63 / 98
第63話:帝国の返答
しおりを挟む
エルミール王国からの横暴な要求は、ガルヴァニア帝国の政務院を瞬く間に駆け巡った。その内容は、外交儀礼を著しく欠いた、前代未聞のものだった。
「犯罪者を引き渡せ、だと?正気か、エルミールの若造は」
「聖女の奇跡の噂がこれほど広まっているというのに、その価値を理解できんとは…」
「いや、理解しているからこそ、なりふり構わず取り戻そうとしているのだろう。見苦しい限りだがな」
大臣たちの間では、嘲笑と侮蔑の声が渦巻いていた。小国エルミールの愚かな行動は、大国ガルヴァニアにとっては、ただの茶番にしか見えなかったのだ。
そして、その要求に対するシュヴァルツ辺境伯からの返信案が帝都に届くと、政務院の空気はさらに沸騰した。
『貴国が地図の上から消える時だと思え』
外交文書とは到底思えない、剥き出しの敵意と恫喝。
「さすがは黒騎士殿。容赦がない」
「しかし、これはいくら何でも過激すぎる。本当に戦争になりかねんぞ」
「だが、エルミールの無礼を考えれば、このくらいの釘を刺しておかねば示しがつかん」
大臣たちの意見が割れる中、最終的な判断は、玉座に座る一人の男に委ねられた。
皇帝レオポルト・フォン・ガルヴァニア。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、鋭い鷲のような目を持つ、齢六十を超える男。しかし、その体躯は歴戦の将軍のように鍛え上げられ、その瞳の奥には、老獪な政治家としての知性と、退屈を何よりも嫌う少年のような好奇心が、同居していた。
彼は、エルミールからの要求書と、ギルバートからの返信案を黙って読み比べた後、ふっと面白そうに口の端を吊り上げた。
「くくく…面白いことになってきたではないか」
その声に、大臣たちが緊張した面持ちで顔を上げる。
「陛下、いかがなされますか。エルミールの要求は、一蹴すべきかと存じますが…」
皇帝は、宰相の言葉を手の動きで制した。
「無論、要求は拒否する。我が帝国が、他国の言いなりになる理由などない。だが、ギルバートの返書は、少々乱暴が過ぎるな」
彼はそう言うと、羽ペンを手に取り、自ら帝国としての公式な返書を認め始めた。その内容は、ギルバートのものよりは遥かに穏当で、しかし、より狡猾で、相手に絶望を与えるのに十分なものだった。
『貴国からの不当かつ無礼極まりない要求は、我がガルヴァニア帝国に対する重大な侮辱と見なす。よって、これを完全に拒否する』
そこまでは、外交の常套句だ。しかし、皇帝はそこに、決定的な一文を付け加えた。
『なお、リリアンナ嬢は、現在、我が帝国の賓客として、シュヴァルツ辺境伯の庇護下にあり、その身柄の安全は帝国が保障するものである』
その一文を読んだ大臣たちは、息を呑んだ。
これは、ただの拒絶ではない。ガルヴァニア帝国という国家が、リリアンナという一個人を、正式に保護するという宣言だ。彼女に手を出そうとする者は、シュヴァルツ辺境伯個人ではなく、この帝国そのものを敵に回すことになる。
エルミール王国のような小国に、そんなことができるはずもない。これは、事実上の、完全なる詰み宣言だった。
「これならば、ギルバートも文句は言えまい。そして、エルミールの王子も、己の無力さを思い知るだろう」
皇帝は、満足げに頷いた。
返書がエルミールへと送られ、両国の外交関係は、公式に冷え切ったものとなった。
表向きには、これで一件落着。
しかし、皇帝の興味は、まだ尽きていなかった。
彼は、宰相に低い声で問いかけた。
「して、噂の『聖女』とやらは、どうなのだ。ギルバートが、そこまで執心するほどの娘とは、一体どんな代物なのだ?」
宰相は、待っていましたとばかりに、これまでに集めた情報を報告し始めた。
「はっ。シュヴァルツ領に潜らせている密偵からの報告によりますと、噂は真実かと。彼女、リリアンナ嬢が領地に来てから、凶作だった土地は豊穣に転じ、領民の暮らしは劇的に改善されたと」
「ほう」
「極めつけは、先日の魔獣騒ぎです。厄災級の魔獣アイアン・グリフォンを、彼女が放ったという金色の光が、一瞬で浄化したと…。数十人の騎士と、数百の領民が、その奇跡を目撃しております」
