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第24話:騎士団長、ケーキに屈する
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厨房の空気は、張り詰めた弦のように緊張していた。
帝国最強と謳われる騎士団長ギルバート・エアクハルト。その彼が、たった一切れの菓子を前に、振り上げた腕を下ろせずに固まっている。
彼の頭の中は、大混乱に陥っていた。
(なんだ、この香りは……?)
鼻腔をくすぐる、甘く、優しい香り。それは彼の知るどんな匂いとも違っていた。戦場の鉄と血の匂いでもなく、訓練場の汗と土の匂いでもない。ただひたすらに、心を和ませ、本能を揺さぶる、幸福な香り。
(いかん、惑わされるな!)
ギルバートは自らを叱咤した。これは敵の罠だ。この菓子には、人の理性を麻痺させる毒か、あるいは堕落させる魔法でもかかっているに違いない。
そうだ。これは、俺の忠誠心を試すための試練なのだ。
彼はそう結論付けた。そして、この侮辱的な申し出を、一刀両断に斬り捨てねばならない。
「貴様、こんな甘ったるいもので、この私を…!」
彼が再び怒声を発しようとした、その時。
ぐぅぅぅぅぅ……。
静まり返った厨房に、盛大な腹の音が響き渡った。音の発生源は、言うまでもなく、帝国騎士団長その人だった。
「「「……」」」
アリアも、壁際にいた侍女たちも、息を呑んで固まった。
ギルバートの顔が、みるみるうちに溶鉱炉のように真っ赤に染まっていく。怒りではない。羞恥だ。騎士団長たるこの俺が、人質の前で、あろうことか腹の虫を鳴らすなど。これ以上の屈辱があるだろうか。
彼は気づいていなかった。ここ数日、陛下の失踪事件の調査と、騎士団の規律の乱れへの心労で、まともな食事を摂っていなかったことを。彼の体は、正直に栄養を求めていたのだ。
「……ええい、ままよ!」
彼は半ばヤケクソになっていた。もはや、この菓子を拒絶しても、彼の威厳はすでに地に落ちている。ならば、いっそ。
「よかろう! その挑戦、受けてやる!」
彼は意味不明な宣言をすると、アリアの手から皿をひったくるように奪い取った。
「一口だけだ! こんな軟弱なもので、俺の魂が揺らぐことなどないと、証明してやる!」
そう啖呵を切り、彼はフォークを掴むと、ケーキに突き立てた。
ふわっ。
フォークが、信じられないほど軽やかにスポンジに吸い込まれていく。その柔らかな感触に、彼の指先がわずかに戸惑った。彼は構わず、クリームと果実ごと大きくすくい取ると、それを自らの口へと、まるで毒でも呷るかのように乱暴に放り込んだ。
そして、次の瞬間。
ギルバート・エアクハルトの世界は、完全に崩壊した。
「な……!?」
口に入れた瞬間、まず彼を襲ったのは、スポンジの雲のように軽やかで、ふわふわとした食感だった。噛む必要さえない。舌の上で、しっとりと溶けていく。
続いて、雪のように白いクリームの、優しく、しかし濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。それは、彼が想像していたような、ただ甘ったるいだけの味ではない。乳草の豊かなコクと、上品な甘さが完璧に調和した、至高の味だった。
そして、クライマックス。真っ赤な果実を噛み締めた瞬間、きゅんとした甘酸っぱさが弾け、クリームの甘さと混じり合った。甘い、酸っぱい、まろやか、ふわふわ。味と食感の波状攻撃が、彼の味覚中枢を容赦なく襲う。
脳天を、雷に打たれたかのような衝撃が貫いた。
なんだ、これは。
なんだ、この食べ物は。
うまい。
美味い、なんてものではない。これは、今まで自分が生きてきた三十年間の『食』という概念を、根底から覆すほどの、奇跡の味だった。
彼の脳裏に、遠い昔の記憶がよみがえる。
――まだ幼かった頃、祭りで母にねだって、一度だけ口にした小さな蜜菓子。その甘さに目を輝かせた瞬間、厳格な父に見つかり、烈火のごとく叱られた。
『武家の男児が、甘味などにうつつを抜かすな! そのようなものは、魂を堕落させる毒だと思え!』
