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第8話:初めての『美味しい』
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青年の静かな肯定に、私は慌てて行動を開始した。戸棚の奥から、隠しておいたスープの壺を取り出す。まだほんのりと温かい。
「すぐに温め直しますので、そちらでお待ちください」
私が言うと、青年は素直に厨房の隅にあった古びた木製の椅子に腰掛けた。その立ち居振る舞いには、育ちの良さが滲み出ている。やはり、ただの騎士ではないのだろう。そんな高貴な方に、こんな残り物のスープなど出していいのだろうか。私の心に、今更ながら不安がよぎる。
しかし、もう後には引けない。私は再びかまどに火を入れ、小さな鍋でスープを温め始めた。コトコトと穏やかな音が、緊張に満ちた厨房に響く。
青年は何も言わず、ただ黙って私の手元を見ていた。その視線が痛いほどに突き刺さる。けれど、不思議と威圧感はなかった。むしろ、その蒼い瞳の奥には、純粋な好奇心と期待のようなものが揺らめいているように見えた。
やがてスープが温まると、再び厨房にハーブと肉の豊かな香りが立ち込めた。青年が、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた気がした。
私は食器棚にあった中で一番欠けの少ない、磨き上げられた木の器を選んだ。そこに黄金色のスープをそっと注ぎ、青年の座るテーブルへと運ぶ。
「どうぞ。残り物で申し訳ありませんが…」
器を置くと、青年はまずその色に目を見張ったようだった。彼が普段目にしているであろう、灰色のスープとは全く違う。陽だまりのような温かい色。立ち上る湯気は、今まで嗅いだことのない複雑で豊かな香りを運んでくる。
彼はゆっくりとスプーンを手に取った。その動きはどこか儀式的でさえあった。
そして、一口。
透き通ったスープを、静かに口へと運んだ。
瞬間、彼の動きが、ぴたりと止まった。
見開かれた蒼い瞳が、器の中の黄金色を映して揺れている。まるで、生まれて初めて見るものに遭遇したかのように。
――温かい。
それが、彼の心に最初に浮かんだ感想だった。
液体が喉を通り、胃へと落ちていく。その軌跡が分かるほど、温かいものが体の中に広がっていく。それは、彼が今まで『食事』と呼んでいた、冷たい作業とは全く異なる感覚だった。
次に、味の洪水が押し寄せた。
肉の深い旨味。野菜の優しい甘み。それらを際立たせる絶妙な塩気。そして、鼻腔を抜けていく爽やかなハーブの香り。一つ一つの味が主張しながらも、完璧な調和を保っている。
複雑で、滋味深く、そして、どこまでも優しい味。
彼の心は、厚い氷で覆われていた。幼い頃の毒殺未遂。裏切りと策謀が渦巻く宮廷。皇帝という名の孤独。それら全てが、彼の心を少しずつ凍らせ、味覚さえも麻痺させていたのだ。
食事は、ただ命を繋ぐための作業。栄養を摂取するための義務。そう割り切っていたはずだった。
しかし、今、この一杯のスープが、その厚い氷に亀裂を入れている。温かい液体が、凍てついた心の深層にまで染み渡り、じんわりと氷を溶かしていく。
疲弊しきっていた体に、力が戻ってくる。張り詰めていた神経が、穏やかに解けていく。
こんな感覚は、生まれて初めてだった。
私は、息を詰めて彼の様子を見守っていた。あまりに反応がないものだから、やはり口に合わなかったのではないかと不安になる。それとも、人質の作ったものなど気味が悪くて食べられないと、怒り出すのだろうか。
しかし、彼の次の行動は、私のそんな心配を吹き飛ばした。
青年は再びスプーンを動かし始めた。今度は、先程よりも速いペースで。一口、また一口と、無心でスープを口に運んでいく。その姿は真剣そのもので、まるで重要な儀式に臨んでいるかのようだった。
言葉はない。けれど、彼の全身がこのスープを欲しているのが、痛いほどに伝わってくる。
よかった。少なくとも、不味くて怒り出す、ということはなさそうだ。私はそっと胸をなでおろした。
やがて、器の底が見え始めた。青年は名残惜しむように、スプーンで最後の一滴まですくい取ると、それをゆっくりと飲み干した。
カチャン、とスプーンが器に置かれる小さな音が、やけに大きく響いた。
彼は空になった器をしばらく見つめていた。その横顔は、何か大切なものを失ってしまった子供のようにも見えた。
