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第10話 敵からの治癒魔法
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時間が止まっていた。
私の思考も、戦場の空気も、何もかもが凍りついたかのように静止している。
目の前の光景が、現実のものとして受け入れられない。血を流し、膝をつく勇者の姿。彼が私を庇ったという、信じがたい事実。
「……なぜ」
私の唇から、か細い疑問が漏れた。
それは誰に問いかけるでもない、魂からの呟きだった。
なぜ、私を助けたの。
その問いに答える者はない。アルフレッドは苦しげに息を整え、ゆっくりと顔を上げた。その空色の瞳が、まっすぐに私を捉える。瞳の奥に宿る光は、傷を負ってもなお、少しも揺らいでいなかった。
やがて、止まっていた戦場の時間が動き出す。
「勇者様が負傷されたぞ!」「なんてことだ!」「あの魔女を庇ったというのか!?」
人間たちの動揺する声が聞こえる。
「リディア様、ご無事ですか!」「あの勇者、一体何を……」
私の配下たちの困惑した声も耳に届いた。
しかし、私の意識はただ一点、目の前の男にだけ注がれていた。
アルフレッドは自分の傷を気にする素振りも見せず、傍らの聖剣を支えにゆっくりと立ち上がった。その足取りは僅かに覚束ないが、彼の意志を挫くには至らないようだ。
そして、彼は私に向かって一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
「来ないで……!」
私は反射的に身構え、後ずさった。今の彼なら、隙だらけだ。魔法の一撃でも放てば、今度こそ確実に仕留められる。頭ではそう分かっているのに、私の体は動かなかった。魔力を練り上げることすらできない。
彼が私を庇った。その事実が、見えない楔となって私の全身を縫い止めていた。
アルフレッドは私の数歩手前で立ち止まると、痛みに耐えるように僅かに顔を歪めた。だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。その視線は、私の顔に向けられていた。正確には、爆風で僅かに切れた私の頬の、小さな掠り傷に。
「大丈夫かい、リディア。怪我はないか?」
彼の声は、自分のことなど欠片も意に介していない、純粋な気遣いに満ちていた。
「……あなたの、心配など……」
私は反発しようとした。けれど、声が震えて言葉にならない。血を流しているのはあなたの方でしょう。なぜ、私の心配などするの。
彼は私の返事を待たず、傷ついていない方の左手を、ゆっくりと私の頬に伸ばしてきた。
私は咄嗟に身を引こうとしたが、彼の真摯な瞳に見据えられ、金縛りにあったように動けなかった。
彼の指先が、私の頬に触れるか触れないかの距離で止まる。そこから、温かく、そしてどこまでも優しい光が溢れ出した。
治癒魔法。
神聖な力が、私の体を包み込む。
頬の傷が、腕にできた擦り傷が、ちりちりとした微かな痛みと共に癒えていく。光が消える頃には、私の肌には傷跡一つ残っていなかった。
「…………っ」
私は息を呑んだ。
温かい。彼の魔法は、ただ傷を癒すだけでなく、凍てついていた私の心の奥まで温めていくような、不思議な感覚があった。
私は弾かれたように彼の顔を見上げた。そして、耐えきれずに叫んでいた。
「なぜ……! なぜ自分の傷を治さないのよ! あなたの方が、重傷じゃない!」
私の問いに、アルフレッドは心底おかしそうに、ふっと微笑んだ。その笑顔は、傷の痛みなど微塵も感じさせないほど、穏やかで、そして力強かった。
「君に、傷一つつけさせない」
彼は静かに、しかしはっきりと告げた。
「初めて会った日、僕はそう誓ったからね。僕の誓いに比べたら、これくらいの傷、どうってことないさ」
その言葉が、雷のように私の胸を貫いた。
誓い。彼は、そんな誓いを立てていたというのか。敵である私に対して。
私の心の中に、今まで感じたことのない感情が、奔流となって流れ込んできた。
それは、魔王様への忠誠心とは全く違う。ガレスやレヴィに向ける仲間意識とも異なる。もっと個人的で、もっと根源的で、そしてどうしようもなく胸を締め付ける、甘い痛み。
これが、なんなのか、私には分からなかった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
私の世界は、今この瞬間、音を立てて変わり始めていた。
