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第91話 雅の道
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玲、葵、湊。三人がそれぞれ卒業後の大きな夢を語り、未来へと力強く歩き出す決意を固めた。その眩しい姿は俺たちの小さなコミュニティに、希望と、そしてほんの少しの焦りをもたらしていた。
残されたのは、九条雅だ。
彼女は三人の壮大な夢の話をいつも黙って聞いていた。その表情からは何を考えているのか読み取ることはできない。だが俺には分かっていた。彼女のその静かな瞳の奥で、誰よりも激しく心が揺れ動いていることを。
彼女の抱える問題は、玲や葵の家の束縛とも、湊の才能故の孤独とも違う。裏社会に生きる一族。その後継者問題。それはあまりにも異質で、血の匂いがする危険な世界だった。
彼女にとってこの学園はただのシェルターではない。血塗られた運命から逃れるための唯一の聖域だったのだ。卒業は、その聖域を失い再びあの世界へと引き戻されることを意味していた。
三者面談の後、彼女は以前にも増して口数が少なくなった。一人でいる時間が増え、時折遠くを見つめては深いため息をついている。その背中は今にも消えてしまいそうなくらい儚く見えた。
ある日の放課後。俺は雅が世話をしているあの中庭の花壇の前にいた。彼女が丹精込めて育てた花々が、秋の柔らかな日差しを浴びて色鮮やかに咲き誇っている。
その花壇の横で、雅はいつもの子猫を膝に乗せ、その背中を優しく撫でていた。その光景は一枚の絵画のように美しく、そしてどこか切なかった。
「……雅」
俺が静かに声をかけると、彼女の肩がびくりと揺れた。
「……なんだ」
「……話、聞くぜ」
俺は余計な前置きはしなかった。ただ彼女の隣にゆっくりと腰を下ろす。
彼女は何も言わなかった。ただ黙って膝の上の子猫を撫で続けている。
沈黙が流れた。だがその沈黙は苦痛ではなかった。俺は彼女が口を開くまで、ただ待つつもりだった。
「……夢なんて、ない」
やがて彼女が、ぽつりと吐き出すように呟いた。
「私には選ぶ道なんて最初からないんだ。……卒業したら、私は家に戻らなければならない。そして、一族の道具になる」
その声は感情が抜け落ちたように平坦だった。
「……跡目を継ぐか、あるいは有力な組長の元へ嫁がされるか。……どちらにしても地獄だ」
彼女は自嘲するようにふっと笑った。その笑顔はあまりにも悲しくて、俺は胸が締め付けられる思いだった。
「玲や、葵や、湊はすごいな。……ちゃんと前を向いてる。……私にはそんな強さはない」
俺は何も言えなかった。
彼女の背負う闇は、俺の想像を遥かに超えて深く、そして重い。
どんな言葉も安っぽく聞こえてしまいそうだった。
俺は彼女の隣でただ黙って空を見上げた。
秋の空はどこまでも高く、青く澄み渡っている。
「……覚えてるか?」
俺は静かに語りかけた。
「俺が風邪で倒れた時のこと」
「……?」
「あの時、お前、俺に粥を作ってくれただろ。……あと、雨の日に子猫を助けた時のことも」
俺の言葉に、雅の瞳がわずかに揺れた。
「お前は強いよ、雅」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「お前は自分が思っているよりもずっと強くて、優しい人間だ。……誰かのために必死になれる人間だ」
俺は膝の上で丸くなる子猫に視線を移した。
「……獣医になりたいって、言ってただろ」
その言葉に、彼女の身体が大きく震えた。
それは夏休みの夜、線香花火をしながら彼女がぽつりと夢のように語ってくれた、誰にも言ったことのない彼女だけのささやかな夢だった。
『……弱いものを、声なきものを、救えるような人間に、なりたい』
「……そんなの、無理だ」
彼女は顔を伏せたまま、か細い声で言った。
「私みたいな血に塗れた人間が、命を救う仕事なんて……できるはずがない」
「できるさ」
俺はきっぱりと言った。
「お前ならできる。俺が保証する」
俺はそっと手を伸ばし、彼女の震える肩を優しく抱き寄せた。
「……逃げろよ、雅」
「……え?」
「家からも運命からも、全部捨てて逃げろ。そしてお前の生きたいように生きろよ」
俺の言葉は無責任で、あまりにも無謀な提案だったかもしれない。
だが俺は本気でそう思っていた。
「……お前が、夢を諦めるなと言ったからだ」
彼女の顔がゆっくりと上がる。その瞳には涙が溢れていた。だがその涙は絶望の色ではなかった。
「……私がもし、逃げたら」
「ああ」
「……お前も、一緒に来てくれるか……?」
その問いは彼女の生まれて初めてのわがままだったのかもしれない。
俺は一瞬たりとも迷わなかった。
「当たり前だろ」
俺は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「どこへだって一緒に行くよ」
俺のその言葉に、彼女はついに堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
俺の胸に顔をうずめ、子供のようにわんわんと。
それは彼女がずっと心の奥底に閉じ込めてきた弱さと、そして未来への小さな希望の叫びだった。
獣医になる。
そのあまりにもささやかで、しかし彼女にとってはあまりにも遠かった夢。
その夢を彼女はこの日、もう一度その胸に強く、強く抱きしめた。
「……お前が、夢を諦めるなと言ったからだ」
後日。彼女は照れくさそうに、しかしどこか誇らしげにそう言って、俺に大学のパンフレットを見せてくれた。
