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第11話 潜入任務と王都の祝祭
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竜の顎渓谷から帰還して以来、私の日常は静かに狂い始めていた。
魔王城での生活は何も変わらない。訓練、作戦会議、そして魔王様への報告。しかし、その全てにおいて、私の意識の片隅には常にあの男の姿がちらついていた。
傷を負いながらも私を気遣った、彼の優しい声。
敵である私に、当たり前のようにかけられた治癒魔法の温もり。
「……馬鹿な男」
自室の窓辺に立ち、紫色の空を眺めながら、私は何度目か分からない呟きを漏らした。
あれは策略だ。私を懐柔し、魔王軍を内側から崩すための巧妙な罠に違いない。そう頭では理解しようと努めるのに、心がそれを頑なに拒絶する。私の心臓は、彼のことを思い出すたびに、主の意思に反してトクンと小さく跳ねるのだ。
このままでは駄目だ。このままでは、私は私でなくなってしまう。
あの男の幻影を振り払うには、別の何かに集中する必要があった。
「リディア。珍しいね、君が書庫にいるなんて」
不意に声をかけられ、私は我に返った。振り返ると、四天王「深淵」のレヴィが、面白そうな笑みを浮かべてそこに立っていた。
「レヴィ……。次の作戦のために、人間界の地理を再確認していただけよ」
「ほう。ずいぶんと熱心だ。まるで何かから逃げているみたいに見えるけど」
彼の見透かしたような言葉に、私の肩が微かに跳ねる。レヴィは私の動揺を見逃さず、さらに言葉を続けた。
「あの勇者に会ってから、君は少し変わった。以前の君なら、こんな風に思い悩むことはなかったはずだ」
「……気のせいよ」
「そうかな?」
彼は私の手元にある書物、王都ルクスの詳細な地図に視線を落とした。
「そろそろ、王都では建国を祝う大きな祭りが開かれる頃だね。そういう時、人間は最も油断する。情報収集にはうってつけの機会かもしれない」
その言葉は、まるで私に何かを示唆しているかのようだった。
そうだ。私が今すべきことは、部屋に籠って思い悩むことではない。魔王軍四天王として、任務を遂行することだ。
「……いい考えね。私が、その任務に当たるわ」
私はレヴィの提案に乗る形で、自ら任務に志願した。勇者のことなど考えている暇はない。そう自分に言い聞かせ、私は人間界への潜入準備を始めた。
◇
ルクス王国の首都、王都ルクシオン。
そこは、私が今まで見てきたどの人間の街よりも、活気と熱気に満ち溢れていた。建国祭の期間中は、街中が色とりどりの旗やリボンで飾られ、道には数え切れないほどの屋台が並んでいる。どこからともなく陽気な音楽が聞こえ、人々の楽しそうな笑い声が絶え間なく響き渡っていた。
私は魔力を完全に消し、黒髪を質素な紐で一つに束ねた。豪奢なドレスの代わりに、街で買った何の変哲もない旅人の服を身に纏う。これなら、私が魔王軍の幹部だと気づく者は誰もいないだろう。
初めて見る平和な光景に、私は戸惑いを隠せなかった。
魔王城で教えられてきた人間たちの姿。それは、欲望深く、争いを好み、同族さえ平気で貶める醜い生き物。だが、今私の目の前にいるのは、家族と笑い合い、友人と肩を組み、恋人と寄り添って歩く、ごく普通の人々だった。
香ばしい匂いに誘われて視線を向ければ、串に刺した肉を焼く屋台があった。甘い匂いの元を探せば、子供たちが綿菓子をねだって親に強請っている。そのどれもが、戦場しか知らない私にとっては、異世界の出来事のようだった。
これが、私が滅ぼそうとしている世界。
この笑顔を、私が奪おうとしているのか。
私の胸に、チクリと小さな痛みが走った。すぐに、その感傷を頭から追い出す。これは偽りの平和だ。この裏で、人間たちは我ら魔族を根絶やしにしようと画策している。騙されてはいけない。
私は情報収集という本来の目的を思い出し、王城の方角へと歩き始めた。民衆の士気、軍の警備体制、そして何より、勇者の動向。それを探るのが、今回の任務だ。
しかし、祭りの人混みは想像以上で、まっすぐ歩くことすらままならない。大通りは人で埋め尽くされ、私は何度も人にぶつかりながら、ゆっくりとしか進めなかった。
「わっ!」
誰かに強く背中を押され、私は前のめりによろめいた。群衆の中で足場を失い、転びそうになる。その時、ふと視界の先に、見覚えのある輝きを見つけた。
