしは二の句を告げなかった。即死だったとは聞いていたが、言ったらそのくらいのことしか知らなかったからだ。聞きたくもないって、そう思っていたけれど。
「父さんね、結衣を抱きしめたまま……亡くなってたんだって」
その事実には、目眩を覚える。
「多分、これはあたしの予想だけど……トラックが突っ込んできたとき、結衣を庇おうと思ったんじゃないのかな。で、咄嗟に髪を引っ張った」
父亡き今では、その本心までは分からない。ただ、自然と涙がこみ上げてきた。つむぎが抱きしめてくれたから、もっと涙が溢れ出してきた。
これまで溜め込んでいた苦い思いを涙とともに吐き出す。そのうち、眠気が襲ってきた。
微睡に包まれて、わたしはいつの間にか眠ってしまう。
夢を見た。夢の中で、わたしは父と出会った。
父が夢の中に出てくるのは、なにもこれが初めてというわけではない。
でも、こんなにも素直な気持ちで父と向き合うのは初めてだった。
寡黙な父らしく、夢の中ですらなにも言ってはくれない。でも優しく微笑みながら、わたしの頭を撫でてくれる。ゴツゴツとした手のひらで、乱暴な撫で方だった。嫌いではない。むしろ、胸へと澄み渡るそれは安心感だ。
結局、父は最後までなにも言わなかった。ただ穏やかな笑みを浮かべたまま、夢の帳へと消えていく。
そのときだ。わたしは、知らなければならないと思わされた。それは、わたしの髪のことについて。あの黒い影が、なんだったのかについて。
美容室を後にするときにも、ほだかさんは「この世には知らなくていいこともあります」と話を濁した。また「二度とこの美容室と関わってはいけない」とも言っていた。
よくは分からなかったけれど、わたしは大人しく従うことにした。わたしが首を突っ込んでいい話ではないと、決めつけて。
だけど、違ったかもしれない。わたしは逃げただけ。真実を知るのが怖くて、思い出したくない過去に蓋をしただけだ。そうじゃない。怖くても、向き合わないといけないんだ。父と。それに……
わたしを助けてくれた「黄昏ほだか」という美容師に、ちゃんとお礼をしなくちゃ。
わたしの意思は揺るぎなく──明日また、あの場所「カクリヨ美容室」へ行こう。
ほだかさんは嫌がるかもしれないけど……でも仕方ない。だって、わたしは父譲りの頑固者で、自分の気持ちに従って生きる、そんなバカ正直ものだから。
わたしは、そんなにも不器用な「如月結衣」なのだから。
「結衣、あんた……どうしたの、その髪……」
帰ってくるなりこれだ。どすどすと怪獣のような足踏みで、リビングのソファで寝転がるわたしの元へ歩み寄ってくる。顔を近づけてきて、やはり「なにがあったの!?」と宇宙人と遭遇したかの様子である。
面と向かってこんな態度を取られると、ちょっと恥ずかしい。実の姉と言っても。
「つむぎ、お酒臭いんだけど……それに飲んでくるなら先に言ってよね。夕飯作って待ってたのに」
「今そんなことはどうでもいいの! 結衣! なにがあったのか、ちゃんとお姉ちゃんに説明しなさい!」
この通り、姉がとにかく過保護だ。呪いがどうだとかは話したことはなかったけれど、お父さんの死をキッカケに精神が不安定になったこと、例の美容室の一件のことなどを経て、わたしが髪を切れない体質となったことを一番把握している。故の心配性。つむぎも変わったものだ。
昔は……それこそ一緒に住み始める二年ほど前までは、わたしたちは疎遠の姉妹だった。
姉の「如月つむぎ」とは、歳が7歳離れている。だからわたしよりはひと足先に大人となって、わたしが11歳のとき、つむぎが18歳のときだ。父と最後の大喧嘩を経て、つむぎは実家を出て行ってしまった。そのことに際して、わたしは悲しみも喜びもなかった。
もともと、つむぎはわたしに干渉するような姉ではなかった。遊んでくれた記憶もあまりない。だからこそ、特別だった感情を抱くこともなく、同じ屋根の下にいたとしても交わることもなく。
つむぎとの関係に変化が生じたのは、父の死後からだった。
葬儀の後すぐ、父の兄を名乗る人が現れた。初対面だったけれど、彼の方は一度だけわたしのことを見たことがあるという。まだわたしが赤ちゃんだった頃。当時のことを懐かしげに語る彼の顔が、どことなく父の面影と重なった。
そんな彼が、突然わたしを引き取ると言い出した。家は長崎県となかなかに離れているのだが、彼の子供たちは既に自立したこともあり部屋が余っているとか。
