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第35話 【準備⑤】雅と倉庫で二人きり
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玲、葵、湊。彼女たちは、それぞれの形で体育祭の練習に打ち込み、俺をその甘い計画に巻き込んでいった。そのおかげで、俺の放課後は毎日誰かしらと一緒で、一人になる時間はほとんどない。それはそれで楽しかったが、時折、静かな時間が恋しくなるのも事実だった。
そんな中、一人だけ、俺たちの輪から少しだけ距離を置いている人物がいた。九条雅だ。
彼女は、クラスメイトに押し切られる形で騎馬戦に出場することにはなったが、合同練習には最低限しか顔を出さない。誰とも馴れ合わず、一人で黙々とトレーニングをこなしては、嵐のように去っていく。
(やっぱり、大勢で何かをするのは苦手なのかな)
俺は、彼女のそんな姿を見るたびに、少しだけ心配になっていた。もっと、みんなと楽しめばいいのに。そう思うが、彼女の性格を考えると、無理強いはできない。
そんなある日の放課後。体育祭実行委員のクラスメイトが、大きな段ボール箱を抱えて教室に入ってきた。
「わりい! 誰か一人、体育倉庫まで備品の運び込み、手伝ってくれねえか?」
その声に、クラスに残っていた数人が「えー、めんどくせー」と顔をしかめる。俺も、正直なところ疲れていたが、誰も行かないなら仕方ないか、と腰を上げようとした。
その時だった。
「……俺が行く」
低い、静かな声がした。声の主は、窓際で一人、本を読んでいた雅だった。彼女が、自ら雑用を進んで引き受けるなんて、前代未聞のことだ。クラスメイトたちも、驚いて目を丸くしている。
「お、おお、九条! マジか、助かるぜ!」
実行委員は、意外な助っ人の登場に顔を輝かせた。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
俺は、ここぞとばかりに立ち上がった。雅と二人きりになれる、またとないチャンスかもしれない。
俺がそう言うと、雅は一瞬だけ俺の方を見て、すぐにふいっと顔を背けた。その横顔は、少しだけ不機嫌そうに見えたが、拒絶はされなかった。
俺と雅は、それぞれ大きな段ボール箱を抱え、体育倉庫へと向かった。二人きりの廊下には、気まずい沈黙が流れる。何か話さなければ。そう思うのに、気の利いた言葉が見つからない。
「……重くないか?」
俺がなんとか絞り出した言葉に、彼女は短く「別に」とだけ返した。会話は、それっきりだった。
体育倉庫は、校舎の裏手にひっそりと佇んでいた。古びた木造の建物で、中からはカビと埃の匂いが混じった、独特の匂いがする。
「ここに置けばいいんだな」
俺たちは、倉庫の中央に段ボール箱を下ろした。薄暗い倉庫の中には、跳び箱やマット、様々なボールなどが所狭しと積み上げられている。天井の裸電球が、ぼんやりと二人を照らしていた。
「……じゃあ、戻るか」
用事は済んだ。長居は無用だ。俺がそう言って倉庫から出ようとした時だった。
ガタンッ、と背後で大きな音がした。
振り返ると、雅がバランスを崩し、壁に立てかけてあったいくつかのハードルを倒してしまっていた。彼女は、慌ててそれを直そうとする。
「あ、危ない!」
俺は咄嗟に駆け寄り、倒れかかってきた別のハードルから、彼女の身体を庇うように抱き寄せた。
「……っ!」
腕の中に収まった雅の身体は、驚くほど華奢で、そして緊張で硬直していた。甘い、花のようないい香りが、ふわりと鼻をかすめる。俺の胸に、彼女の心臓の早い鼓動が伝わってきた。
「だ、大丈夫か、雅?」
思わず、名前で呼んでしまう。
