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第32話:処刑台か、厨房か
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「俺が、君に望むことは」
レオンハルトの低い声が、静かな部屋に響く。
アリアは息を詰めて彼の次の言葉を待った。それは彼女の運命を決定づける、神の宣告にも等しい言葉。処刑か。それとも、もっと残酷な生き地獄か。彼女の頭の中は、最悪の想像でいっぱいだった。
しかし、彼の口から紡がれた言葉は、彼女の全ての予想を根底から覆すものだった。
「これからも、毎日、君の料理が食べたい。……それだけだ」
「…………え?」
アリアの思考が完全に停止した。
今、この方は、何と?
私の、料理が、食べたい?
彼女は自分の耳を疑った。あまりのことに言葉の意味を理解するまでに、数秒間の時間を要した。
レオンハルトはそんな彼女の混乱など意に介さず、ただ静かに、そして真摯に言葉を続けた。
「俺にとって、君が人質の王女であるか、ただの町娘であるかなど些細なことだ。君が俺の知る『アリア』であり、あの温かい料理を作ってくれる唯一の人間であること。それが俺にとっての全ての真実だ」
彼の蒼い瞳は真っ直ぐにアリアを射抜いていた。その瞳には嘘も欺瞞も何一つない。ただ、彼の偽らざる本心がそこには映し出されていた。
「だから、何も恐れることはない。何も変わらない」
彼はそう言うと、アリアの震える手を包んでいた自らの手にそっと力を込めた。温かい体温が、彼女の冷え切った指先からゆっくりと伝わってくる。
アリアはただ呆然と、彼を見つめることしかできなかった。
処刑されると思っていた。良くて、地下牢に繋がれるのだと。それが当然の報いだと思っていた。不敬を働いたのだから。
それなのに。
彼は何も罰しないと。それどころか、今までと同じように自分の料理が食べたい、と。
「なぜ……」
か細い声が彼女の唇から漏れた。
「なぜ、なのですか……? 私は陛下を騙していたも同然です。知らなかったとはいえ、数々の無礼を……。罰しない理由が分かりません」
彼女の問いに、レオンハルトはふっと、本当に微かに口元を緩めた。それは自嘲と、そしてどこか懐かしむような複雑な笑みだった。
「理由、か。……そうだな」
彼は視線を少しだけ窓の外へと移した。秋の柔らかな光が彼の横顔を照らしている。
「俺は皇帝になってから、一度も心から『美味い』と感じて食事をしたことがなかった。食事は常に毒の危険と隣り合わせの、緊張を強いられる作業だった」
彼の声は淡々としていた。しかし、その奥には彼が一人で抱えてきた深い孤独と痛みが滲んでいた。
「だが、君のスープを飲んだあの日。俺は生まれて初めて、食事が『温かい』ものだと知った。君の料理は、ただ腹を満たすだけではない。俺の凍てついていた心を、少しずつ溶かしてくれた」
彼は再びアリアに視線を戻した。その瞳は驚くほど穏やかだった。
「君が作るものには、人の心を癒し、幸せにする力がある。それは俺が持つどんな権力よりも、ギルバートが持つどんな武力よりも、エリオットが持つどんな知恵よりも、尊く、そして得難い力だ」
彼の言葉の一つ一つが、アリアの心に温かい雫のように染み込んでいく。
「そんな君を、俺が手放すと思うか?」
その問いは、問いかけでありながら絶対的な肯定の響きを持っていた。
「俺は皇帝だ。欲しいと思ったものは全て手に入れる。そして、一度手に入れたものを手放すことはない」
彼の言葉は独裁者の傲慢な宣言にも聞こえたかもしれない。しかし、アリアにはそうは聞こえなかった。
その言葉の裏にある、不器用なまでの切実な響き。
この人は、本当に、ただ私の料理を……私を、必要としてくれている。
その事実が、雷に打たれたかのように彼女の心を貫いた。
恐怖で麻痺していた心がゆっくりと動き出す。凍りついていた涙腺が決壊した。
ぽろり、と。
彼女の瞳から大粒の涙が、一筋、また一筋と溢れ落ちていく。
それは恐怖の涙ではなかった。
安堵と、そして今まで感じたことのない胸が締め付けられるような温かい感情からくる涙だった。
「……っ、う……」
嗚咽が漏れる。一度泣き出すともう止まらなかった。今までずっと張り詰めていた糸が、ぷつりと切れてしまったかのようだった。
「うわあああ……ん……!」
彼女は子供のように声を上げて泣いた。
故郷で虐げられてきた悲しみ。一人で帝国に来た心細さ。死を覚悟した恐怖。そして、自分の居場所を見つけた喜び。彼の正体を知った絶望。その全てが涙となって溢れ出してくる。