その日以来、彼は甘いものを自ら禁じ、蔑んできた。それは魂を弱くする、軟弱者の食べ物なのだと。
しかし、今、彼の口の中にあるものは、どうだ。
これは、毒などではない。堕落の味などではない。
これは、幸福そのものの味だ。
戦いに疲れた体を、心を、魂の芯から癒してくれる。明日への活力を与えてくれる、優しくて温かい、光の味だ。
俺は、今まで、なんて大きな間違いをしていたんだ。
ギルバートは、我を忘れていた。
一口だけ、と言ったはずの彼のフォークは、もう止まらなかった。二口、三口と、まるで飢えた獣のように、夢中でケーキを口へと運んでいく。
問責に来た目的も、騎士団長の威厳も、父の教えも、全てが頭から消え去っていた。ただ、この至福を、一秒でも長く味わっていたい。その一心だけが、彼を突き動かしていた。
厨房は、水を打ったように静まり返っていた。
アリアも、侍女たちも、ただ呆然と、その光景を見つめていた。帝国最強の騎士が、一切れのケーキを前に、無心で頬張る姿を。
やがて、カチャン、という小さな音と共に、フォークが空になった皿の上に置かれた。皿の上には、クリーム一筋すら残っていない。
ギルバートは、俯いたまま動かなかった。その屈強な肩が、かすかに震えている。
どうしよう。やはり、お怒りなのだろうか。
アリアが不安に思った、その時。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。
その顔は、やはり真っ赤だった。しかし、それはもはや怒りでも、羞恥でもない。
感動と、そして今まで知らなかった世界を知ってしまったことへの、純粋な衝撃の色だった。その厳つい顔には、なぜか涙さえ浮かんでいるように見えた。
彼は震える唇を、一度、二度と開閉させた。何かを言おうとしている。しかし、言葉が出てこない。
厨房の全員が、固唾をのんで、彼の次の一言を待っていた。
やがて、彼は絞り出すような、か細い、そして切実な響きを帯びた声で、こう呟いた。
「……おかわり」
その一言が、全てを物語っていた。
帝国騎士団長ギルバート・エアクハルトは、この日、この瞬間。たった一切れのショートケーキを前に、完全に、そして美しく、屈したのだった。
帝国最強と謳われる騎士団長ギルバート・エアクハルト。その彼が、たった一切れの菓子を前に、振り上げた腕を下ろせずに固まっている。
彼の頭の中は、大混乱に陥っていた。
(なんだ、この香りは……?)
鼻腔をくすぐる、甘く、優しい香り。それは彼の知るどんな匂いとも違っていた。戦場の鉄と血の匂いでもなく、訓練場の汗と土の匂いでもない。ただひたすらに、心を和ませ、本能を揺さぶる、幸福な香り。
(いかん、惑わされるな!)
ギルバートは自らを叱咤した。これは敵の罠だ。この菓子には、人の理性を麻痺させる毒か、あるいは堕落させる魔法でもかかっているに違いない。
そうだ。これは、俺の忠誠心を試すための試練なのだ。
彼はそう結論付けた。そして、この侮辱的な申し出を、一刀両断に斬り捨てねばならない。
「貴様、こんな甘ったるいもので、この私を…!」
彼が再び怒声を発しようとした、その時。
ぐぅぅぅぅぅ……。
静まり返った厨房に、盛大な腹の音が響き渡った。音の発生源は、言うまでもなく、帝国騎士団長その人だった。
「「「……」」」
アリアも、壁際にいた侍女たちも、息を呑んで固まった。
ギルバートの顔が、みるみるうちに溶鉱炉のように真っ赤に染まっていく。怒りではない。羞恥だ。騎士団長たるこの俺が、人質の前で、あろうことか腹の虫を鳴らすなど。これ以上の屈辱があるだろうか。
彼は気づいていなかった。ここ数日、陛下の失踪事件の調査と、騎士団の規律の乱れへの心労で、まともな食事を摂っていなかったことを。彼の体は、正直に栄養を求めていたのだ。
「……ええい、ままよ!」
彼は半ばヤケクソになっていた。もはや、この菓子を拒絶しても、彼の威厳はすでに地に落ちている。ならば、いっそ。
「よかろう! その挑戦、受けてやる!」
彼は意味不明な宣言をすると、アリアの手から皿をひったくるように奪い取った。
「一口だけだ! こんな軟弱なもので、俺の魂が揺らぐことなどないと、証明してやる!」