長い、長い沈黙。
耐えきれなくなった私が何か言おうと口を開きかけた、その時。
青年はゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。その蒼い瞳は、来た時よりもずっと穏やかで、深く澄んでいるように見えた。
そして、彼は言った。絞り出すような、それでいて、心の底から響いてくるような声で。
「……美味い」
たった、一言。
その言葉が、私の心臓を射抜いた。
びりびりと、全身に電気が走ったかのような衝撃。頭の中で、彼の言葉が何度も何度も反響する。
『美味い』
私が作ったものを、美味しいと言ってくれた。
この世界に来てから、いえ、前世の記憶が戻ってから、ずっと夢見ていたこと。私の料理で、誰かに喜んでほしい。そのささやかな願いが、今、この瞬間、叶えられたのだ。
じわり、と目の奥が熱くなる。嬉しくて、胸がいっぱいで、言葉が出てこない。私はただ、彼の顔を見つめ返すことしかできなかった。
青年は、そんな私の様子を静かに見つめていた。そして、ふっと、ほんのわずかに口元を緩めた。それは笑みと呼ぶにはあまりに些細な変化だったが、彼の氷のような表情を確かに和らげていた。
彼はすっと立ち上がると、空になった器を一瞥した。
「また、来る」
それだけを言い残し、彼は私が反応する間もなく、厨房の扉へと向かった。そして、来た時と同じように、音もなく去っていった。
嵐のような訪問者。
一人残された厨房で、私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
彼の言葉が、温かいスープのように私の心に染み渡っていく。
『美味い』
『また、来る』
あの美しい銀髪の騎士様は、一体何者なのだろう。その疑問はあった。けれど、今はそれ以上に、初めて自分の料理を認められたという喜びが、私の全てを満たしていた。
ここは冷たい氷の帝国。私は孤独な人質。その事実は変わらない。
けれど、今日、確かに一つの繋がりが生まれた。私の作った料理が、誰かの心を温めた。
それだけで、明日を生きる理由になる。
私は空になった木の器を手に取った。まだ、かすかに温もりが残っている。その温もりを確かめるように、ぎゅっと胸に抱きしめた。
私の小さな厨房で起きた、ささやかな奇跡。それがこの後、私と彼の、そしてこの帝国の運命さえも変えていくことになる大きな始まりだったことを、この時の私はまだ知る由もなかった。
「すぐに温め直しますので、そちらでお待ちください」
私が言うと、青年は素直に厨房の隅にあった古びた木製の椅子に腰掛けた。その立ち居振る舞いには、育ちの良さが滲み出ている。やはり、ただの騎士ではないのだろう。そんな高貴な方に、こんな残り物のスープなど出していいのだろうか。私の心に、今更ながら不安がよぎる。
しかし、もう後には引けない。私は再びかまどに火を入れ、小さな鍋でスープを温め始めた。コトコトと穏やかな音が、緊張に満ちた厨房に響く。
青年は何も言わず、ただ黙って私の手元を見ていた。その視線が痛いほどに突き刺さる。けれど、不思議と威圧感はなかった。むしろ、その蒼い瞳の奥には、純粋な好奇心と期待のようなものが揺らめいているように見えた。
やがてスープが温まると、再び厨房にハーブと肉の豊かな香りが立ち込めた。青年が、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた気がした。
私は食器棚にあった中で一番欠けの少ない、磨き上げられた木の器を選んだ。そこに黄金色のスープをそっと注ぎ、青年の座るテーブルへと運ぶ。
「どうぞ。残り物で申し訳ありませんが…」
器を置くと、青年はまずその色に目を見張ったようだった。彼が普段目にしているであろう、灰色のスープとは全く違う。陽だまりのような温かい色。立ち上る湯気は、今まで嗅いだことのない複雑で豊かな香りを運んでくる。
彼はゆっくりとスプーンを手に取った。その動きはどこか儀式的でさえあった。
そして、一口。
透き通ったスープを、静かに口へと運んだ。
瞬間、彼の動きが、ぴたりと止まった。
見開かれた蒼い瞳が、器の中の黄金色を映して揺れている。まるで、生まれて初めて見るものに遭遇したかのように。
――温かい。
それが、彼の心に最初に浮かんだ感想だった。
液体が喉を通り、胃へと落ちていく。その軌跡が分かるほど、温かいものが体の中に広がっていく。それは、彼が今まで『食事』と呼んでいた、冷たい作業とは全く異なる感覚だった。