人垣の向こう。噴水のある広場で、数人の若者たちが談笑している。
その中心にいた人物に、私の目は釘付けになった。
太陽の光を弾く、金色の髪。
周囲の喧騒が嘘のような、穏やかで優しい笑顔。
アルフレッドだった。
しかし、その姿は、私が知っている彼とは全く違っていた。
純白の鎧ではなく、動きやすそうな白いシャツに、紺色の上着を羽織っただけの簡素な服装。いわゆる、私服というものだろうか。腰に聖剣はなく、彼はただの年頃の青年のように見えた。
彼の隣には、聖女イリーナの姿もある。彼女もまた、神官服ではなく、可愛らしいワンピース姿だ。彼らは他の仲間らしき若者たちと、屋台で買ったものを食べながら楽しそうに話している。
戦場での張り詰めた雰囲気はどこにもない。そこにあるのは、祭りを心から楽しむ若者たちの、平和な時間だけ。
アルフレッドが、イリーナの言葉に楽しそうに笑った。
その屈託のない笑顔は、戦場で私に見せるものとは少し違って見えた。もっと自然で、もっと柔らかな、本当の彼の素顔なのかもしれない。
私は、その光景から目が離せなかった。
心臓が、トクン、と音を立てる。
なぜか、胸の奥が少しだけ痛んだ。
彼の隣で笑っているのが、聖女イリーナであることに、ほんの少しだけ、嫉妬している自分に気づいてしまったから。
私は自分の感情に愕然とし、慌てて彼らに背を向けた。
駄目だ。見つかってはいけない。何より、これ以上彼を見ていたら、私の心が本当におかしくなってしまう。
早くこの場を離れなければ。
私は焦燥感に駆られ、人混みをかき分けるようにして進もうとした。しかし、その焦りが仇となる。誰かの足に自分の足がもつれ、私はバランスを崩した。
「きゃっ……!」
転ぶ。そう思った瞬間、私の腕が誰かに強く掴まれた。
倒れ込む寸前で、その腕に支えられ、私はなんとか踏みとどまることができた。
「大丈夫かい?」
すぐ側から、耳に馴染んだ声が聞こえた。
私が一番聞きたくなくて、そして、心のどこかで一番聞きたかった声。
恐る恐る顔を上げる。
そこには、私の腕を掴んだまま、心配そうにこちらを覗き込むアルフレッドの顔があった。
その距離、ほんの数十センチ。
彼の空色の瞳が、真正面から私を見つめている。
「怪我はないかな、お嬢さん」
私の頭は、真っ白になった。
思考が停止し、時間が止まる。
心臓の音だけが、やけに大きく耳の奥で鳴り響いていた。
魔王城での生活は何も変わらない。訓練、作戦会議、そして魔王様への報告。しかし、その全てにおいて、私の意識の片隅には常にあの男の姿がちらついていた。
傷を負いながらも私を気遣った、彼の優しい声。
敵である私に、当たり前のようにかけられた治癒魔法の温もり。
「……馬鹿な男」
自室の窓辺に立ち、紫色の空を眺めながら、私は何度目か分からない呟きを漏らした。
あれは策略だ。私を懐柔し、魔王軍を内側から崩すための巧妙な罠に違いない。そう頭では理解しようと努めるのに、心がそれを頑なに拒絶する。私の心臓は、彼のことを思い出すたびに、主の意思に反してトクンと小さく跳ねるのだ。
このままでは駄目だ。このままでは、私は私でなくなってしまう。
あの男の幻影を振り払うには、別の何かに集中する必要があった。
「リディア。珍しいね、君が書庫にいるなんて」
不意に声をかけられ、私は我に返った。振り返ると、四天王「深淵」のレヴィが、面白そうな笑みを浮かべてそこに立っていた。
「レヴィ……。次の作戦のために、人間界の地理を再確認していただけよ」
「ほう。ずいぶんと熱心だ。まるで何かから逃げているみたいに見えるけど」
彼の見透かしたような言葉に、私の肩が微かに跳ねる。レヴィは私の動揺を見逃さず、さらに言葉を続けた。
「あの勇者に会ってから、君は少し変わった。以前の君なら、こんな風に思い悩むことはなかったはずだ」
「……気のせいよ」
「そうかな?」
彼は私の手元にある書物、王都ルクスの詳細な地図に視線を落とした。
「そろそろ、王都では建国を祝う大きな祭りが開かれる頃だね。そういう時、人間は最も油断する。情報収集にはうってつけの機会かもしれない」
その言葉は、まるで私に何かを示唆しているかのようだった。
そうだ。私が今すべきことは、部屋に籠って思い悩むことではない。魔王軍四天王として、任務を遂行することだ。
「……いい考えね。私が、その任務に当たるわ」
