この男子校の生徒が自分以外全員男装女子だということを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第89話 葵の挑戦

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玲が自らの運命と戦うという大きな決意を固めた夜。その静かで、しかし熱い覚悟は俺たちの間にも確かな影響を与えていた。特に玲と同じように家の束縛という重い鎖に繋がれていた葵の心には、大きな波紋を広げていたようだった。

三者面談以来、葵はどこか元気がなかった。得意のスポーツに打ち込んでいる時でさえ、その笑顔には時折諦めにも似た影が差していた。「卒業したら、跡取りの嫁になる」。その決定事項が彼女から太陽のような輝きを奪いつつあったのだ。

そんなある日の放課後。俺は一人でグラウンドの隅にあるベンチに座り、自主練習に励む葵の姿を眺めていた。彼女は黙々と、何かに取り憑かれたかのように走り込みを繰り返している。その背中はどこか悲壮感さえ漂っていた。

練習を終えた彼女は、汗だくのまま俺の隣にどかりと腰を下ろした。
「……よお、祐樹。見てたのかよ」
「お疲れ、葵。相変わらずすごい走りだな」
俺がペットボトルのお茶を差し出すと、彼女は「サンキュ」と短く言ってそれを一気に飲み干した。

しばらく二人の間に沈黙が流れる。夕暮れのグラウンドに、他の運動部員たちの掛け声だけが響いていた。
「……なあ、祐樹」
先に口を開いたのは葵だった。
「俺さ、玲のこと、すげえなって思うんだ」
「え?」
「あいつ、ちゃんと自分の道決めやがった。逃げるんじゃなくて、戦うってよ。……俺には、そんな勇気ねえや」
彼女は自嘲するように力なく笑った。その横顔はいつもの自信に満ち溢れた彼女とはまるで別人だった。

「家の跡取りの嫁になる。……それが俺の運命なんだとよ。女に生まれたから、ってだけでな」
彼女は地面の石をつま先で蹴りながら、吐き捨てるように言った。
「俺、ずっとそれが嫌だった。男尊女卑の、クソみてえな家のしきたりが。だからここに来たんだ。男として自分の力だけでどこまでやれるか、試したかった」

彼女の瞳に悔し涙が滲んでいる。
「でも結局、何も変わらなかった。卒業したらまたあの鳥かごに戻るだけだ。……俺のこの三年間は、一体何だったんだろうな」
その声は震えていた。俺はかけるべき言葉が見つからず、ただ黙って彼女の肩をポンと軽く叩いた。

「……諦めるのか?」
俺は静かに、しかし真っ直ぐに彼女の目を見て尋ねた。
「お前が本当にやりたいことは、家の跡取りの嫁になることなのか?」

俺の問いに、葵ははっとしたように顔を上げた。そして堰を切ったようにその想いを吐き出した。
「違う! 当たり前だろ! 俺は……俺はスポーツがしたいんだ! 自分の限界に挑戦したい! 男とか女とか、そんなの関係ねえ世界で、ただ五十嵐葵として、正々堂々勝負がしたいんだよ!」

その叫びは彼女の魂の叫びだった。
俺は力強く頷いた。
「……なら、やればいいじゃないか」
「……え?」
「諦めるなよ、葵。お前の夢、俺は応援するぜ」

俺のそのあまりにも単純で、あまりにも無責任な言葉。
だがその言葉は、絶望の淵にいた彼女の心に確かな光を灯したようだった。
「……でも、どうやって。女だってバレたら、スポーツ界じゃ……」
「バレたらいいじゃないか」
俺はきっぱりと言った。
「お前は女だろ? それを隠す必要なんてどこにもない。むしろ、それを武器にしろよ」

俺の言葉に、葵は呆然としていた。
「女であることをカミングアウトして、それでも男たちと同じ土俵で戦う。……それって、めちゃくちゃかっこいいことじゃないか? お前ならできる。俺はそう信じてるぜ」

俺は彼女の目を見て、にっと笑った。
それはいつも彼女が俺に見せてくれる太陽のような笑顔を真似てみただけの、ぎこちない笑顔だったかもしれない。
だがその笑顔は、彼女の心を動かすには十分だった。

葵はしばらくの間何も言わずに俺の顔をじっと見つめていた。その瞳の中で、葛藤と希望が激しく渦巻いている。
やがて彼女の目から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
だがそれは絶望の涙ではなかった。

「……そっか」
彼女は制服の袖で乱暴に涙を拭うと、顔を上げた。その顔にはもう迷いの色はなかった。
そこには俺が知っている、あの太陽のような最高の笑顔が戻っていた。

「……そうだよな! 俺は俺だ! 女だからって諦める必要なんて、どこにもねえよな!」
彼女はすっくと立ち上がった。その姿はまるで雨上がりの空に架かる大きな虹のように、力強くそして美しかった。

「決めたぜ、祐樹! 俺、やるわ!」
彼女の瞳に再び闘志の炎が燃え上がる。
「卒業したら全部カミングアウトしてやる! そして女子スポーツ界の歴史を変える! 俺がその先駆者になってやるんだ!」

それはあまりにも大きく、そして無謀ともいえる挑戦だった。
だが彼女のその表情を見れば、それが決して夢物語ではないことが分かった。

「……お前が応援してくれるなら」
彼女は少しだけ照れくさそうに、俺に向かって手を差し出してきた。
「……俺、なんだってできる気がする!」

そのどこまでもストレートで、力強い言葉。
俺は、その手を強く、強く握り返した。
「ああ。当たり前だろ」
俺たちは夕暮れのグラウンドで、固い、固い握手を交わした。

玲の『革命』と、葵の『挑戦』。
俺のかけがえのない共犯者たちは、それぞれのやり方で自らの運命に立ち向かおうとしていた。
俺はそんな彼女たちの姿をただただ誇らしく思った。
そして、彼女たちの夢が叶うその日まで、何があってもその一番近くで支え続けようと心に誓ったのだった。
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