私、魔王軍の四天王(紅一点)なんですが、敵であるはずの勇者が会うたびに口説いてきます

夏見ナイ

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第91話 最後の聖域

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夜通し飛び続けたグリフォンは、夜明けと共に深い霧に覆われた山脈地帯へと降下していった。
そこは人間領と魔族領のどちらにも属さない中立地帯の最奥部。険しい山々と古代から続く原生林に守られた、地図にも載らない秘境だった。

「……ここまで来れば、ひとまずは安全でしょう」
グリフォンを操るイリーナの声には深い疲労の色が滲んでいた。彼女もまたこの逃避行の間、追手を警戒し、そして陣痛に苦しむ私に治癒魔法をかけ続けるという過酷な役目を負っていたのだ。

私を抱きかかえたまま、アルフレッドがグリフォンから降り立つ。
着地した場所は苔むした石畳が敷かれた古い広場のような場所だった。周囲には蔦に覆われた石造りの建物が静かに佇んでいる。

「ここは……」
アルフレッドが見覚えのあるその光景に息を呑んだ。

「『忘れられた境界の神殿』……」
私が掠れた声で呟いた。
そうだ。ここはかつて私たちが初めて互いの心を確かめ合った思い出の場所だった。
イリーナはここを最後の避難場所として選んでくれたのだ。

「リディア、しっかりしろ!」
アルフレッドの声が遠のいていく私の意識を呼び戻す。
陣痛の波が再び激しく私を襲っていた。もう限界が近い。

「イリーナ……!」
アルフレッドが悲痛な声で助けを求める。

「分かっています!」
イリーナは神殿の中で最も清浄な場所を探し出すと、そこに自らのローブを敷き即席の産床を用意した。「リディアさんを、ここに!」

アルフレッドは私を優しくその上に横たえた。
冷たい石の感触が火照った体に心地よかった。

「リディアさん、聞こえますか! もう少しです! あなたと赤ちゃんの力を信じるのです!」
イリーナが私の手を固く握り、励ましてくれる。

私は朦朧とする意識の中で必死にいきんだ。
痛い。苦しい。
体中の骨が砕けてしまいそうだ。
しかし、それ以上に私の心を占めていたのは恐怖だった。
この子が、無事に生まれてこられるのか。
そして、こんな世界にこの子を産み落としてしまって本当にいいのか。

『頑張れ、リディア』
アルフレッドの声が耳元で聞こえる。彼は私の汗で濡れた額を優しく拭ってくれていた。『君は強い。君と僕の子だ。弱いはずがない』

彼の言葉が私の最後の力を奮い立たせた。
そうだ。私は母なのだ。
この子を守らなければ。

「あああああああああっ!」

私の最後の絶叫が古びた神殿に響き渡った。
そして、その声に答えるかのように。

「―――オギャア、オギャアアアッ!」

力強い生命の産声が世界に響き渡った。

「……産まれました」
イリーナの涙に濡れた歓喜の声が聞こえる。「元気な……元気な、男の子です……!」

私の視界に、血に濡れた小さな赤ん坊の姿が映った。
イリーナがその体を清め、布で優しく包んでくれる。

「リディア……」
アルフレッドがその赤ん坊をそっと私の腕の中へと運んでくれた。

温かい。
小さい。
そして、確かに生きている。
私の腕の中で。

赤ん坊は私の顔を見ると泣き止み、その小さな瞳でじっと私を見つめ返してきた。
その瞳の色は私と同じ血のように赤い色。
そして、その髪の色はアルフレッドと同じ太陽のように輝く金色の髪。

光と闇。
その両方を、その小さな体に確かに受け継いでいた。

「……ああ……」
私の瞳から涙が止めどなく溢れ落ちた。
それは悲しみの涙ではない。
この世のどんな言葉でも表現できない、愛しさと感謝、そして幸福に満ちた温かい涙だった。

「ありがとう……生まれてきてくれて……」
私はその小さな額にそっと口づけをした。

アルフレッドもまた涙を流していた。
彼は私と、そして私たちの子供を、その大きな腕で優しく、優しく包み込んだ。

私たちは全てを失った。
国も、城も、多くの仲間たちも。
しかし、その代わりに何物にも代えがたい、かけがえのない宝物をこの手にしたのだ。

神殿の外では、いつの間にか朝の光が差し込み始めていた。
それは絶望の夜が明け、新たな希望の朝が訪れたことを告げているかのようだった。

私たちはこの最後の聖域で、束の間の、しかし何よりも尊い家族としての時間を過ごした。
子供には「ガレス」と名付けた。
あの不器用で、誰よりも優しかった守護者の名を。
彼がこの子のことを見守ってくれるように、と。

しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
数日後。
神殿の外の森で警戒を続けていたイリーナが血相を変えて駆け込んできた。

「……見つかりました」

その一言が私たちの短い幸福に終わりを告げた。

「アビス・ウォーカーの斥候です。数は少ないですが、この場所を奴らに特定されてしまいました」

その報せに、アルフレッドは眠る我が子の顔を愛おしげに見つめた。
そして、ゆっくりと立ち上がると壁に立てかけていた聖剣をその手に取った。

その顔にはもはや絶望の色はなかった。
父として、そして王として。
守るべきもののために再び立ち上がる英雄の顔がそこにあった。

「……イリーナ」
彼は静かに言った。「リディアとこの子を頼む」

「アルフレッド……!」

「僕は戦う。この子と君たちが生きる未来のために」
彼は私の方を振り返ると、今までで一番優しく、そして力強く微笑んだ。

「必ず戻る。約束だ」

それは死地へと向かう最後の誓い。
彼は私の返事を待たずに、神殿の外へと一人歩み出していった。

その背中を、私はただ見送ることしかできなかった。
腕の中にはすやすやと眠る我が子の温もり。
そして、胸の中には再び引き裂かれようとしている愛しい人への想い。

最後の聖域は今、最後の戦場へとその姿を変えようとしていた。
私たちの愛の奇跡を守るための、最後の、最後の戦いが静かに始まろうとしていた。
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