レオンハルトは何も言わずに、ただ静かに彼女が泣き止むのを待っていた。
そして、泣きじゃくる彼女の体をそっと、壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
「……!?」
突然のことに、アリアの体はびくりと硬直した。しかし、彼の腕は力強く、それでいてどこまでも優しかった。彼の胸の中から、とくん、とくん、という落ち着いた心臓の音が聞こえてくる。その規則正しいリズムが、不思議と彼女の心を落ち着かせていった。
「もう、泣くな」
頭の上から低い、優しい声が降ってくる。
「君の居場所はここだ。俺のそばだ」
その言葉はまるで魔法のようだった。
アリアの涙はゆっくりと引いていった。そして、彼の胸に顔を埋めたまま、彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。
処刑台か、厨房か。
彼女が突きつけられたと思っていた選択肢は、そもそも存在しなかったのだ。
彼が彼女に用意していた未来は、ただ一つ。
これからも彼のそばで、温かい料理を作り続けること。
ただ、それだけ。
どれくらいの時間そうしていただろうか。ようやく落ち着いたアリアが、もぞもぞと彼の腕の中から顔を上げた。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「あの……陛下」
「レオン、と呼べ」
彼の有無を言わさぬ口調に、アリアはびくりとしながらも小さく頷いた。
「……レオン様。その……お腹が空きました」
涙を流しすぎたせいか、あるいは緊張が解けたせいか。彼女のお腹が、くぅ、と可愛らしい音を立てた。
その音に張り詰めていた部屋の空気がふっと緩んだ。
レオンハルトは思わず、というように声を立てて笑った。それはアリアが初めて聞く、彼の心からの笑い声だった。
「……そうか」
彼は笑いながら、彼女の涙で濡れた頬をそっと指で拭った。
「ならば何か作ってくれ。俺も腹が減った」
その言葉は、いつもの聞き慣れた響きを持っていた。
アリアは、その言葉にようやく本当に全てが元通りになったのだと理解した。いや、元通りではない。もっと新しく、もっと確かな何かが二人の間に生まれたのだ。
彼女は涙で濡れた顔のまま、最高の笑顔でにっこりと微笑んだ。
「はい、喜んで!」
嵐は過ぎ去った。そして、嵐が過ぎ去った後の空はいつだって、驚くほど青く澄み渡っているものなのだ。
レオンハルトの低い声が、静かな部屋に響く。
アリアは息を詰めて彼の次の言葉を待った。それは彼女の運命を決定づける、神の宣告にも等しい言葉。処刑か。それとも、もっと残酷な生き地獄か。彼女の頭の中は、最悪の想像でいっぱいだった。
しかし、彼の口から紡がれた言葉は、彼女の全ての予想を根底から覆すものだった。
「これからも、毎日、君の料理が食べたい。……それだけだ」
「…………え?」
アリアの思考が完全に停止した。
今、この方は、何と?
私の、料理が、食べたい?
彼女は自分の耳を疑った。あまりのことに言葉の意味を理解するまでに、数秒間の時間を要した。
レオンハルトはそんな彼女の混乱など意に介さず、ただ静かに、そして真摯に言葉を続けた。
「俺にとって、君が人質の王女であるか、ただの町娘であるかなど些細なことだ。君が俺の知る『アリア』であり、あの温かい料理を作ってくれる唯一の人間であること。それが俺にとっての全ての真実だ」
彼の蒼い瞳は真っ直ぐにアリアを射抜いていた。その瞳には嘘も欺瞞も何一つない。ただ、彼の偽らざる本心がそこには映し出されていた。
「だから、何も恐れることはない。何も変わらない」
彼はそう言うと、アリアの震える手を包んでいた自らの手にそっと力を込めた。温かい体温が、彼女の冷え切った指先からゆっくりと伝わってくる。
アリアはただ呆然と、彼を見つめることしかできなかった。
処刑されると思っていた。良くて、地下牢に繋がれるのだと。それが当然の報いだと思っていた。不敬を働いたのだから。
それなのに。
彼は何も罰しないと。それどころか、今までと同じように自分の料理が食べたい、と。
「なぜ……」
か細い声が彼女の唇から漏れた。
「なぜ、なのですか……? 私は陛下を騙していたも同然です。知らなかったとはいえ、数々の無礼を……。罰しない理由が分かりません」
彼女の問いに、レオンハルトはふっと、本当に微かに口元を緩めた。それは自嘲と、そしてどこか懐かしむような複雑な笑みだった。
「理由、か。……そうだな」
彼は視線を少しだけ窓の外へと移した。秋の柔らかな光が彼の横顔を照らしている。