そう啖呵を切り、彼はフォークを掴むと、ケーキに突き立てた。
ふわっ。
フォークが、信じられないほど軽やかにスポンジに吸い込まれていく。その柔らかな感触に、彼の指先がわずかに戸惑った。彼は構わず、クリームと果実ごと大きくすくい取ると、それを自らの口へと、まるで毒でも呷るかのように乱暴に放り込んだ。
そして、次の瞬間。
ギルバート・エアクハルトの世界は、完全に崩壊した。
「な……!?」
口に入れた瞬間、まず彼を襲ったのは、スポンジの雲のように軽やかで、ふわふわとした食感だった。噛む必要さえない。舌の上で、しっとりと溶けていく。
続いて、雪のように白いクリームの、優しく、しかし濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。それは、彼が想像していたような、ただ甘ったるいだけの味ではない。乳草の豊かなコクと、上品な甘さが完璧に調和した、至高の味だった。
そして、クライマックス。真っ赤な果実を噛み締めた瞬間、きゅんとした甘酸っぱさが弾け、クリームの甘さと混じり合った。甘い、酸っぱい、まろやか、ふわふわ。味と食感の波状攻撃が、彼の味覚中枢を容赦なく襲う。
脳天を、雷に打たれたかのような衝撃が貫いた。
なんだ、これは。
なんだ、この食べ物は。
うまい。
美味い、なんてものではない。これは、今まで自分が生きてきた三十年間の『食』という概念を、根底から覆すほどの、奇跡の味だった。
彼の脳裏に、遠い昔の記憶がよみがえる。
――まだ幼かった頃、祭りで母にねだって、一度だけ口にした小さな蜜菓子。その甘さに目を輝かせた瞬間、厳格な父に見つかり、烈火のごとく叱られた。
『武家の男児が、甘味などにうつつを抜かすな! そのようなものは、魂を堕落させる毒だと思え!』
その日以来、彼は甘いものを自ら禁じ、蔑んできた。それは魂を弱くする、軟弱者の食べ物なのだと。
しかし、今、彼の口の中にあるものは、どうだ。
これは、毒などではない。堕落の味などではない。
これは、幸福そのものの味だ。
戦いに疲れた体を、心を、魂の芯から癒してくれる。明日への活力を与えてくれる、優しくて温かい、光の味だ。
俺は、今まで、なんて大きな間違いをしていたんだ。
ギルバートは、我を忘れていた。
一口だけ、と言ったはずの彼のフォークは、もう止まらなかった。二口、三口と、まるで飢えた獣のように、夢中でケーキを口へと運んでいく。
問責に来た目的も、騎士団長の威厳も、父の教えも、全てが頭から消え去っていた。ただ、この至福を、一秒でも長く味わっていたい。その一心だけが、彼を突き動かしていた。
厨房は、水を打ったように静まり返っていた。
アリアも、侍女たちも、ただ呆然と、その光景を見つめていた。帝国最強の騎士が、一切れのケーキを前に、無心で頬張る姿を。
やがて、カチャン、という小さな音と共に、フォークが空になった皿の上に置かれた。皿の上には、クリーム一筋すら残っていない。
ギルバートは、俯いたまま動かなかった。その屈強な肩が、かすかに震えている。
どうしよう。やはり、お怒りなのだろうか。
アリアが不安に思った、その時。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。
その顔は、やはり真っ赤だった。しかし、それはもはや怒りでも、羞恥でもない。
感動と、そして今まで知らなかった世界を知ってしまったことへの、純粋な衝撃の色だった。その厳つい顔には、なぜか涙さえ浮かんでいるように見えた。
彼は震える唇を、一度、二度と開閉させた。何かを言おうとしている。しかし、言葉が出てこない。
厨房の全員が、固唾をのんで、彼の次の一言を待っていた。
やがて、彼は絞り出すような、か細い、そして切実な響きを帯びた声で、こう呟いた。
「……おかわり」
その一言が、全てを物語っていた。
帝国騎士団長ギルバート・エアクハルトは、この日、この瞬間。たった一切れのショートケーキを前に、完全に、そして美しく、屈したのだった。
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