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第72話 未知なる捕食者
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下水道の闇の中、悪夢がその顎を開いた。
魔力を喰らいさらに巨大化した異形の怪物が、耳障りな咆哮と共に私たちに襲いかかる。その動きは物理法則を無視しているかのように不規則で、予測ができない。
「防御結界!」
エルザが咄嗟に詠唱し、私たちの前方に半透明の魔力障壁を展開した。
しかしその行為が、さらなる絶望を招く結果となる。
怪物はその不定形の体から、数本の黒い触手を伸ばした。その先端がエルザの結界に触れた瞬間、ジュウと音を立てて結界の魔力が吸い取られていくのが見えた。強固なはずの障壁が、まるで砂糖菓子のようにあっという間に溶けて消え失せる。
「なっ……!?」
エルザが驚愕の声を上げる間もなかった。
結界を突き破った触手の一本が鞭のようにしなり、一番近くにいた護衛の騎士を薙ぎ払った。
「ぐあああっ!」
騎士は悲鳴と共に壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。命の灯火が、あまりにもあっけなく消える。
「魔法を使うな!」
ダリウスが血を吐くように叫んだ。「そいつは魔力を喰うぞ!」
その言葉が、この絶望的な状況を私たちに突きつけた。
魔法師団の精鋭であるエルザと、煉獄の魔女と呼ばれた私がいる。しかし私たちの最大の武器である魔法は、この敵の前では無力。それどころか敵を利するだけの最悪の選択肢なのだ。
「ならば、斬るまで!」
ダリウスが騎士としての誇りを込めて吼えた。彼は恐怖に足がすくむ他の騎士たちを庇うように、一人怪物へと突撃する。
彼の長剣が閃光のように煌めいた。王国最強と謳われるその剣技は、怪物の肉体を的確に切り裂いていく。黒い体液が飛沫となって飛び散った。
しかし、手応えがなかった。
切り裂かれた傷口は次の瞬間にはぶよぶよと再生を始め、それどころかその傷口から新たな触手が、まるで悪性の腫瘍のように生え出してくる。
「くそっ、再生能力まであるのか!」
ダリウスが後方へ飛び退きながら悪態をつく。
物理攻撃も決定打にはならない。ジリ貧だ。
怪物はその無数の目を一斉に私たちに向けた。
そしてその体から、キーンという耳障りな高周波を放ち始めた。それは音ではない。精神に直接作用する、魂の不協和音。
「う……っ!」
生き残っていた騎士たちが頭を押さえてその場に膝をついた。彼らの瞳から戦意と理性が急速に失われていくのが分かる。
「精神攻撃まで……!」
イリーナがいれば彼女の神聖魔法でこれを防げたかもしれない。しかしこの場にはいない。
「リディア様! エルザ殿! 騎士たちを連れてここから脱出を!」
ダリウスが一人で怪物の前に立ちはだかりながら叫んだ。「ここは俺が食い止める!」
その背中はあまりにも大きく、そしてあまりにも絶望的だった。
彼一人を犠牲にして私たちが逃げる?
そんなこと、できるはずがない。
「ふざけないで!」
私は叫んだ。恐怖に震える体を無理やり叱咤して。「あなたを見捨てて、私だけが生き延びて、アルフレッドに何と言えばいいのよ!」
そうだ。アルフレッド。
彼の顔が脳裏をよぎった。
彼ならどうする。この絶望的な状況を、彼はどうやって打開するだろう。
その時、私は思い出した。
王城を出る前、彼が私の手に握らせてくれた、あの小さなブローチの存在を。
『危険が迫ったら、迷わずそれを使うんだ。僕がすぐに君の元へ駆けつけるから』
彼の優しい声が蘇る。
胸元の服の下で、ブローチが微かな熱を持っているのを感じた。
しかし、私は躊躇した。
彼を呼んでいいのか。
国王である彼を、こんな得体の知れない怪物との死地に引きずり込んでいいのか。
私の我儘で彼を危険に晒すことになってしまう。
それは絶対に避けなければならないことのはずだった。
私の葛藤を、怪物は待ってはくれなかった。
ダリウスの猛攻をいなしながら、その触手の一本が死角から彼を狙った。
「ダリウス!」
私の叫びも虚しく、触手が彼の脇腹を深く抉った。
「ぐっ……!」
ダリウスの巨体がぐらりと傾く。それでも彼は倒れない。剣を杖のようにして片膝をつき、必死で怪物を睨みつけていた。
その光景が私の最後の迷いを断ち切った。
仲間が目の前で死にかけている。
王妃としての立場も、彼を危険に晒したくないという想いも、この絶対的な現実の前ではただの感傷でしかなかった。
守りたい。
この不器用で誠実で、命を賭して私を守ろうとしてくれている、この仲間たちを。
「ごめんなさい、アルフレッド……!」
私は心の中で彼に謝った。
そして叫んだ。
「あなたの力を、借りるわ!」