「……馬鹿じゃないの」
ようやく絞り出した私の声は、震えていた。
「あなたは、本当に……どうしようもない、お人好しの、大馬鹿よ……」
「ははは、よく言われるよ」
彼は悪びれもなく笑った。その屈託のなさが、今は憎らしいよりも、眩しく見えた。
この異常事態に、戦いは完全に止まっていた。
私に奇襲をかけた人間たちの部隊は、勇者を負傷させた張本人として、他の兵士たちから厳しい視線と非難を浴び、完全に孤立している。もはや、どちらの軍も戦意を喪失していた。
「リディア様!」
側近が、ようやく私の傍まで駆け寄ってくる。彼は私とアルフレッドの間に割って入るように立ち、警戒を露わにした。
アルフレッドはそれを見て、静かに言った。
「今日はもう終わりにしよう。君も、僕も、これ以上戦うべきじゃない」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
もう、彼に魔法を向けることなど、できそうになかったから。
私はアルフレッドに背を向けた。彼の顔を、これ以上見ていられなかった。
「……撤退するわ」
私は部下たちに、かろうじてそれだけを告げた。
魔族たちが、戸惑いながらも命令に従い、撤退の準備を始める。
私が転移魔法を発動させようとした、その時。
「リディア」
背後から、彼の優しい声がかけられた。
「その傷、大事にしてくれよ」
私は振り返らなかった。振り返れなかった。
彼が癒してくれた傷は、もうどこにもない。けれど、私の心には、彼の優しさが、温もりが、消えない傷跡のように、はっきりと刻み付けられていた。
◇
魔王城の自室に戻った私は、鏡の前に立っていた。
鏡に映る自分の頬には、傷一つない。けれど、私は無意識に、彼が触れようとした場所にそっと指先で触れていた。
まだ、彼の魔法の温もりが残っているような気がした。
「アルフレッド……」
ぽつり、と。
自分の唇から、彼の名前が零れ落ちた。
私はハッとして、慌てて自分の口を手で覆う。
違う。彼は敵だ。
私を庇ったのも、治癒魔法をかけたのも、全ては私を油断させるための策略に違いない。そうに決まっている。
そう必死に自分に言い聞かせても、心臓は主の意思に反して、トクン、トクンと優しいリズムを刻み続けていた。
それは、今まで私が知らなかった、新しい感情の芽生え。
その感情の名を、私はまだ、知らなかった。
私の思考も、戦場の空気も、何もかもが凍りついたかのように静止している。
目の前の光景が、現実のものとして受け入れられない。血を流し、膝をつく勇者の姿。彼が私を庇ったという、信じがたい事実。
「……なぜ」
私の唇から、か細い疑問が漏れた。
それは誰に問いかけるでもない、魂からの呟きだった。
なぜ、私を助けたの。
その問いに答える者はない。アルフレッドは苦しげに息を整え、ゆっくりと顔を上げた。その空色の瞳が、まっすぐに私を捉える。瞳の奥に宿る光は、傷を負ってもなお、少しも揺らいでいなかった。
やがて、止まっていた戦場の時間が動き出す。
「勇者様が負傷されたぞ!」「なんてことだ!」「あの魔女を庇ったというのか!?」
人間たちの動揺する声が聞こえる。
「リディア様、ご無事ですか!」「あの勇者、一体何を……」
私の配下たちの困惑した声も耳に届いた。
しかし、私の意識はただ一点、目の前の男にだけ注がれていた。
アルフレッドは自分の傷を気にする素振りも見せず、傍らの聖剣を支えにゆっくりと立ち上がった。その足取りは僅かに覚束ないが、彼の意志を挫くには至らないようだ。
そして、彼は私に向かって一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
「来ないで……!」
私は反射的に身構え、後ずさった。今の彼なら、隙だらけだ。魔法の一撃でも放てば、今度こそ確実に仕留められる。頭ではそう分かっているのに、私の体は動かなかった。魔力を練り上げることすらできない。
彼が私を庇った。その事実が、見えない楔となって私の全身を縫い止めていた。
アルフレッドは私の数歩手前で立ち止まると、痛みに耐えるように僅かに顔を歪めた。だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。その視線は、私の顔に向けられていた。正確には、爆風で僅かに切れた私の頬の、小さな掠り傷に。
「大丈夫かい、リディア。怪我はないか?」
彼の声は、自分のことなど欠片も意に介していない、純粋な気遣いに満ちていた。