彼女は、俺の腕の中で顔を真っ赤にして固まっていた。そして、小さな声で「……離せ」と呟く。
「あ、ああ、ごめん!」
俺は慌てて彼女から身体を離した。気まずい。気まずすぎる。
「……お前のせいだ」
雅が、潤んだ瞳で俺を睨みつけてきた。
「え、俺のせい!?」
「……お前が、変なタイミングで話しかけるから、足がもつれた」
とんでもない濡れ衣だった。だが、彼女のその必死な言い訳が、たまらなく可愛く思えてしまう。
俺たちは、散らばったハードルを黙々と片付け始めた。その時、俺の指先が、ハードルを掴もうとした彼女の指先に、偶然触れた。
「……!」
びくり、と彼女の肩が跳ねる。触れた指先から、彼女の熱がじわりと伝わってくるようだった。俺は、その熱に浮かされるように、咄嗟に彼女の手を、そっと握ってしまっていた。
雅の手は、小さくて、驚くほど柔らかかった。
彼女は、俺に手を握られたまま、声も出せずに固まっている。その顔は、今にも爆発しそうなくらい真っ赤に染まっていた。
俺も、自分が何をしているのか分からない。ただ、この手を離したくない。そんな衝動に駆られていた。
薄暗い倉庫の中。埃っぽくて、カビ臭い空間のはずなのに、今は世界で一番甘酸っぱい空気が流れている気がした。時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
「…………いつまで、そうしてるつもりだ」
やがて、雅がか細い声で呟いた。
その言葉に、俺ははっと我に返る。
「わ、悪い!」
俺は、火傷でもしたかのように、慌てて彼女の手を離した。
「……先に戻る」
雅は、それだけ言うと、逃げるように倉庫から駆け出していった。その背中は、今まで見たどんな時よりも小さく見えた。
一人残された倉庫で、俺は自分の右手をじっと見つめていた。
まだ、彼女の柔らかな感触と、温かさが残っている。
玲とも、葵とも、湊とも違う。不器用で、臆病で、でも誰よりも純粋な彼女。
俺は、また一つ、彼女の固い鎧の下にある、柔らかくて温かい素顔に触れてしまった。
このドキドキは、ただの共犯者としての絆なのだろうか。それとも……。
答えの出ない問いを胸に抱えながら、俺はしばらく、その場から動くことができなかった。
そんな中、一人だけ、俺たちの輪から少しだけ距離を置いている人物がいた。九条雅だ。
彼女は、クラスメイトに押し切られる形で騎馬戦に出場することにはなったが、合同練習には最低限しか顔を出さない。誰とも馴れ合わず、一人で黙々とトレーニングをこなしては、嵐のように去っていく。
(やっぱり、大勢で何かをするのは苦手なのかな)
俺は、彼女のそんな姿を見るたびに、少しだけ心配になっていた。もっと、みんなと楽しめばいいのに。そう思うが、彼女の性格を考えると、無理強いはできない。
そんなある日の放課後。体育祭実行委員のクラスメイトが、大きな段ボール箱を抱えて教室に入ってきた。
「わりい! 誰か一人、体育倉庫まで備品の運び込み、手伝ってくれねえか?」
その声に、クラスに残っていた数人が「えー、めんどくせー」と顔をしかめる。俺も、正直なところ疲れていたが、誰も行かないなら仕方ないか、と腰を上げようとした。
その時だった。
「……俺が行く」
低い、静かな声がした。声の主は、窓際で一人、本を読んでいた雅だった。彼女が、自ら雑用を進んで引き受けるなんて、前代未聞のことだ。クラスメイトたちも、驚いて目を丸くしている。
「お、おお、九条! マジか、助かるぜ!」
実行委員は、意外な助っ人の登場に顔を輝かせた。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
俺は、ここぞとばかりに立ち上がった。雅と二人きりになれる、またとないチャンスかもしれない。