「俺は皇帝になってから、一度も心から『美味い』と感じて食事をしたことがなかった。食事は常に毒の危険と隣り合わせの、緊張を強いられる作業だった」
彼の声は淡々としていた。しかし、その奥には彼が一人で抱えてきた深い孤独と痛みが滲んでいた。
「だが、君のスープを飲んだあの日。俺は生まれて初めて、食事が『温かい』ものだと知った。君の料理は、ただ腹を満たすだけではない。俺の凍てついていた心を、少しずつ溶かしてくれた」
彼は再びアリアに視線を戻した。その瞳は驚くほど穏やかだった。
「君が作るものには、人の心を癒し、幸せにする力がある。それは俺が持つどんな権力よりも、ギルバートが持つどんな武力よりも、エリオットが持つどんな知恵よりも、尊く、そして得難い力だ」
彼の言葉の一つ一つが、アリアの心に温かい雫のように染み込んでいく。
「そんな君を、俺が手放すと思うか?」
その問いは、問いかけでありながら絶対的な肯定の響きを持っていた。
「俺は皇帝だ。欲しいと思ったものは全て手に入れる。そして、一度手に入れたものを手放すことはない」
彼の言葉は独裁者の傲慢な宣言にも聞こえたかもしれない。しかし、アリアにはそうは聞こえなかった。
その言葉の裏にある、不器用なまでの切実な響き。
この人は、本当に、ただ私の料理を……私を、必要としてくれている。
その事実が、雷に打たれたかのように彼女の心を貫いた。
恐怖で麻痺していた心がゆっくりと動き出す。凍りついていた涙腺が決壊した。
ぽろり、と。
彼女の瞳から大粒の涙が、一筋、また一筋と溢れ落ちていく。
それは恐怖の涙ではなかった。
安堵と、そして今まで感じたことのない胸が締め付けられるような温かい感情からくる涙だった。
「……っ、う……」
嗚咽が漏れる。一度泣き出すともう止まらなかった。今までずっと張り詰めていた糸が、ぷつりと切れてしまったかのようだった。
「うわあああ……ん……!」
彼女は子供のように声を上げて泣いた。
故郷で虐げられてきた悲しみ。一人で帝国に来た心細さ。死を覚悟した恐怖。そして、自分の居場所を見つけた喜び。彼の正体を知った絶望。その全てが涙となって溢れ出してくる。
レオンハルトは何も言わずに、ただ静かに彼女が泣き止むのを待っていた。
そして、泣きじゃくる彼女の体をそっと、壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
「……!?」
突然のことに、アリアの体はびくりと硬直した。しかし、彼の腕は力強く、それでいてどこまでも優しかった。彼の胸の中から、とくん、とくん、という落ち着いた心臓の音が聞こえてくる。その規則正しいリズムが、不思議と彼女の心を落ち着かせていった。
「もう、泣くな」
頭の上から低い、優しい声が降ってくる。
「君の居場所はここだ。俺のそばだ」
その言葉はまるで魔法のようだった。
アリアの涙はゆっくりと引いていった。そして、彼の胸に顔を埋めたまま、彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。
処刑台か、厨房か。
彼女が突きつけられたと思っていた選択肢は、そもそも存在しなかったのだ。
彼が彼女に用意していた未来は、ただ一つ。
これからも彼のそばで、温かい料理を作り続けること。
ただ、それだけ。
どれくらいの時間そうしていただろうか。ようやく落ち着いたアリアが、もぞもぞと彼の腕の中から顔を上げた。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「あの……陛下」
「レオン、と呼べ」
彼の有無を言わさぬ口調に、アリアはびくりとしながらも小さく頷いた。
「……レオン様。その……お腹が空きました」
涙を流しすぎたせいか、あるいは緊張が解けたせいか。彼女のお腹が、くぅ、と可愛らしい音を立てた。
その音に張り詰めていた部屋の空気がふっと緩んだ。
レオンハルトは思わず、というように声を立てて笑った。それはアリアが初めて聞く、彼の心からの笑い声だった。
「……そうか」
彼は笑いながら、彼女の涙で濡れた頬をそっと指で拭った。
「ならば何か作ってくれ。俺も腹が減った」
その言葉は、いつもの聞き慣れた響きを持っていた。
アリアは、その言葉にようやく本当に全てが元通りになったのだと理解した。いや、元通りではない。もっと新しく、もっと確かな何かが二人の間に生まれたのだ。
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