「……あなたの、心配など……」
私は反発しようとした。けれど、声が震えて言葉にならない。血を流しているのはあなたの方でしょう。なぜ、私の心配などするの。
彼は私の返事を待たず、傷ついていない方の左手を、ゆっくりと私の頬に伸ばしてきた。
私は咄嗟に身を引こうとしたが、彼の真摯な瞳に見据えられ、金縛りにあったように動けなかった。
彼の指先が、私の頬に触れるか触れないかの距離で止まる。そこから、温かく、そしてどこまでも優しい光が溢れ出した。
治癒魔法。
神聖な力が、私の体を包み込む。
頬の傷が、腕にできた擦り傷が、ちりちりとした微かな痛みと共に癒えていく。光が消える頃には、私の肌には傷跡一つ残っていなかった。
「…………っ」
私は息を呑んだ。
温かい。彼の魔法は、ただ傷を癒すだけでなく、凍てついていた私の心の奥まで温めていくような、不思議な感覚があった。
私は弾かれたように彼の顔を見上げた。そして、耐えきれずに叫んでいた。
「なぜ……! なぜ自分の傷を治さないのよ! あなたの方が、重傷じゃない!」
私の問いに、アルフレッドは心底おかしそうに、ふっと微笑んだ。その笑顔は、傷の痛みなど微塵も感じさせないほど、穏やかで、そして力強かった。
「君に、傷一つつけさせない」
彼は静かに、しかしはっきりと告げた。
「初めて会った日、僕はそう誓ったからね。僕の誓いに比べたら、これくらいの傷、どうってことないさ」
その言葉が、雷のように私の胸を貫いた。
誓い。彼は、そんな誓いを立てていたというのか。敵である私に対して。
私の心の中に、今まで感じたことのない感情が、奔流となって流れ込んできた。
それは、魔王様への忠誠心とは全く違う。ガレスやレヴィに向ける仲間意識とも異なる。もっと個人的で、もっと根源的で、そしてどうしようもなく胸を締め付ける、甘い痛み。
これが、なんなのか、私には分からなかった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
私の世界は、今この瞬間、音を立てて変わり始めていた。
「……馬鹿じゃないの」
ようやく絞り出した私の声は、震えていた。
「あなたは、本当に……どうしようもない、お人好しの、大馬鹿よ……」
「ははは、よく言われるよ」
彼は悪びれもなく笑った。その屈託のなさが、今は憎らしいよりも、眩しく見えた。
この異常事態に、戦いは完全に止まっていた。
私に奇襲をかけた人間たちの部隊は、勇者を負傷させた張本人として、他の兵士たちから厳しい視線と非難を浴び、完全に孤立している。もはや、どちらの軍も戦意を喪失していた。
「リディア様!」
側近が、ようやく私の傍まで駆け寄ってくる。彼は私とアルフレッドの間に割って入るように立ち、警戒を露わにした。
アルフレッドはそれを見て、静かに言った。
「今日はもう終わりにしよう。君も、僕も、これ以上戦うべきじゃない」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
もう、彼に魔法を向けることなど、できそうになかったから。
私はアルフレッドに背を向けた。彼の顔を、これ以上見ていられなかった。
「……撤退するわ」
私は部下たちに、かろうじてそれだけを告げた。
魔族たちが、戸惑いながらも命令に従い、撤退の準備を始める。
私が転移魔法を発動させようとした、その時。
「リディア」
背後から、彼の優しい声がかけられた。
「その傷、大事にしてくれよ」
私は振り返らなかった。振り返れなかった。
彼が癒してくれた傷は、もうどこにもない。けれど、私の心には、彼の優しさが、温もりが、消えない傷跡のように、はっきりと刻み付けられていた。
◇
魔王城の自室に戻った私は、鏡の前に立っていた。
鏡に映る自分の頬には、傷一つない。けれど、私は無意識に、彼が触れようとした場所にそっと指先で触れていた。
まだ、彼の魔法の温もりが残っているような気がした。
「アルフレッド……」
ぽつり、と。
自分の唇から、彼の名前が零れ落ちた。
私はハッとして、慌てて自分の口を手で覆う。
違う。彼は敵だ。
私を庇ったのも、治癒魔法をかけたのも、全ては私を油断させるための策略に違いない。そうに決まっている。
そう必死に自分に言い聞かせても、心臓は主の意思に反して、トクン、トクンと優しいリズムを刻み続けていた。
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