この男子校の生徒が自分以外全員男装女子だということを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第65話 【準備③】玲の完璧なエスコート

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接客練習が始まって数日。葵のドジは少しずつ減り、湊のあざとさは絶妙なバランスを保つようになり、雅でさえカタコトながらも「……いらっしゃいませ」と言えるようになっていた。クラス全体の練度が上がり、執事喫茶の完成度は日に日に高まっていく。

その中でも、橘玲の成長は目覚ましかった。いや、彼女の場合は成長というよりもはや解放と呼ぶべきかもしれない。
元々完璧だった彼女の所作は練習を重ねるごとにさらに磨きがかかっていった。お辞儀の角度、紅茶を注ぐタイミング、メニューを差し出す指先の角度に至るまで、全てが計算され尽くした芸術の域に達している。

彼女はプロデューサーが作り上げた『孤高のパーフェクトプリンス執事』というキャラクターを完全に自分のものにしていた。クラスメイトがお客様役の時は常にクールで隙のない完璧な執事を演じる。その姿は本物の貴族に仕える執事そのもので、練習を見守る生徒たちからは毎回のように感嘆のため息が漏れた。

だが、その完璧な執事は、お客様役が俺になった時だけほんの少しだけその仮面を緩めるのだ。

「お帰りなさいませ、ご主人様」
その日も俺はお客様役として練習用の席に座っていた。玲が優雅な足取りで俺の元へとやってくる。その表情は他の生徒に見せるクールなものと何ら変わりはない。
だが、俺の隣に立った瞬間、彼女は他の誰にも聞こえないような甘い囁き声で俺の耳元に言葉を紡いだ。

「……やっと会えましたね。今日一日、あなたのことばかり考えていましたよ」

その練習にはないアドリブに、俺の心臓がどきりと音を立てる。俺が驚いて彼女の顔を見ると、彼女は悪戯っぽくふふっと微笑んだ。その笑顔は他の誰にも見せない、俺だけの共犯者としての笑顔だった。

彼女の特別サービスはそれだけでは終わらない。
俺が紅茶を注文すると、彼女は美しい所作でティーカップを俺の前に置いた。そしてポットから紅茶を注ぐ、その時。
「ご主人様」
「ん?」
「……今日の紅茶は、いつもより少しだけ甘くしておきました。……僕の、気持ちです」
そう言って彼女は俺の瞳をじっと見つめてきた。その潤んだ紫色の瞳は冗談を言っているようには見えない。俺は、その視線に耐えきれず顔を赤らめて俯いてしまった。

俺が照れ隠しにカップに口をつけようとすると、彼女は「ああ、お待ちください」と言って俺の手をそっと制した。
「まだ熱いかもしれません。……僕が、冷まして差し上げます」
そう言うと、彼女は俺のカップにそっと顔を近づけ、その小さな唇でふー、ふー、と優しく息を吹きかけ始めた。
そのあまりにも親密で、あまりにも扇情的な光景に俺の思考は完全に停止した。周りで見ているクラスメイトたちも、まさかそんなアドリブが飛び出すとは思っていなかったのだろう。教室は水を打ったように静まり返っている。

「……どうぞ。これならもう大丈夫ですよ」
玲は満足そうに微笑むと、カップを俺の前に差し出した。
俺は震える手でそのカップを受け取り、一口飲む。紅茶の味など、もはや全く分からなかった。ただ、彼女の甘い吐息がまだカップの縁に残っているような気がして、全身が熱くなるのを感じた。

「橘君! あなた、天才よ!」
沈黙を破ったのはプロデューサーの絶叫だった。
「今の! 今の最高だったわ! お客様のカップを冷ましてあげる執事なんて聞いたことない! その発想、いただきよ!」
どうやら玲の俺に対する特別サービスは、公式の接客マニュアルに採用されることになったらしい。とんでもないことになった。

練習が終わり、放課後。俺と玲は二人きりで部屋に戻っていた。
「……おい、玲。今日のあれ、なんだったんだよ」
俺が少しだけ責めるような口調で言うと、彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「あれ、とは?」
「とぼけるなよ! 紅茶のやつだよ! あんなの心臓に悪いだろ!」

俺の言葉に、玲はくすくすと楽しそうに笑った。
「あら、嫌でしたか?」
「嫌とか、そういう問題じゃ……!」
「僕は、楽しかったですよ」
彼女はそう言って俺の目の前に立つと、俺のネクタイをそっと指先でなぞった。
「祐樹が僕だけを見て、ドキドキしている。……その顔が、たまらなく愛おしくて」

そのあまりにもストレートな言葉に、俺は完全に言葉を失った。
彼女は俺の反応を楽しんでいたのだ。俺が彼女に振り回される姿を見て、優越感に浸っていたのだ。
だが、その瞳の奥には確かな愛情の色が宿っている。それはただの悪戯ではない。彼女なりの不器用で、少しだけ大胆な愛情表現なのだ。

「……本番では、ほどほどにしてくれよ」
俺がなんとかそれだけ絞り出すと、彼女は「善処します」とだけ言って妖艶に微笑んだ。その笑顔は全く信用できなかった。

玲の完璧なエスコートはもはや接客練習の域を超え、俺と彼女だけの甘くて危険なゲームと化していた。
文化祭本番、俺は果たしてこのパーフェクトプリンス執事の甘い誘惑から逃れることができるのだろうか。
俺は今からそのことが心配で、そして少しだけ楽しみでならなかった。
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