私は胸元から白銀の羽のブローチを取り出した。
そしてそのブローチに向かって、私の内側に僅かに残っていた聖なる光の属性を持つ魔力を、全力で注ぎ込んだ。
それはアルフレッドと触れ合う中で、私の魂に宿った彼と同じ質の力。
ブローチが閃光のように眩い輝きを放った。
そのあまりにも純粋で清らかな光に、異形の怪物が初めて怯んだかのように僅かに後ずさった。
「リディア様……それは……!」
エルザが驚愕の声を上げる。
ブローチから放たれた光は、一本の光の柱となって下水道の分厚い天井を貫き、天へと昇っていった。
そして光が貫いた天井の穴。その空間が、まるで水面のように揺らめき小さな亀裂を生じさせた。
それは空間と空間を繋ぐ、転移のゲート。
亀裂の向こう側から、この世のどんな闇も打ち払う絶対的な聖なる気配が、奔流となって溢れ出してくる。
それは私が世界で一番よく知っている、温かくて力強い光の気配。
そして、その亀裂の向こうから私の魂に直接響く、力強い声が聞こえた。
「―――リディアッ!」
その声を聞いた瞬間、私の張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
涙が頬を伝う。
安堵の涙だった。
もう大丈夫。
私の勇者が、来てくれる。
怪物はその圧倒的な光の気配に本能的な恐怖を感じたのだろう。
今までとは比較にならないほどの甲高い咆哮を上げ、その全ての触手を空間の亀裂に向かって一斉に突き出した。
光の王の降臨を阻止するために。
しかし、もう遅い。
亀裂の中から一条の、しかし何よりも眩い閃光が迸った。
それは聖剣の一閃。
全ての触手をいとも容易く切り裂き、浄化していく。
そして光の中から一人の男が舞い降りた。
純白の鎧は夜の闇の中にあっても、太陽のように輝いていた。
その手には、世界の全ての悪を滅する聖剣が握られている。
彼は私の前に降り立つと、私を庇うように怪物との間に立ちはだかった。
そしてゆっくりと振り返ると、いつものように悪戯っぽく、しかし何よりも頼もしく微笑んだ。
「――待たせたね、僕のお姫様」
魔力を喰らいさらに巨大化した異形の怪物が、耳障りな咆哮と共に私たちに襲いかかる。その動きは物理法則を無視しているかのように不規則で、予測ができない。
「防御結界!」
エルザが咄嗟に詠唱し、私たちの前方に半透明の魔力障壁を展開した。
しかしその行為が、さらなる絶望を招く結果となる。
怪物はその不定形の体から、数本の黒い触手を伸ばした。その先端がエルザの結界に触れた瞬間、ジュウと音を立てて結界の魔力が吸い取られていくのが見えた。強固なはずの障壁が、まるで砂糖菓子のようにあっという間に溶けて消え失せる。
「なっ……!?」
エルザが驚愕の声を上げる間もなかった。
結界を突き破った触手の一本が鞭のようにしなり、一番近くにいた護衛の騎士を薙ぎ払った。
「ぐあああっ!」
騎士は悲鳴と共に壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。命の灯火が、あまりにもあっけなく消える。
「魔法を使うな!」
ダリウスが血を吐くように叫んだ。「そいつは魔力を喰うぞ!」
その言葉が、この絶望的な状況を私たちに突きつけた。
魔法師団の精鋭であるエルザと、煉獄の魔女と呼ばれた私がいる。しかし私たちの最大の武器である魔法は、この敵の前では無力。それどころか敵を利するだけの最悪の選択肢なのだ。
「ならば、斬るまで!」
ダリウスが騎士としての誇りを込めて吼えた。彼は恐怖に足がすくむ他の騎士たちを庇うように、一人怪物へと突撃する。
彼の長剣が閃光のように煌めいた。王国最強と謳われるその剣技は、怪物の肉体を的確に切り裂いていく。黒い体液が飛沫となって飛び散った。
しかし、手応えがなかった。
切り裂かれた傷口は次の瞬間にはぶよぶよと再生を始め、それどころかその傷口から新たな触手が、まるで悪性の腫瘍のように生え出してくる。
「くそっ、再生能力まであるのか!」
ダリウスが後方へ飛び退きながら悪態をつく。
物理攻撃も決定打にはならない。ジリ貧だ。
怪物はその無数の目を一斉に私たちに向けた。
そしてその体から、キーンという耳障りな高周波を放ち始めた。それは音ではない。精神に直接作用する、魂の不協和音。
「う……っ!」
生き残っていた騎士たちが頭を押さえてその場に膝をついた。彼らの瞳から戦意と理性が急速に失われていくのが分かる。
「精神攻撃まで……!」
イリーナがいれば彼女の神聖魔法でこれを防げたかもしれない。しかしこの場にはいない。
「リディア様! エルザ殿! 騎士たちを連れてここから脱出を!」
ダリウスが一人で怪物の前に立ちはだかりながら叫んだ。「ここは俺が食い止める!」
その背中はあまりにも大きく、そしてあまりにも絶望的だった。
彼一人を犠牲にして私たちが逃げる?
