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第三十話:加速する歯車
しおりを挟む『グラビティ・ケイブ』からの帰還は、俺に大きな達成感と、それ以上の膨大な研究課題をもたらした。フロンティアの研究工房に戻った俺は、休む間もなく持ち帰った『グラビティ・コード』のデータの解析に没頭した。黒球表面に浮かんでいたあの複雑な幾何学模様は、単なるパターンではなく、それ自体が物理法則に干渉する、高度な情報体系である可能性が高い。
「…このコード構造、特定の魔力波形に対して、重力場を局所的に収束させるレンズのような効果を発揮するのか? こちらのセクションは、逆に重力を反発させるフィールドを生成する…? まるで、重力版の半導体素子だ」
モニターに映し出された解析データとシミュレーション結果を睨みながら、俺は興奮を抑えきれなかった。これは、現代物理学の常識を覆しかねない、とんでもない代物だ。もし、この『グラビティ・コード』を完全に解読し、その原理を応用できれば、反重力装置や人工重力発生装置、さらにはワープ航法のようなSFじみた技術すら、理論的には可能になるかもしれない。
「…だが、そのためには、コードの『文法』と『語彙』を理解する必要がある。今のデータだけでは、まだ単語を拾い読みしている段階に過ぎない」
プライマル・コード、そしてグラビティ・コード。これらは、おそらく共通の、あるいは関連性のある、古代の『法則記述言語』とでも言うべきものではないだろうか。エリーゼが持つ古代文献のデータベースと照合し、パターンマッチングや統計解析を行う必要がある。
俺は早速、エリーゼに詳細な報告を行った。『グラビティ・ケイブ』の安定化(完全ではないが)という成果、そして『グラビティ・コード』に関する初期解析の結果と、そこから導き出された仮説。特に、重力制御技術への応用可能性については、重点的に説明した。
『…重力制御! やはり、あなたに任せて正解でしたわ! それこそ、わたくしが追い求めていた古代文明の叡智の一端に違いありませんわ!』
通信の向こうで、エリーゼは珍しく興奮した様子だった。彼女の関心が、単なる古代遺物の収集ではなく、その技術体系の解明と再現にあることが改めて窺える。
『すぐに、わたくしが持つ全ての古代言語データベース、未解読のプライマル・コードサンプルデータへのフルアクセス権限をあなたに付与します。セバスチャンにも、あなたの研究を最優先でサポートするよう厳命しておきましたわ。必要なものは何でも言いなさい。資金も、人材も、リンドバーグ家の総力を挙げてバックアップしますわ!』
彼女の熱意は、もはや研究協力というレベルを超え、共同研究者、あるいはプロジェクトリーダーに対するそれに近いものになっていた。俺にとっても、それは望むところだ。
『ただし』と、エリーゼは少しだけ冷静さを取り戻して付け加えた。
『あなたの成果は、同時に大きなリスクも伴います。重力制御技術…それがもし公になれば、世界中の国家や組織が黙ってはいないでしょう。情報の管理は、これまで以上に徹底する必要がありますわ。そして、あなた自身の安全確保も…』
「分かっている。警戒は怠らないさ」
俺は頷いた。俺の存在と研究は、既に水面下で様々な憶測を呼んでいる。エリーゼとの協力関係が明らかになれば、その注目度はさらに増すだろう。
そして、その影響は、思ったよりも早く現れ始めていた。
ギルドでのランクはDのままだが、『グラビティ・ケイブ』からの生還、そしてそのダンジョンが(原因不明ながら)以前より安定化したという情報は、瞬く間に探索者たちの間に広まった。「偶然だ」「他の高ランクパーティーの成果だろう」という声もある一方で、「やはり、あの『法則ハッカー』が何かやったのではないか」という憶測が、まことしやかに囁かれていた。
ギルドの資料室や訓練場に行くと、以前にも増して好奇と警戒の入り混じった視線を向けられる。中には、俺に直接接触してこようとする者も現れ始めた。
「よう、あんたが噂の神崎譲か? 少しツラ貸せや」
ある日、訓練帰りに、見るからに柄の悪い、Cランクプレートを付けた探索者グループに絡まれた。おそらく、俺の能力を探るか、あるいは単純に因縁をつけたいだけだろう。
「……何の用だ?」
俺は冷静に応じた。相手は三人。装備はそれなりだが、動きに隙が多い。今の俺なら、たとえスキルを使わずとも対処できるレベルだ。
「Dランクの癖に、最近随分と羽振りがいいじゃねえか。何か美味い儲け話でも掴んでるんだろ? 俺たちにも一枚噛ませろや」
「断る。俺は自分のやり方でやっているだけだ」
「あっそ。なら、力ずくで聞かせてもらうしかねえな!」
リーダー格の男が、拳を握りしめて殴りかかってきた。単純で、大振りな攻撃。
