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第23話:堅物騎士団長の来訪
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帝国騎士団長ギルバート・エアクハルトは、生粋の武人である。
その身にまとう鋼の鎧のように、彼の精神もまた、規律と忠誠という名の鋼でできている。不正を憎み、怠惰を嫌い、何よりも皇帝レオンハルトへの絶対の忠誠を誓っていた。
そんな彼にとって、最近の騎士団の雰囲気は、少しばかり気に食わないものだった。
「なんだ、貴様ら。たるんでいるぞ!」
訓練場に、ギルバートの雷鳴のような声が響き渡る。彼の厳しい視線の先で、数人の騎士が剣を振るう動きがわずかに鈍っていた。
「申し訳ありません、団長!」
騎士たちは慌てて姿勢を正す。しかし、ギルバートの目は誤魔化せない。彼らの集中力が、どこか散漫になっている。その原因は、ここ数日、騎士たちの間でまことしやかに囁かれている、ある噂のせいだと彼は睨んでいた。
――月影の宮から、とんでもなく美味そうな匂いがするらしい。
馬鹿馬鹿しい。騎士たるもの、食い物の匂いくらいで心を乱されるとは何事か。ギルバートは内心で舌打ちした。
そんな彼の目に、一人の騎士の動きが留まった。若い騎士、クラウスだ。彼の動きは、他の者たちとは対照的に、見違えるようにキレを増していた。以前は疲労の色が濃かったはずなのに、今の彼には活力がみなぎっている。
訓練後、ギルバートはクラウスを自室に呼び出した。
「クラウス。貴様、最近何かあったか」
「はっ。いえ、特に何も…」
クラウスは陛下の『他言無用』という命令を思い出し、必死に平静を装う。しかし、そのわずかな視線の揺れを、歴戦の騎士団長が見逃すはずもなかった。
「そうか。先日、貴様が月影の宮の警備任務中に、持ち場を離れたという報告が上がっているが」
ギルバートの低い声に、クラウスの肩がびくりと震えた。
「そ、それは…! あの…!」
「何があった。正直に言え」
有無を言わさぬ威圧感。クラウスは顔面蒼白になり、それでも必死に口を閉ざした。陛下の命令は絶対だ。
その頑なな態度が、逆にギルバートの疑念を確信へと変えさせた。
「……いいだろう。下がれ」
退出していくクラウスの後ろ姿を見送りながら、ギルバートの中でパズルのピースが組み合わさっていく。
月影の宮。そこにいるのは、リンドブルム王国から送られてきた人質の王女。そして、陛下の最近の不可解な失踪癖。全てが、あの離宮に繋がっている。
「あの女狐め…」
ギルバートの口から、低い呟きが漏れた。
結論は、一つしかなかった。
敵国の王女が、食べ物を使った妖術か何かで、騎士たちを、そしてあろうことか皇帝陛下さえも誑かし、帝国の規律を内側から崩そうとしているのだ。騎士が持ち場を離れ、陛下が政務を疎かにする。これ以上の国辱はない。
「断じて、許さん…!」
ギルバートは拳を強く握りしめた。彼の忠誠心は、燃え盛る炎となって、全ての元凶である人質の王女へと向けられた。
彼は鎧を身につけると、誰にも告げず、一人で月影の宮へと向かった。帝国の害虫を、自らの手で駆除するために。
その頃、月影の宮の厨房は、平和で幸せな空気に満ちていた。
「わあ、アリア様! なんて甘くて良い香り…!」
「これが、お菓子というものなのですね…!」
侍女たちが、目をきらきらと輝かせながら、私の手元を覗き込んでいる。
今日は、いつもお世話になっている彼女たちのために、特別な贈り物を作っていた。貴重な白い穀物の粉と、新鮮な卵、乳草の汁をたっぷり使って焼き上げた、ふわふわのスポンジケーキだ。
厨房には、卵と砂糖が焼ける、甘く優しい香りが満ちている。
「ふふ。いつも皆さんが手伝ってくれるおかげですよ。さあ、最後の仕上げです」
私は雪のように白いクリーム――乳草の汁を煮詰めて冷やし、必死で泡立てて作ったもの――を、焼きあがったスポンジに丁寧に塗り広げていく。そして、庭で採れた真っ赤で甘酸っぱい果実を、宝石のように飾り付けた。
前世で言うところの、ショートケーキ。お祝いの象徴。幸せの味。
皆の喜ぶ顔を思い浮かべながら、私の心もまた、温かい幸福感で満たされていた。
その、時だった。
バァンッ!