その不器用な感謝の言葉に、俺はただ優しく微笑み返すことしかできなかった。
玲の『革命』、葵の『挑戦』、湊の『創造』、そして雅の『逃亡』。
四者四様のそれぞれの道。
その全てが眩しくて、そして愛おしかった。
残されたのは、九条雅だ。
彼女は三人の壮大な夢の話をいつも黙って聞いていた。その表情からは何を考えているのか読み取ることはできない。だが俺には分かっていた。彼女のその静かな瞳の奥で、誰よりも激しく心が揺れ動いていることを。
彼女の抱える問題は、玲や葵の家の束縛とも、湊の才能故の孤独とも違う。裏社会に生きる一族。その後継者問題。それはあまりにも異質で、血の匂いがする危険な世界だった。
彼女にとってこの学園はただのシェルターではない。血塗られた運命から逃れるための唯一の聖域だったのだ。卒業は、その聖域を失い再びあの世界へと引き戻されることを意味していた。
三者面談の後、彼女は以前にも増して口数が少なくなった。一人でいる時間が増え、時折遠くを見つめては深いため息をついている。その背中は今にも消えてしまいそうなくらい儚く見えた。
ある日の放課後。俺は雅が世話をしているあの中庭の花壇の前にいた。彼女が丹精込めて育てた花々が、秋の柔らかな日差しを浴びて色鮮やかに咲き誇っている。
その花壇の横で、雅はいつもの子猫を膝に乗せ、その背中を優しく撫でていた。その光景は一枚の絵画のように美しく、そしてどこか切なかった。
「……雅」
俺が静かに声をかけると、彼女の肩がびくりと揺れた。
「……なんだ」
「……話、聞くぜ」
俺は余計な前置きはしなかった。ただ彼女の隣にゆっくりと腰を下ろす。
彼女は何も言わなかった。ただ黙って膝の上の子猫を撫で続けている。
沈黙が流れた。だがその沈黙は苦痛ではなかった。俺は彼女が口を開くまで、ただ待つつもりだった。
「……夢なんて、ない」
やがて彼女が、ぽつりと吐き出すように呟いた。
「私には選ぶ道なんて最初からないんだ。……卒業したら、私は家に戻らなければならない。そして、一族の道具になる」
その声は感情が抜け落ちたように平坦だった。
「……跡目を継ぐか、あるいは有力な組長の元へ嫁がされるか。……どちらにしても地獄だ」
彼女は自嘲するようにふっと笑った。その笑顔はあまりにも悲しくて、俺は胸が締め付けられる思いだった。
「玲や、葵や、湊はすごいな。……ちゃんと前を向いてる。……私にはそんな強さはない」
俺は何も言えなかった。
彼女の背負う闇は、俺の想像を遥かに超えて深く、そして重い。
どんな言葉も安っぽく聞こえてしまいそうだった。
俺は彼女の隣でただ黙って空を見上げた。
秋の空はどこまでも高く、青く澄み渡っている。
「……覚えてるか?」
俺は静かに語りかけた。
「俺が風邪で倒れた時のこと」
「……?」
「あの時、お前、俺に粥を作ってくれただろ。……あと、雨の日に子猫を助けた時のことも」
俺の言葉に、雅の瞳がわずかに揺れた。
「お前は強いよ、雅」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「お前は自分が思っているよりもずっと強くて、優しい人間だ。……誰かのために必死になれる人間だ」
俺は膝の上で丸くなる子猫に視線を移した。
「……獣医になりたいって、言ってただろ」
その言葉に、彼女の身体が大きく震えた。
それは夏休みの夜、線香花火をしながら彼女がぽつりと夢のように語ってくれた、誰にも言ったことのない彼女だけのささやかな夢だった。
『……弱いものを、声なきものを、救えるような人間に、なりたい』
「……そんなの、無理だ」
彼女は顔を伏せたまま、か細い声で言った。
「私みたいな血に塗れた人間が、命を救う仕事なんて……できるはずがない」
「できるさ」
俺はきっぱりと言った。
「お前ならできる。俺が保証する」
俺はそっと手を伸ばし、彼女の震える肩を優しく抱き寄せた。
「……逃げろよ、雅」
「……え?」
「家からも運命からも、全部捨てて逃げろ。そしてお前の生きたいように生きろよ」
俺の言葉は無責任で、あまりにも無謀な提案だったかもしれない。
だが俺は本気でそう思っていた。
「……お前が、夢を諦めるなと言ったからだ」
彼女の顔がゆっくりと上がる。その瞳には涙が溢れていた。だがその涙は絶望の色ではなかった。
「……私がもし、逃げたら」
「ああ」
「……お前も、一緒に来てくれるか……?」
その問いは彼女の生まれて初めてのわがままだったのかもしれない。
俺は一瞬たりとも迷わなかった。
「当たり前だろ」
俺は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「どこへだって一緒に行くよ」
俺のその言葉に、彼女はついに堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
俺の胸に顔をうずめ、子供のようにわんわんと。
それは彼女がずっと心の奥底に閉じ込めてきた弱さと、そして未来への小さな希望の叫びだった。
獣医になる。
そのあまりにもささやかで、しかし彼女にとってはあまりにも遠かった夢。
その夢を彼女はこの日、もう一度その胸に強く、強く抱きしめた。
「……お前が、夢を諦めるなと言ったからだ」
後日。彼女は照れくさそうに、しかしどこか誇らしげにそう言って、俺に大学のパンフレットを見せてくれた。
その不器用な感謝の言葉に、俺はただ優しく微笑み返すことしかできなかった。
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