俺はそれを最小限の動きで躱し、相手の重心移動と力のベクトルを『現象観測』で読み取り、カウンター気味に肘を相手の脇腹に入れた。人体構造の知識に基づいた、最も効率的にダメージを与える一点。
「ぐっ…!?」
男は呻き声を上げ、その場に蹲った。残りの二人も、一瞬怯んだが、すぐに逆上して襲いかかってくる。
俺はスキルを使うまでもなく、物理法則と人体構造の知識、そしてダンジョンで培った戦闘経験を駆使し、彼らをあっさりと制圧した。関節技で動きを封じ、急所への的確な打撃で意識を刈り取る。無駄なダメージは与えないが、抵抗する意思は完全にへし折る。
「……次はないぞ」
俺は冷たく言い放ち、その場を立ち去った。周囲で見ていた他の探索者たちは、驚きと、そして少しの恐怖を滲ませた表情で、俺に道を開けた。
(…面倒なことになったな)
今回の件は、俺が単に特殊なスキルや知識を持っているだけでなく、実戦的な戦闘能力も向上していることを周囲に示してしまった。これは、さらなる警戒や敵意を招く可能性がある。
(もっと、目立たずに行動する必要がある。だが、研究を進めるためには、どうしてもダンジョンでの実地検証や素材収集が必要になる…)
ジレンマだった。エリーゼという強力な後ろ盾を得た一方で、俺自身の存在が、否応なく世界の注目を集め始めている。
そんな中、俺は再び、レンたちの姿をギルドで見かけた。彼らは、相変わらずCランクへの昇格を果たせていないようで、以前にも増して焦燥感を漂わせている。特にレンは、周囲に当たり散らすような、刺々しい雰囲気を纏っていた。
「……ちくしょう! なんでだよ! 俺たちの実力は、こんなもんじゃないはずだ!」
彼の苦悩の声が、僅かに聞こえてきた。栞が心配そうに彼を宥め、ミナが不安げに寄り添っている。
(……彼らもまた、何らかの『法則』に縛られているのか)
俺は、彼らの姿に、かつての自分自身を重ね合わせていたのかもしれない。才能や努力だけではどうにもならない、世界の理不尽さ。俺はそれを、科学知識とスキルという『バグ』を利用して乗り越えようとしている。だが、彼らは…?
俺が工房に戻ると、セバスチャンが珍しく深刻な表情で待っていた。
「神崎様、少々厄介な情報が入りました」
「なんだ?」
「…あなた様の能力、そしてリンドバーグ家との関係について、いくつかの組織が本格的に調査を開始した模様です。ギルド内部にも、情報を流している者がいる可能性があります」
「組織…? どこのだ?」
「まだ特定には至っておりません。ですが、国家レベルの諜報機関、あるいは、ダンジョン利権を狙う他の巨大複合企業…そのいずれか、あるいは複数の可能性が考えられます」
セバスチャンの言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。単なる探索者同士の諍いとはレベルが違う。国家や巨大企業が相手となれば、俺一人、あるいはリンドバーグ家の力だけで対処できるとは限らない。
「…エリーゼは、何か対策を?」
「はい。エリーゼ様も、この事態は想定しておりました。すでに、情報統制の強化と、あなた様の身辺警護体制の見直しを進めております。ですが、相手が水面下で動く以上、完璧な防御は困難です」
セバスチャンの瞳には、強い警戒の色が浮かんでいた。
「あなた様には、これまで以上の注意をお願いいたします。そして、万が一に備え、これを」
彼が差し出したのは、腕時計型の小型デバイスだった。
「緊急用の通信機兼、限定的ながら防御フィールドを展開できる装備です。エリーゼ様からの、ささやかな贈り物ですな」
俺はそのデバイスを受け取り、腕に装着した。リンドバーグ家の技術力が凝縮された、高性能な装備であることは間違いない。
「……分かった。気をつける」
世界は、確実に加速し始めていた。俺の存在を軸にして、様々な思惑が動き出し、巨大な歯車が軋みを立てて回り始めたような感覚。それは、新たな挑戦の始まりであると同時に、巨大な陰謀と危険の渦へと、俺自身が足を踏み入れつつあることを示唆していた。
俺は、工房の窓から見える夜景を眺めた。無数の光が煌めくフロンティアの街。その輝きの裏側で、どれほどの闇が蠢いているのだろうか。
(…面白い。望むところだ)
俺は、迫りくるであろう困難を前に、不敵な笑みを浮かべた。法則をハックするということは、世界の根幹に触れるということだ。そこに反発や抵抗が生じるのは、ある意味で当然の物理現象とも言える。
ならば、俺はその抵抗すらも利用し、さらに高みへと駆け上がってやる。俺の方程式は、まだ解の途中なのだから。
第二部「加速する世界」の幕は、静かに、しかし確実に上がった。これから俺を待ち受けるのは、どんな敵か、どんな仲間か、そして、どんな真実なのか。期待と不安が入り混じった、新たな物語の始まりだった。
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