なにより、経済力があるという。「こんなでも大企業の重役さんだぞ」と親族の誰かが我ごとのように話していた。話は彼らの間うちで、着々と進んでいった。「この子のために」「将来が」「父親と母親がいた方がいい」「お金が」など、子供のわたしには到底抗えない事情ばかりだ。
なんだか捨て猫の話みたいだなって、そう思った。でも実際捨て猫みたいなもので、生きる力を持たないわたしにはお似合いだなと思わされた。美容師への憧れなどは、とうに失せ切っていた。
そんなときだった。
「なにも知らないあんたたちが、結衣のことを勝手に決めるな!」
つむぎが、いきなり怒鳴った。目を丸くさせる親戚一同に、「本人に決めさせろ」と啖呵を切ったのだ。理解不能だった。わたしのことで、あんなにも必死になっているつむぎを見たのははじめてだったからだ。
「ねぇ結衣。あんたは、一体どうしたいの?」
つむぎは、切ない表情でわたしに迫ってきた。
「行きたいなら行ってもいい。だけどさ、もしも残りたいなら、今ちゃんと言っておかないと。自分の人生なんだから。じゃないと、結衣、あんた一生後悔するよ」
そのとき、からだった。わたしの中で「姉なるもの」に過ぎなかったつむぎが、正真正銘の「姉」となったのは。
以来、つむぎとは一緒に暮らしている。築20年のマンション。2Kの間取り。もともとつむぎが彼氏と住んでいたらしい部屋に、わたしが転がり込んだ。「追い出したばかりだからちょうど良かった」とつむぎは言っていたが、本当のところは知らない。
そんなこんなで、決して裕福ではないけれど、社会人の姉と高校生のわたしは肩を寄せ合いながら生きている。不満はない。むしろ幸福なくらいだ。
「……そう。そういうこと」
事故間際、父に「美容師になりたい」と話したこと、それが原因で父と大喧嘩をしたこと、髪を掴まれたこと、父に呪いで髪を切れないと思い込んでいたこと。それら旨を、本日ついにつむぎに打ち明けた。もちろん「カクリヨ美容室」で見た黒い影のことや、ほだかさんの特別な事情は内緒にして。
つむぎは難しい顔を作り、しばしの沈黙タイムを持ったあと、
「結衣。ちょっと待ってて」
そう言い残し、寝室へ引っ込んでいくつむぎ。寝室からガサゴソと物音が聞こえてきた。それから数分ほど経って、つむぎは手に真っ黒い包みを抱えて戻ってきた。
「本当はあたしが墓場まで持っていくつもりだったけど、うん……やっぱり血は争えないって、そういうことかな」
「? どういうこと?」
つむぎは「見たら分かるから」と、その包みをわたしに手渡してきた。カチャリ……音が聞こえてきた。金属でも入ってるのかな? と、首を傾げるわたしだ。ゆっくり、四つ折りの包みを解いていく。中身があらわとなる。
まさかと、鳥肌が立つ。
「なんで……シザーケースがここに」
それは、白い革生地のシザーケースだった。使い込まれたのか、それとも経年劣化によるものなのか白がくすんでいる。いずれにせよ、最近買ったものではまずないだろう。ケース内に収まった二丁のシザーも、コームも、かつて誰かが使っていたもののように感じられた。
訳も分からず固まっているわたしに、つむぎはぼそぼそと語り出した。
「それ、母さんのなの……母さんね、実は昔、美容師だったんだよ」
全身に電流が走った。
「あたしが小さい頃は、よく髪を切ってもらってたから覚えてる」
信じられなかった。でも、真実なのだろう。語るつむぎの真剣な表情が、それを物語る。
「でね、これはおばあちゃんから聞いた話。母さんは、うつ病だった。当時母さんの働いていた美容室がかなりの激務だったみたいでね、給料も少なくて、それでも自分の店を持ちたいからって、文句一つ言わず頑張ってたんだってさ」
美容師が激務だってことは、話に聞いたことがある。一日中体を使いながらの立ち仕事で、加えてお客さまに粗相がないようずっと神経を張ってないといけない。
そもそもいっぱしのスタイリストになるまで何年も修行を積む必要があるけれど、その過程で半数以上の美容師さんが消えていくらしい。信号機の数より美容室は多いと言われているみたいだけど、全体の美容師から考えると限られた数なのだと。実際わたしたちが接しているのは、その厳しい環境を生き延びた美容師さんだけ──
「そんなときだったんだって、母さんと父さんが出会ったのは。友達の紹介で行った美容室で、担当したのが母さん。辛そうに見えたって、父さんはそう感じたみたい」