次に、味の洪水が押し寄せた。
肉の深い旨味。野菜の優しい甘み。それらを際立たせる絶妙な塩気。そして、鼻腔を抜けていく爽やかなハーブの香り。一つ一つの味が主張しながらも、完璧な調和を保っている。
複雑で、滋味深く、そして、どこまでも優しい味。
彼の心は、厚い氷で覆われていた。幼い頃の毒殺未遂。裏切りと策謀が渦巻く宮廷。皇帝という名の孤独。それら全てが、彼の心を少しずつ凍らせ、味覚さえも麻痺させていたのだ。
食事は、ただ命を繋ぐための作業。栄養を摂取するための義務。そう割り切っていたはずだった。
しかし、今、この一杯のスープが、その厚い氷に亀裂を入れている。温かい液体が、凍てついた心の深層にまで染み渡り、じんわりと氷を溶かしていく。
疲弊しきっていた体に、力が戻ってくる。張り詰めていた神経が、穏やかに解けていく。
こんな感覚は、生まれて初めてだった。
私は、息を詰めて彼の様子を見守っていた。あまりに反応がないものだから、やはり口に合わなかったのではないかと不安になる。それとも、人質の作ったものなど気味が悪くて食べられないと、怒り出すのだろうか。
しかし、彼の次の行動は、私のそんな心配を吹き飛ばした。
青年は再びスプーンを動かし始めた。今度は、先程よりも速いペースで。一口、また一口と、無心でスープを口に運んでいく。その姿は真剣そのもので、まるで重要な儀式に臨んでいるかのようだった。
言葉はない。けれど、彼の全身がこのスープを欲しているのが、痛いほどに伝わってくる。
よかった。少なくとも、不味くて怒り出す、ということはなさそうだ。私はそっと胸をなでおろした。
やがて、器の底が見え始めた。青年は名残惜しむように、スプーンで最後の一滴まですくい取ると、それをゆっくりと飲み干した。
カチャン、とスプーンが器に置かれる小さな音が、やけに大きく響いた。
彼は空になった器をしばらく見つめていた。その横顔は、何か大切なものを失ってしまった子供のようにも見えた。
長い、長い沈黙。
耐えきれなくなった私が何か言おうと口を開きかけた、その時。
青年はゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。その蒼い瞳は、来た時よりもずっと穏やかで、深く澄んでいるように見えた。
そして、彼は言った。絞り出すような、それでいて、心の底から響いてくるような声で。
「……美味い」
たった、一言。
その言葉が、私の心臓を射抜いた。
びりびりと、全身に電気が走ったかのような衝撃。頭の中で、彼の言葉が何度も何度も反響する。
『美味い』
私が作ったものを、美味しいと言ってくれた。
この世界に来てから、いえ、前世の記憶が戻ってから、ずっと夢見ていたこと。私の料理で、誰かに喜んでほしい。そのささやかな願いが、今、この瞬間、叶えられたのだ。
じわり、と目の奥が熱くなる。嬉しくて、胸がいっぱいで、言葉が出てこない。私はただ、彼の顔を見つめ返すことしかできなかった。
青年は、そんな私の様子を静かに見つめていた。そして、ふっと、ほんのわずかに口元を緩めた。それは笑みと呼ぶにはあまりに些細な変化だったが、彼の氷のような表情を確かに和らげていた。
彼はすっと立ち上がると、空になった器を一瞥した。
「また、来る」
それだけを言い残し、彼は私が反応する間もなく、厨房の扉へと向かった。そして、来た時と同じように、音もなく去っていった。
嵐のような訪問者。
一人残された厨房で、私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
彼の言葉が、温かいスープのように私の心に染み渡っていく。
『美味い』
『また、来る』
あの美しい銀髪の騎士様は、一体何者なのだろう。その疑問はあった。けれど、今はそれ以上に、初めて自分の料理を認められたという喜びが、私の全てを満たしていた。
ここは冷たい氷の帝国。私は孤独な人質。その事実は変わらない。
けれど、今日、確かに一つの繋がりが生まれた。私の作った料理が、誰かの心を温めた。
それだけで、明日を生きる理由になる。
私は空になった木の器を手に取った。まだ、かすかに温もりが残っている。その温もりを確かめるように、ぎゅっと胸に抱きしめた。
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