この男子校の生徒が自分以外全員男装女子だということを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第36話 【本番前夜】勝利の女神たち

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体育祭を明日に控えた夜。部屋の空気は、どこか浮足立っていた。長かったようで、あっという間だった三週間。机の上には、明日のプログラムが広げられている。俺の出場種目は、『二人三脚』と『クラス対抗リレー』。運動音痴の俺が、まさかこんな花形種目に出場するなんて。数週間前の自分に言っても、絶対に信じないだろう。

全ては、彼女たちのせいだ。いや、おかげだ。
玲との息の合った二人三脚。葵との魂を燃やす応援練習。湊の完璧な勝利計画。雅との、言葉にならない絆。練習は間違いなくきつかった。だが、それ以上に毎日が楽しくて、輝いていた。

「よし、準備万端」
ゼッケンをユニフォームに縫い付け、シューズの状態を確認する。明日は、俺の人生で一番、本気で走る日になるだろう。彼女たちの期待に、何としてでも応えたい。ただ、その一心で胸が熱かった。

俺が一人で静かに闘志を燃やしていると、隣のベッドにいた玲が、すっと立ち上がって俺の前に来た。
「祐樹」
「ん? どうした、玲」
彼女は何も言わず、小さな包みを俺に差し出した。綺麗な薄紫色の和紙で丁寧に包まれている。
「これは?」
「……お守り、みたいなものよ」
少しだけ照れくさそうに、彼女は視線を逸らす。俺が包みを開けると、中から出てきたのは、真っ白なシルクのハンカチだった。その隅には、金の糸で獅子の横顔が見事に刺繍されている。獅子王院の校章だ。
「すげえ……お前が刺繍したのか?」
「ええ。少しだけ、夜なべをしてね」
その指先が、わずかに赤くなっている気がした。彼女が俺のためにどれだけの時間を費やしてくれたのかが伝わってきて、胸が熱くなる。
「明日は、これで汗を拭くといいわ。僕の魔力が込められているから、きっと最後まで走り切れるはずよ」
彼女は冗談めかしてそう言ったが、その瞳は真剣だった。
「僕の視線は、ずっとあなただけを追っているから。だから……無様な姿は見せないでちょうだいね」
それはプレッシャーであり、そして何よりも強い信頼の言葉だった。
「ああ。任せとけ」
俺は、その滑らかなハンカチを、そっとポケットにしまった。

玲との間に穏やかな空気が流れていた、その時だった。
バンッ!と大きな音を立てて、部屋のドアが勢いよく開かれた。
「祐樹! いるかーっ!」
嵐のように現れたのは、もちろん葵だ。その手には、何か細長いものが握られている。
「五十嵐さん。ノックくらいしたらどうなの」
玲が、冷たい視線で葵を睨む。
「わりいわりい! ちょっと興奮しちまってな!」
葵は全く悪びれる様子もなく、ずかずかと部屋に入ってくると、俺の前に仁王立ちした。
「祐樹! 明日に向けて、景気づけだ! ほら、腕出せ!」
「え? 腕?」
俺が戸惑いながら左腕を差し出すと、葵はそれに、持っていたものを手際よく結びつけ始めた。それは、赤と白の糸で編まれた、手作りのミサンガだった。
「これ……」
「俺が作ったんだぜ! 不器用だから、何度も失敗したけどな」
そう言って、彼女は照れくさそうに自分の頭をガシガシと掻いた。その指先には、絆創膏がいくつか貼られている。
「いいか、祐樹。これは、勝利のミサンガだ。これ付けてる間は、俺のことだけ考えろよ。俺がリレーで走る時も、騎馬戦で戦う時も、お前の応援だけが頼りなんだからな!」
その言葉は、どこまでもストレートで、力強い。
「分かったな!? 俺から、絶対、目を離すなよ!」
そう言って、彼女は俺の腕に結んだミサンガを、ポンと軽く叩いた。その笑顔は、太陽そのものだった。

葵がミサンガを結び終えた、まさにそのタイミングだった。
「あー! 葵先輩、抜け駆けはずるいですー!」
ドアの隙間から、ひょっこりと湊が顔を出した。どうやら、廊下で様子を窺っていたらしい。
「なんだよ湊、お前も来てたのか」
「当たり前じゃないですか。僕だって、せんぱいに渡したいものがあるんですから」
湊は、ぷんすかと頬を膨らませながら部屋に入ってくると、小さな巾着袋を俺に差し出した。
「はい、せんぱい。僕からのお守りです」
可愛らしい猫の柄がついた、手作りの巾着袋。中を覗くと、小さな木札が入っていた。表には『必勝祈願』、裏には俺の名前が書かれている。
「これも、手作りか?」
「もちろんです! それだけじゃありませんよ?」
湊は、いたずらっぽく笑う。
「そのお守りには、最新のテクノロジーが詰まってるんです。せんぱいがゴールに近づくと、僕のスマホにだけ通知が来るようになってます。だから、せんぱいが一番輝く瞬間を、僕は絶対に見逃しません!」
「……それ、ストーカーじゃ」
「愛ですよ、愛!」
彼女はきっぱりと言い切った。そして、俺の耳元で囁く。
「明日は、僕のために一位になってくださいね? そしたら、ご褒美……期待してていいですから」
その甘い誘惑に、俺の心臓はまたしても不規則に跳ねた。

玲、葵、湊が部屋でわいわいと騒いでいると、俺はふと、ドアが少しだけ開いていることに気づいた。そして、その隙間から、こちらを窺う黒髪が見え隠れしている。雅だ。
俺は、三人に気づかれないようにそっと部屋を抜け出し、廊下に出た。案の定、彼女はドアの横で、壁に寄りかかって俯いていた。
「……雅?」
俺が声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねた。
「……な、なんだ」
「どうしたんだ? 入ってこないのか?」
「……別に。うるさそうだったからな」
彼女は、そっぽを向いたままそう言った。その手には、小さな紙袋が握られている。
「それ、どうしたんだ?」
「……これか?」
彼女は、まるで今気づいたかのように、自分の手元に視線を落とした。
「……別に、お前のために作ったわけじゃない」
またそのセリフだ。
「……たまたま、作りすぎただけだ。腹が減ったら、食え」
そう言って、彼女は紙袋を俺にぐいっと押し付けてきた。中を覗くと、ナッツやドライフルーツがぎっしり詰まった、手作りのエナジーバーが数本入っている。
「サンキュ。美味そうだな」
「……ふん」
彼女は、それだけ言うと、くるりと踵を返して自分の部屋の方へと歩き去っていった。その歩き方は、いつもより少しだけ早足だった。

部屋に戻ると、玲たちが「どこに行っていたの?」と少しだけ拗ねた顔で俺を見ていた。俺は苦笑しながら、四人からもらった「お守り」を机の上に並べてみる。
玲の、心のこもった刺繍ハンカチ。
葵の、情熱が込められたミサンガ。
湊の、愛とテクノロジーが詰まったお守り。
そして、雅の、不器用な優しさが詰まったエナジーバー。

彼女たちの想いが、ずっしりと重い。
俺は、一人じゃない。こんなにも、俺のことを想ってくれる仲間がいる。
「……負けられないな」
俺の呟きは、誰に聞かれるでもなく、部屋の空気に溶けていった。
明日は、俺の人生で最高の一日にしてやろう。この四人の勝利の女神たちと共に。
俺は、静かに、しかし力強く、拳を握りしめた。決戦の朝は、もうすぐそこまで迫っていた。
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