そんなこと、できるはずがない。
「ふざけないで!」
私は叫んだ。恐怖に震える体を無理やり叱咤して。「あなたを見捨てて、私だけが生き延びて、アルフレッドに何と言えばいいのよ!」
そうだ。アルフレッド。
彼の顔が脳裏をよぎった。
彼ならどうする。この絶望的な状況を、彼はどうやって打開するだろう。
その時、私は思い出した。
王城を出る前、彼が私の手に握らせてくれた、あの小さなブローチの存在を。
『危険が迫ったら、迷わずそれを使うんだ。僕がすぐに君の元へ駆けつけるから』
彼の優しい声が蘇る。
胸元の服の下で、ブローチが微かな熱を持っているのを感じた。
しかし、私は躊躇した。
彼を呼んでいいのか。
国王である彼を、こんな得体の知れない怪物との死地に引きずり込んでいいのか。
私の我儘で彼を危険に晒すことになってしまう。
それは絶対に避けなければならないことのはずだった。
私の葛藤を、怪物は待ってはくれなかった。
ダリウスの猛攻をいなしながら、その触手の一本が死角から彼を狙った。
「ダリウス!」
私の叫びも虚しく、触手が彼の脇腹を深く抉った。
「ぐっ……!」
ダリウスの巨体がぐらりと傾く。それでも彼は倒れない。剣を杖のようにして片膝をつき、必死で怪物を睨みつけていた。
その光景が私の最後の迷いを断ち切った。
仲間が目の前で死にかけている。
王妃としての立場も、彼を危険に晒したくないという想いも、この絶対的な現実の前ではただの感傷でしかなかった。
守りたい。
この不器用で誠実で、命を賭して私を守ろうとしてくれている、この仲間たちを。
「ごめんなさい、アルフレッド……!」
私は心の中で彼に謝った。
そして叫んだ。
「あなたの力を、借りるわ!」
私は胸元から白銀の羽のブローチを取り出した。
そしてそのブローチに向かって、私の内側に僅かに残っていた聖なる光の属性を持つ魔力を、全力で注ぎ込んだ。
それはアルフレッドと触れ合う中で、私の魂に宿った彼と同じ質の力。
ブローチが閃光のように眩い輝きを放った。
そのあまりにも純粋で清らかな光に、異形の怪物が初めて怯んだかのように僅かに後ずさった。
「リディア様……それは……!」
エルザが驚愕の声を上げる。
ブローチから放たれた光は、一本の光の柱となって下水道の分厚い天井を貫き、天へと昇っていった。
そして光が貫いた天井の穴。その空間が、まるで水面のように揺らめき小さな亀裂を生じさせた。
それは空間と空間を繋ぐ、転移のゲート。
亀裂の向こう側から、この世のどんな闇も打ち払う絶対的な聖なる気配が、奔流となって溢れ出してくる。
それは私が世界で一番よく知っている、温かくて力強い光の気配。
そして、その亀裂の向こうから私の魂に直接響く、力強い声が聞こえた。
「―――リディアッ!」
その声を聞いた瞬間、私の張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
涙が頬を伝う。
安堵の涙だった。
もう大丈夫。
私の勇者が、来てくれる。
怪物はその圧倒的な光の気配に本能的な恐怖を感じたのだろう。
今までとは比較にならないほどの甲高い咆哮を上げ、その全ての触手を空間の亀裂に向かって一斉に突き出した。
光の王の降臨を阻止するために。
しかし、もう遅い。
亀裂の中から一条の、しかし何よりも眩い閃光が迸った。
それは聖剣の一閃。
全ての触手をいとも容易く切り裂き、浄化していく。
そして光の中から一人の男が舞い降りた。
純白の鎧は夜の闇の中にあっても、太陽のように輝いていた。
その手には、世界の全ての悪を滅する聖剣が握られている。
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