厨房の扉が、まるで蹴破られたかのような、乱暴な音を立てて開け放たれた。
そこに立っていたのは、全身から憤怒のオーラを放つ、鋼の鎧をまとった巨漢だった。逆光を背負い、その表情は影になって見えない。しかし、その全身から放たれる殺気にも似た威圧感に、厨房の幸せな空気は一瞬にして凍りついた。
「ひっ…!」
侍女たちが、小さな悲鳴を上げて後ずさる。
鎧の騎士は、重い足音を立てて厨房の中へ入ってきた。そして、その燃えるような瞳が、私を真っ直ぐに射抜いた。
「貴様が、リンドブルムのアリアか!」
地響きのような、怒りに満ちた声。
私は突然の出来事に、心臓が凍りつくのを感じた。目の前の人物が、帝国騎士団を束ねるギルバート団長その人であると、その威圧感だけで理解できた。
「は、はい。私がアリアですが…」
「とぼけるな、女狐め!」
彼は私に詰め寄り、その巨体で見下ろした。私はあまりの恐怖に、声も出せずに立ち尽くす。
「我が騎士団の者を、どうした! 貴様の妖術で、騎士道を踏み外させようという魂胆か! 帝国騎士団の規律を乱す者は、たとえ人質の王女であろうと容赦はせんぞ!」
妖術? 騎士道?
彼が何を言っているのか、私にはさっぱり分からなかった。ただ、彼が私に対して、強い敵意と殺意を抱いていることだけは痛いほどに伝わってくる。
「ち、違います…! 私は、ただ、お料理を…」
「言い訳は聞かん!」
ギルバートの怒声が、私の言葉をかき消した。もう、話し合いで解決できるような状況ではない。彼の瞳は、完全に理性を失っている。
どうしよう。このままでは、殺されてしまうかもしれない。
恐怖で震える私の視界の端に、作り上げたばかりのケーキが映った。
そうだ。この人も、きっと疲れているのだ。そして、お腹が空いているに違いない。レオン様もそうだった。空腹は、人の心をささくれ立たせる。
美味しいものを食べれば、甘いものを口にすれば、少しは落ち着いて、話を聞いてくれるかもしれない。
それは、ほとんど祈りに近い、藁にもすがるような思いつきだった。
私は勇気を振り絞り、震える手でナイフを握った。そして、完成したばかりのケーキを一切れ、丁寧に切り分ける。それを皿に乗せ、フォークを添えた。
そして、仁王立ちするギルバートの前に、そっと差し出した。
「あ、あの…」
私の声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
「まずは、これを召し上がって、少しだけ、心を落ち着けていただけませんか…?」
私の突拍子もない行動に、ギルバートは一瞬、言葉を失った。そして、次の瞬間、彼の顔は怒りでさらに赤く染まった。
「ふざけるなッ! 貴様、この私を愚弄する気か!」
彼がそう叫び、皿を薙ぎ払おうと手を振り上げた、その時。
ふわり、と彼の鼻腔を、今まで嗅いだことのない香りがくすぐった。
焼きたてのスポンジの甘い香り。乳草クリームのまろやかな香り。そして、果実の甘酸っぱい香り。それらが混じり合った、暴力的なまでに優しく、幸福な香り。
彼の振り上げた腕が、ぴたりと止まった。
その視線が、皿の上のそれに釘付けになる。
雪のように白いクリーム。その上に輝く、ルビーのような赤い果実。美しい層をなす、黄金色のスポンジ。
それは、彼が今まで見たこともない、芸術品のように美しく、そして抗いがたいほどに美味しそうな『何か』だった。
ギルバートは、怒鳴ることも、手を振り下ろすことも忘れ、ただ、目の前のケーキを呆然と見つめることしかできなかった。
その身にまとう鋼の鎧のように、彼の精神もまた、規律と忠誠という名の鋼でできている。不正を憎み、怠惰を嫌い、何よりも皇帝レオンハルトへの絶対の忠誠を誓っていた。
そんな彼にとって、最近の騎士団の雰囲気は、少しばかり気に食わないものだった。
「なんだ、貴様ら。たるんでいるぞ!」
訓練場に、ギルバートの雷鳴のような声が響き渡る。彼の厳しい視線の先で、数人の騎士が剣を振るう動きがわずかに鈍っていた。
「申し訳ありません、団長!」
騎士たちは慌てて姿勢を正す。しかし、ギルバートの目は誤魔化せない。彼らの集中力が、どこか散漫になっている。その原因は、ここ数日、騎士たちの間でまことしやかに囁かれている、ある噂のせいだと彼は睨んでいた。
――月影の宮から、とんでもなく美味そうな匂いがするらしい。
馬鹿馬鹿しい。騎士たるもの、食い物の匂いくらいで心を乱されるとは何事か。ギルバートは内心で舌打ちした。
そんな彼の目に、一人の騎士の動きが留まった。若い騎士、クラウスだ。彼の動きは、他の者たちとは対照的に、見違えるようにキレを増していた。以前は疲労の色が濃かったはずなのに、今の彼には活力がみなぎっている。