私はレヴィの提案に乗る形で、自ら任務に志願した。勇者のことなど考えている暇はない。そう自分に言い聞かせ、私は人間界への潜入準備を始めた。
◇
ルクス王国の首都、王都ルクシオン。
そこは、私が今まで見てきたどの人間の街よりも、活気と熱気に満ち溢れていた。建国祭の期間中は、街中が色とりどりの旗やリボンで飾られ、道には数え切れないほどの屋台が並んでいる。どこからともなく陽気な音楽が聞こえ、人々の楽しそうな笑い声が絶え間なく響き渡っていた。
私は魔力を完全に消し、黒髪を質素な紐で一つに束ねた。豪奢なドレスの代わりに、街で買った何の変哲もない旅人の服を身に纏う。これなら、私が魔王軍の幹部だと気づく者は誰もいないだろう。
初めて見る平和な光景に、私は戸惑いを隠せなかった。
魔王城で教えられてきた人間たちの姿。それは、欲望深く、争いを好み、同族さえ平気で貶める醜い生き物。だが、今私の目の前にいるのは、家族と笑い合い、友人と肩を組み、恋人と寄り添って歩く、ごく普通の人々だった。
香ばしい匂いに誘われて視線を向ければ、串に刺した肉を焼く屋台があった。甘い匂いの元を探せば、子供たちが綿菓子をねだって親に強請っている。そのどれもが、戦場しか知らない私にとっては、異世界の出来事のようだった。
これが、私が滅ぼそうとしている世界。
この笑顔を、私が奪おうとしているのか。
私の胸に、チクリと小さな痛みが走った。すぐに、その感傷を頭から追い出す。これは偽りの平和だ。この裏で、人間たちは我ら魔族を根絶やしにしようと画策している。騙されてはいけない。
私は情報収集という本来の目的を思い出し、王城の方角へと歩き始めた。民衆の士気、軍の警備体制、そして何より、勇者の動向。それを探るのが、今回の任務だ。
しかし、祭りの人混みは想像以上で、まっすぐ歩くことすらままならない。大通りは人で埋め尽くされ、私は何度も人にぶつかりながら、ゆっくりとしか進めなかった。
「わっ!」
誰かに強く背中を押され、私は前のめりによろめいた。群衆の中で足場を失い、転びそうになる。その時、ふと視界の先に、見覚えのある輝きを見つけた。
人垣の向こう。噴水のある広場で、数人の若者たちが談笑している。
その中心にいた人物に、私の目は釘付けになった。
太陽の光を弾く、金色の髪。
周囲の喧騒が嘘のような、穏やかで優しい笑顔。
アルフレッドだった。
しかし、その姿は、私が知っている彼とは全く違っていた。
純白の鎧ではなく、動きやすそうな白いシャツに、紺色の上着を羽織っただけの簡素な服装。いわゆる、私服というものだろうか。腰に聖剣はなく、彼はただの年頃の青年のように見えた。
彼の隣には、聖女イリーナの姿もある。彼女もまた、神官服ではなく、可愛らしいワンピース姿だ。彼らは他の仲間らしき若者たちと、屋台で買ったものを食べながら楽しそうに話している。
戦場での張り詰めた雰囲気はどこにもない。そこにあるのは、祭りを心から楽しむ若者たちの、平和な時間だけ。
アルフレッドが、イリーナの言葉に楽しそうに笑った。
その屈託のない笑顔は、戦場で私に見せるものとは少し違って見えた。もっと自然で、もっと柔らかな、本当の彼の素顔なのかもしれない。
私は、その光景から目が離せなかった。
心臓が、トクン、と音を立てる。
なぜか、胸の奥が少しだけ痛んだ。
彼の隣で笑っているのが、聖女イリーナであることに、ほんの少しだけ、嫉妬している自分に気づいてしまったから。
私は自分の感情に愕然とし、慌てて彼らに背を向けた。
駄目だ。見つかってはいけない。何より、これ以上彼を見ていたら、私の心が本当におかしくなってしまう。
早くこの場を離れなければ。
私は焦燥感に駆られ、人混みをかき分けるようにして進もうとした。しかし、その焦りが仇となる。誰かの足に自分の足がもつれ、私はバランスを崩した。
「きゃっ……!」
転ぶ。そう思った瞬間、私の腕が誰かに強く掴まれた。
倒れ込む寸前で、その腕に支えられ、私はなんとか踏みとどまることができた。
「大丈夫かい?」
すぐ側から、耳に馴染んだ声が聞こえた。
私が一番聞きたくなくて、そして、心のどこかで一番聞きたかった声。
恐る恐る顔を上げる。
そこには、私の腕を掴んだまま、心配そうにこちらを覗き込むアルフレッドの顔があった。
その距離、ほんの数十センチ。
彼の空色の瞳が、真正面から私を見つめている。
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