その後も、つむぎは父と母の馴れ初めを教えてくれた。次第に恋仲となり、母さんがつむぎを身篭り、美容師を辞めて、結婚して……そんな家族の話。
そして、わたしが生まれるときの話に移った。
「結衣はどう聞いたか分からないけど、母さんもともと血管が切れやすい体質だったみたいよ。あたしが生むときもそうだったらしいけど、出産すること自体危なかったらしいの。だから結衣を産むって決めたときは、みんなから反対された。でもね……父さんだけが、いつも母さんを応援してたよ。
母さんが亡くなったあと、父さん仏壇の前で毎日泣いてた。『守ってやれなかった』って、ずっと言ってた。
父さんが結衣を美容師にさせたくなかったのは、そんな母さんと結衣の姿が重なったからだと思う。それに結衣は母さんとよく似てるから、いつか母さんみたいに苦しんで、死んでしまう気がして、怖かったんじゃないのかな」
わたしは、言葉を失っていた。
「まあ、父さんと喧嘩ばかりしてたあたしが言うのもなんだけど……必死だったんだろうね。怒り慣れてくせに無理するから、あんな感じになって、あたしも躍起になってた。もうね、どうしようもなかった。だから……あたしがいなくなった方が上手くいくと思ったんだ」
あたしが家を出て行ったのは、そんな感じ。最後まで、父さんと理解し合えなかった。でもね、良い父親だったとは今でも思ってる。不器用だっただけで、誰よりもあたしたちのことを考えてくれてた。だから……恨んでなんかないよ。絶対」
「でも」
「ん?」
「……じゃあなんで、お父さんはあのとき……わたしの髪を、引っ張ったりしたのかな」
そこだけが、どうしても腑におちなかった。言葉はいつもきつかったけど、手だけは決してあげなかった父。その父が、あのときだけは本気だった。本気で、わたしの髪を引っ張ったのだ。
だから恨まれてるのかなって、わたしは──
「ああ、そっか……結衣には、父さんがどんな風に亡くなったのか、伝えてなかったね」
わたしは二の句を告げなかった。即死だったとは聞いていたが、言ったらそのくらいのことしか知らなかったからだ。聞きたくもないって、そう思っていたけれど。
「父さんね、結衣を抱きしめたまま……亡くなってたんだって」
その事実には、目眩を覚える。
「多分、これはあたしの予想だけど……トラックが突っ込んできたとき、結衣を庇おうと思ったんじゃないのかな。で、咄嗟に髪を引っ張った」
父亡き今では、その本心までは分からない。ただ、自然と涙がこみ上げてきた。つむぎが抱きしめてくれたから、もっと涙が溢れ出してきた。
これまで溜め込んでいた苦い思いを涙とともに吐き出す。そのうち、眠気が襲ってきた。
微睡に包まれて、わたしはいつの間にか眠ってしまう。
夢を見た。夢の中で、わたしは父と出会った。
父が夢の中に出てくるのは、なにもこれが初めてというわけではない。
でも、こんなにも素直な気持ちで父と向き合うのは初めてだった。
寡黙な父らしく、夢の中ですらなにも言ってはくれない。でも優しく微笑みながら、わたしの頭を撫でてくれる。ゴツゴツとした手のひらで、乱暴な撫で方だった。嫌いではない。むしろ、胸へと澄み渡るそれは安心感だ。
結局、父は最後までなにも言わなかった。ただ穏やかな笑みを浮かべたまま、夢の帳へと消えていく。
そのときだ。わたしは、知らなければならないと思わされた。それは、わたしの髪のことについて。あの黒い影が、なんだったのかについて。
美容室を後にするときにも、ほだかさんは「この世には知らなくていいこともあります」と話を濁した。また「二度とこの美容室と関わってはいけない」とも言っていた。
よくは分からなかったけれど、わたしは大人しく従うことにした。わたしが首を突っ込んでいい話ではないと、決めつけて。
だけど、違ったかもしれない。わたしは逃げただけ。真実を知るのが怖くて、思い出したくない過去に蓋をしただけだ。そうじゃない。怖くても、向き合わないといけないんだ。父と。それに……
わたしを助けてくれた「黄昏ほだか」という美容師に、ちゃんとお礼をしなくちゃ。
わたしの意思は揺るぎなく──明日また、あの場所「カクリヨ美容室」へ行こう。
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