訓練後、ギルバートはクラウスを自室に呼び出した。
「クラウス。貴様、最近何かあったか」
「はっ。いえ、特に何も…」
クラウスは陛下の『他言無用』という命令を思い出し、必死に平静を装う。しかし、そのわずかな視線の揺れを、歴戦の騎士団長が見逃すはずもなかった。
「そうか。先日、貴様が月影の宮の警備任務中に、持ち場を離れたという報告が上がっているが」
ギルバートの低い声に、クラウスの肩がびくりと震えた。
「そ、それは…! あの…!」
「何があった。正直に言え」
有無を言わさぬ威圧感。クラウスは顔面蒼白になり、それでも必死に口を閉ざした。陛下の命令は絶対だ。
その頑なな態度が、逆にギルバートの疑念を確信へと変えさせた。
「……いいだろう。下がれ」
退出していくクラウスの後ろ姿を見送りながら、ギルバートの中でパズルのピースが組み合わさっていく。
月影の宮。そこにいるのは、リンドブルム王国から送られてきた人質の王女。そして、陛下の最近の不可解な失踪癖。全てが、あの離宮に繋がっている。
「あの女狐め…」
ギルバートの口から、低い呟きが漏れた。
結論は、一つしかなかった。
敵国の王女が、食べ物を使った妖術か何かで、騎士たちを、そしてあろうことか皇帝陛下さえも誑かし、帝国の規律を内側から崩そうとしているのだ。騎士が持ち場を離れ、陛下が政務を疎かにする。これ以上の国辱はない。
「断じて、許さん…!」
ギルバートは拳を強く握りしめた。彼の忠誠心は、燃え盛る炎となって、全ての元凶である人質の王女へと向けられた。
彼は鎧を身につけると、誰にも告げず、一人で月影の宮へと向かった。帝国の害虫を、自らの手で駆除するために。
その頃、月影の宮の厨房は、平和で幸せな空気に満ちていた。
「わあ、アリア様! なんて甘くて良い香り…!」
「これが、お菓子というものなのですね…!」
侍女たちが、目をきらきらと輝かせながら、私の手元を覗き込んでいる。
今日は、いつもお世話になっている彼女たちのために、特別な贈り物を作っていた。貴重な白い穀物の粉と、新鮮な卵、乳草の汁をたっぷり使って焼き上げた、ふわふわのスポンジケーキだ。
厨房には、卵と砂糖が焼ける、甘く優しい香りが満ちている。
「ふふ。いつも皆さんが手伝ってくれるおかげですよ。さあ、最後の仕上げです」
私は雪のように白いクリーム――乳草の汁を煮詰めて冷やし、必死で泡立てて作ったもの――を、焼きあがったスポンジに丁寧に塗り広げていく。そして、庭で採れた真っ赤で甘酸っぱい果実を、宝石のように飾り付けた。
前世で言うところの、ショートケーキ。お祝いの象徴。幸せの味。
皆の喜ぶ顔を思い浮かべながら、私の心もまた、温かい幸福感で満たされていた。
その、時だった。
バァンッ!
厨房の扉が、まるで蹴破られたかのような、乱暴な音を立てて開け放たれた。
そこに立っていたのは、全身から憤怒のオーラを放つ、鋼の鎧をまとった巨漢だった。逆光を背負い、その表情は影になって見えない。しかし、その全身から放たれる殺気にも似た威圧感に、厨房の幸せな空気は一瞬にして凍りついた。
「ひっ…!」
侍女たちが、小さな悲鳴を上げて後ずさる。
鎧の騎士は、重い足音を立てて厨房の中へ入ってきた。そして、その燃えるような瞳が、私を真っ直ぐに射抜いた。
「貴様が、リンドブルムのアリアか!」
地響きのような、怒りに満ちた声。
私は突然の出来事に、心臓が凍りつくのを感じた。目の前の人物が、帝国騎士団を束ねるギルバート団長その人であると、その威圧感だけで理解できた。
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彼は私に詰め寄り、その巨体で見下ろした。私はあまりの恐怖に、声も出せずに立ち尽くす。
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彼がそう叫び、皿を薙ぎ払おうと手を振り上げた、その時。
ふわり、と彼の鼻腔を、今まで嗅いだことのない香りがくすぐった。
焼きたてのスポンジの甘い香り。乳草クリームのまろやかな香り。そして、果実の甘酸っぱい香り。それらが混じり合った、暴力的なまでに優しく、幸福な香り。
彼の振り上げた腕が、ぴたりと止まった。
その視線が、皿の上のそれに釘付けになる。
雪のように白いクリーム。その上に輝く、ルビーのような赤い果実。美しい層をなす、黄金色のスポンジ。
それは、彼が今まで見たこともない、芸術品のように美しく、そして抗いがたいほどに美味しそうな『何か』だった。
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