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第86話 目覚めの光、再会の誓い
しおりを挟む柔らかな陽光が瞼を優しく撫でる。
私の意識は温かく穏やかな光の海からゆっくりと浮上していった。最後に感じたのは魂が焼き切れるような激痛と絶望的な無力感だったはず。なのに今私を包んでいるのは信じられないほどの安らぎだった。
ゆっくりと目を開ける。
最初に目に映ったのは見慣れた王妃の私室の美しい天蓋の刺繍。そして私の手を握りしめたまま、ベッドの脇の椅子でこくりこくりと舟を漕いでいる聖女イリーナの姿だった。
「……イリーナ……?」
私の掠れた声に彼女の肩がびくりと震えた。
彼女は弾かれたように顔を上げると、私の顔と自分の手を交互に見てその美しい瞳を驚きに見開いた。
「リディアさん! 目が覚めたのですね……!」
その声は涙で濡れていた。彼女はずっと私が眠っている間こうして付き添ってくれていたのだろう。
「私……どのくらい……」
「五日です」彼女は私の言葉を遮るように言った。「あなたと陛下が世界を救ってから五日が経ちました」
五日。
そんなにも時間が。
私は慌てて自分の体を確認した。魂を削ったはずの肉体は不思議とどこも痛まなかった。ただ深い疲労感だけが鉛のようにまとわりついている。
「あなたの魂はひどく傷ついていました。私とエルザ、そしてレヴィ殿の三人がかりでようやく安定させたのです。魔力が完全に戻るにはまだ時間がかかるでしょう。でも命に別状はありません」
イリーナの優しい説明に私は安堵の息を漏らした。
そして最も聞きたかった、そして最も聞くのが怖かった質問を震える声で口にした。
「アルフレッドは……? 彼は無事なの……? ダリウスやエルザは……ガレスは……?」
仲間たちの顔を一人一人思い浮かべながら尋ねる。その問いにイリーナは力強く、そして優しく微笑んだ。
「ええ。陛下も、ダリウス殿もエルザも、皆無事です」
その言葉が私の魂を本当の意味で救ってくれた。
よかった。皆、生きている。
私の瞳から自分でも気づかないうちに温かい涙が溢れ落ちていた。
しかし、イリーナの表情が僅かに曇ったことに私は気づいていた。彼女は何かを言いよどむように視線を彷徨わせる。
「……ガレスは?」
私はもう一度、その名を口にした。
私の問いに、イリーナは一瞬だけ悲しげに目を伏せ、唇を固く結んだ。その沈黙が、何よりも雄弁に答えを物語っていた。
◇
時を同じくして。
人間たちの喧騒から遠く離れたエルフの森のその最奥。
生命の力が満ちる巨大な聖樹の根元で、アルフレッドは静かに目を覚ました。
全身を包むのは柔らかな苔の感触と清浄な空気。
最後に見た女王が砕け散る光景。そして空から墜落していく無力な自分。
(僕は……生きているのか……?)
「……お目覚めかな、勇者王殿」
穏やかでしかし威厳のある声が彼の意識を現実に引き戻した。
見上げるとそこに樹の皮のようなローブを纏った白髪の美しいエルフの長老が立っていた。
「あなたは……」
「我らは森の民。君が守りしこの世界の一部だよ」
長老は静かに言った。「君の魂の光が消えかけた時、我らは森の総意として君を癒やすことを決めた。我らの聖樹の力が君の命を繋ぎ止めたのだ」
アルフレッドはゆっくりと自分の体を見下ろした。
あれほど深かったはずの傷はほとんど塞がっている。失われた聖なる力も穏やかに、しかし確実にその内側で回復し始めているのを感じた。
「……助けてくれたのか」
「礼を言う必要はない。むしろ礼を言うべきは我らの方だ。君たちがいなければこの森も、そしてこの世界も終わっていたのだからな」
長老の言葉にアルフレッドはゆっくりと体を起こした。
そして真っ先に問いかけた。
「リディアは! 僕の妻は無事なのか!?」
その問いに長老は静かに頷いた。
「王都からの報せは届いている。王妃殿もご無事だ。今は城で静養されていると」
その答えを聞いた瞬間、アルフレッドの全身から力が抜けた。
彼は聖樹の幹に背を預け天を仰いだ。
よかった。彼女が無事で。
それだけでこの戦いの全てが報われた気がした。
しかしその安堵はすぐに深い悲しみによって上書きされた。