俺がそう言うと、雅は一瞬だけ俺の方を見て、すぐにふいっと顔を背けた。その横顔は、少しだけ不機嫌そうに見えたが、拒絶はされなかった。
俺と雅は、それぞれ大きな段ボール箱を抱え、体育倉庫へと向かった。二人きりの廊下には、気まずい沈黙が流れる。何か話さなければ。そう思うのに、気の利いた言葉が見つからない。
「……重くないか?」
俺がなんとか絞り出した言葉に、彼女は短く「別に」とだけ返した。会話は、それっきりだった。
体育倉庫は、校舎の裏手にひっそりと佇んでいた。古びた木造の建物で、中からはカビと埃の匂いが混じった、独特の匂いがする。
「ここに置けばいいんだな」
俺たちは、倉庫の中央に段ボール箱を下ろした。薄暗い倉庫の中には、跳び箱やマット、様々なボールなどが所狭しと積み上げられている。天井の裸電球が、ぼんやりと二人を照らしていた。
「……じゃあ、戻るか」
用事は済んだ。長居は無用だ。俺がそう言って倉庫から出ようとした時だった。
ガタンッ、と背後で大きな音がした。
振り返ると、雅がバランスを崩し、壁に立てかけてあったいくつかのハードルを倒してしまっていた。彼女は、慌ててそれを直そうとする。
「あ、危ない!」
俺は咄嗟に駆け寄り、倒れかかってきた別のハードルから、彼女の身体を庇うように抱き寄せた。
「……っ!」
腕の中に収まった雅の身体は、驚くほど華奢で、そして緊張で硬直していた。甘い、花のようないい香りが、ふわりと鼻をかすめる。俺の胸に、彼女の心臓の早い鼓動が伝わってきた。
「だ、大丈夫か、雅?」
思わず、名前で呼んでしまう。
彼女は、俺の腕の中で顔を真っ赤にして固まっていた。そして、小さな声で「……離せ」と呟く。
「あ、ああ、ごめん!」
俺は慌てて彼女から身体を離した。気まずい。気まずすぎる。
「……お前のせいだ」
雅が、潤んだ瞳で俺を睨みつけてきた。
「え、俺のせい!?」
「……お前が、変なタイミングで話しかけるから、足がもつれた」
とんでもない濡れ衣だった。だが、彼女のその必死な言い訳が、たまらなく可愛く思えてしまう。
俺たちは、散らばったハードルを黙々と片付け始めた。その時、俺の指先が、ハードルを掴もうとした彼女の指先に、偶然触れた。
「……!」
びくり、と彼女の肩が跳ねる。触れた指先から、彼女の熱がじわりと伝わってくるようだった。俺は、その熱に浮かされるように、咄嗟に彼女の手を、そっと握ってしまっていた。
雅の手は、小さくて、驚くほど柔らかかった。
彼女は、俺に手を握られたまま、声も出せずに固まっている。その顔は、今にも爆発しそうなくらい真っ赤に染まっていた。
俺も、自分が何をしているのか分からない。ただ、この手を離したくない。そんな衝動に駆られていた。
薄暗い倉庫の中。埃っぽくて、カビ臭い空間のはずなのに、今は世界で一番甘酸っぱい空気が流れている気がした。時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
「…………いつまで、そうしてるつもりだ」
やがて、雅がか細い声で呟いた。
その言葉に、俺ははっと我に返る。
「わ、悪い!」
俺は、火傷でもしたかのように、慌てて彼女の手を離した。
「……先に戻る」
雅は、それだけ言うと、逃げるように倉庫から駆け出していった。その背中は、今まで見たどんな時よりも小さく見えた。
一人残された倉庫で、俺は自分の右手をじっと見つめていた。
まだ、彼女の柔らかな感触と、温かさが残っている。
玲とも、葵とも、湊とも違う。不器用で、臆病で、でも誰よりも純粋な彼女。
俺は、また一つ、彼女の固い鎧の下にある、柔らかくて温かい素顔に触れてしまった。
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