この男子校の生徒が自分以外全員男装女子だということを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第88話 玲の夢

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三者面談が突きつけた卒業という名の冷たい現実。それは俺たちの心に重い影を落としていた。特に家の束縛という明確な壁を前にした玲と葵の表情は、日に日に曇っていくようだった。

そんなある日の夜。俺の部屋で、玲が珍しく分厚い法律関係の専門書を読んでいた。その横顔は文化祭の準備をしていた時のような輝きはなく、何か大きな決断を前にしたかのような悲壮な覚悟に満ちている。
「……玲。何を読んでるんだ?」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その紫色の瞳は、深く静かな光を宿している。

「……会社法よ。橘家の、ね」
彼女はそう言って小さく息をついた。
「三者面談の後、ずっと考えていたの。私の未来について」
その声は震えていなかった。むしろ驚くほど落ち着いている。

「今までの私は、ただ逃げているだけだった。家の束縛から、親が決めた人生からただ逃げ出して、この学園という鳥かごの中で自由を夢見ていただけ。……でも、それだけじゃ何も変わらない」
彼女は本をぱたんと閉じた。そして俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。

「私、決めたの」
「え……?」
「卒業したら私は橘の家に帰るわ。そして、当主になる」

そのあまりにも予想外の言葉に、俺は息をのんだ。
「当主って……! だって、お前はそれが嫌で……!」
「ええ。嫌だったわ。でも逃げているだけでは、いつまで経っても私は籠の中の鳥のまま。……だから、戦うことにしたの」

彼女の瞳に強い光が宿る。それは体育祭のリレーでアンカーとして走っていた時の、あの闘志に満ちた光だった。
「私が当主になって、あの一族を内側から変えてみせる。古臭いしきたりも、政略結婚なんていう馬鹿げた慣習も、全部私の代で終わらせる。……女だからって、誰かの言いなりになる人生なんて、もううんざりなのよ」

その言葉はもはやお嬢様の戯言ではなかった。一人の人間が自らの運命をその手で切り開こうとする、力強い決意表明だった。
俺は何も言えずに、ただ彼女の言葉に聞き入っていた。

「……怖いわ。正直、とても怖い。私一人で、あんな巨大な一族に立ち向かえるのかって」
彼女は一瞬だけ弱々しい表情を見せた。だがすぐ、ふわりと優しい笑みを浮かべる。
「でもね、祐樹。……あなたがいるから、私は強くなれたのよ」

「……俺が?」
「ええ。あなたが私の全てを受け入れてくれたから。私の弱いところも、ダメなところも全部知った上で、『玲は玲のままでいい』って言ってくれたから。……だから私は、本当の自分でいることに自信が持てたの」

彼女はそっと俺の手に自分の手を重ねた。その手はもう震えていない。温かくて力強い。
「あなたがくれたこの強さがあれば、きっとどんな運命にだって立ち向かえる。……私、そう信じてる」

彼女のあまりにも真っ直ぐで、あまりにも強い想い。
俺は胸が熱くなるのを感じた。
俺は特別なことは何もしていない。ただ彼女の隣にいただけだ。
でも、そのことが彼女にこれほどの力を与えていたなんて。

「……すごいよ、玲。お前は本当に強いな」
俺が心の底からの賞賛を告げると、彼女は少しだけ照れくさそうに頬を染めた。
「……まだ強くなんてないわ。これから強くなるのよ。……あなたに相応しい人間になるためにね」
その最後の一言はほとんど囁きに近かった。だが、その言葉に込められた意味を俺が聞き逃すはずもなかった。

家の束縛からただ逃れるのではない。
その運命を受け入れ、自らの手で未来を切り開く道を選ぶ。
それは茨の道かもしれない。だが彼女の瞳には一切の迷いはなかった。

「……だから、祐忌」
彼女は俺の手をぎゅっと強く握りしめた。
「……見ていてくれる? 私が私の夢を叶えるまで」
その問いは懇願だった。そして何よりも強い信頼の証だった。

「ああ。もちろん、見てるよ」
俺は力強く頷いた。
「ずっと、お前の隣で」

俺のその言葉に、彼女は心の底から安心したように最高の笑顔を見せた。
それは完璧な王子様でも、甘えん坊な女の子でもない。
一人の人間として自らの未来へと歩き出す、橘玲という強く美しい女性の始まりの笑顔だった。
俺は、その笑顔を一生かけて守り抜きたいと心からそう思った。
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