長老の言葉が続く。
「……だが勇者王殿。多くの犠牲もあった」
その声には深い哀悼の念が込められていた。「あの誇り高き魔族の戦士、ガレスの魂もまた、この森の光が安らかに導くだろう。彼の犠牲を、決して忘れてはならぬ」
その名を聞き、アルフレッドの脳裏に最後の光景が蘇る。
崩れ落ちる天井を一人で支え、自分たちを逃がしてくれた偉大な背中。
彼の心に、既に知っていたはずの痛みが改めて鋭く突き刺さった。
「……ああ。彼の覚悟は、僕がこの胸に刻んでいる」
アルフレッドは唇を強く噛み締め、こみ上げてくる感情を必死で堪えた。
今は悲しんでいる時ではない。自分にはまだ、やるべきことがある。
リディアに、全てを伝えなければならない。
◇
数日後。
エルフの森で心身共に回復したアルフレッドが王都へと帰還した。
彼は玉座の間にも執務室にも向かわなかった。
ただ真っ直ぐに私の部屋へと。
扉が静かに開かれた。
そこに立っていたのは少しだけ痩せたけれど、変わらない太陽のような笑顔を浮かべた私の愛しい人だった。
「……ただいま、リディア」
「……おかえりなさい、アルフレッド」
言葉はそれだけで十分だった。
私たちはどちらからともなく歩み寄り、部屋の中央で強く強く抱きしめ合った。
お互いの鼓動が聞こえる。生きている。私たちはここにいる。
「……心配したわ」
「僕もだ」
私たちは互いの無事をその温もりで確かめ合った。
しかし、その喜びの中にある一つの大きな喪失を、私たちはまだ共有できていなかった。
アルフレッドはゆっくりと体を離すと、私の両肩を掴み、真剣な眼差しで私を見つめた。
「リディア。君に、話さなければならないことがある」
その覚悟を決めたような声に、私の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。イリーナが言いよどんだ、あの答え。
「ガレスのことだ」
彼の口からその名が出た瞬間、私は全てを悟った。
「彼は……最後まで俺たちを守ってくれた」
アルフレッドの声は震えていた。彼は自らの悲しみを押し殺し、一言一言を確かめるように語り始めた。「崩れる城の中で、彼はたった一人で天井を支え続けた。俺たちを……そして、君を生かすために。それが、彼の最後の役目だと、笑っていた……」
「嘘……でしょう……?」
私の声は震えていた。
あの頑丈で誰よりも強くて、そして不器用な優しさを持っていたあのガレスが?
脳裏に彼の姿が蘇る。私を「妹のようだ」と言っていつも気にかけてくれた大きな背中。
「ごめん……なさい……」
私の瞳から再び涙が溢れ出した。今度は安堵の涙ではない。大切な仲間を失った深い深い悲しみの涙。私のせいで彼を死なせてしまった。
「違うよ、リディア」
アルフレッドはそんな私を優しく、しかし力強く抱きしめた。「彼は君のせいじゃない。君のために死んだんだ。彼自身の誇り高い意志でね。その覚悟を君が悲しみで曇らせてはいけない」
彼の言葉が、彼の温もりが、罪悪感に苛まれる私の心をゆっくりと溶かしていく。
そうだ。私は泣いているだけではいけない。
彼の死を無駄にしてはならない。
彼が守ってくれたこの命で、彼が見たかったはずの平和な世界を築いていかなくては。
私は涙を拭うと、アルフレッドの胸の中で固く固く誓った。
ありがとう、ガレス。
あなたのことは決して忘れない。
あなたの妹はこれからもっと強く生きていくから。
アルフレッドは何も言わず、ただ私が落ち着くまで、その背中を優しく撫で続けてくれた。
私たちは二人で一つの大きな悲しみを分かち合った。
その悲しみを乗り越え、それでもなお私たちは共にいる。その事実が何よりも尊かった。
私たちはこれから二人で歩んでいくのだ。
失われたものの大きさをその胸に刻みながら。
そして与えられたこの平和な未来をこの手で守り、育てていくために。
窓の外では平和になった王都が柔らかな午後の光に包まれていた。
それはこれから始まる私たちの新しい物語の、穏やかな幕開けを告げているかのようだった。
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