「金色の光、か。面白い」
皇帝の目が、きらりと好奇心に輝いた。
国を豊かにし、魔獣さえも浄化する奇跡の力。そして、あの鉄面皮の黒騎士を、骨抜きにしてしまうほどの魅力。
「その娘、会ってみたいとは思わんか?」
皇帝の言葉に、宰相は全てを察したように、深く頭を下げた。
「はっ。陛下のお望みとあらば、いつでも」
「うむ。ギルバートに、帝都への召喚命令を出せ。もちろん、その『聖女様』とやらも、同伴させるように、とな」
それは、命令だった。
帝国最強の騎士であるギルバートでさえ、逆らうことのできない、絶対君主からの命令。
皇帝は、これから起こるであろう面白い出来事を想像し、愉快でたまらないといった表情で、玉座の上で笑っていた。
あの朴念仁の黒騎士が、噂の聖女を連れて、この俺の前にどんな顔で現れるのか。
そして、その聖女とやらは、一体どれほどの価値を持つ『駒』なのか。
それを、この目で見定めてやる。
皇帝レオポルトは、久方ぶりに感じる胸の高鳴りを、楽しんでいた。
二つの国の対立は、今、皇帝という最大のプレイヤーを巻き込んで、新たな局面を迎えようとしていた。
「犯罪者を引き渡せ、だと?正気か、エルミールの若造は」
「聖女の奇跡の噂がこれほど広まっているというのに、その価値を理解できんとは…」
「いや、理解しているからこそ、なりふり構わず取り戻そうとしているのだろう。見苦しい限りだがな」
大臣たちの間では、嘲笑と侮蔑の声が渦巻いていた。小国エルミールの愚かな行動は、大国ガルヴァニアにとっては、ただの茶番にしか見えなかったのだ。
そして、その要求に対するシュヴァルツ辺境伯からの返信案が帝都に届くと、政務院の空気はさらに沸騰した。
『貴国が地図の上から消える時だと思え』
外交文書とは到底思えない、剥き出しの敵意と恫喝。
「さすがは黒騎士殿。容赦がない」
「しかし、これはいくら何でも過激すぎる。本当に戦争になりかねんぞ」
「だが、エルミールの無礼を考えれば、このくらいの釘を刺しておかねば示しがつかん」
大臣たちの意見が割れる中、最終的な判断は、玉座に座る一人の男に委ねられた。
皇帝レオポルト・フォン・ガルヴァニア。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、鋭い鷲のような目を持つ、齢六十を超える男。しかし、その体躯は歴戦の将軍のように鍛え上げられ、その瞳の奥には、老獪な政治家としての知性と、退屈を何よりも嫌う少年のような好奇心が、同居していた。
彼は、エルミールからの要求書と、ギルバートからの返信案を黙って読み比べた後、ふっと面白そうに口の端を吊り上げた。
「くくく…面白いことになってきたではないか」
その声に、大臣たちが緊張した面持ちで顔を上げる。
「陛下、いかがなされますか。エルミールの要求は、一蹴すべきかと存じますが…」
皇帝は、宰相の言葉を手の動きで制した。
「無論、要求は拒否する。我が帝国が、他国の言いなりになる理由などない。だが、ギルバートの返書は、少々乱暴が過ぎるな」
彼はそう言うと、羽ペンを手に取り、自ら帝国としての公式な返書を認め始めた。その内容は、ギルバートのものよりは遥かに穏当で、しかし、より狡猾で、相手に絶望を与えるのに十分なものだった。
『貴国からの不当かつ無礼極まりない要求は、我がガルヴァニア帝国に対する重大な侮辱と見なす。よって、これを完全に拒否する』
そこまでは、外交の常套句だ。しかし、皇帝はそこに、決定的な一文を付け加えた。
『なお、リリアンナ嬢は、現在、我が帝国の賓客として、シュヴァルツ辺境伯の庇護下にあり、その身柄の安全は帝国が保障するものである』
その一文を読んだ大臣たちは、息を呑んだ。
これは、ただの拒絶ではない。ガルヴァニア帝国という国家が、リリアンナという一個人を、正式に保護するという宣言だ。彼女に手を出そうとする者は、シュヴァルツ辺境伯個人ではなく、この帝国そのものを敵に回すことになる。
エルミール王国のような小国に、そんなことができるはずもない。これは、事実上の、完全なる詰み宣言だった。
「これならば、ギルバートも文句は言えまい。そして、エルミールの王子も、己の無力さを思い知るだろう」
皇帝は、満足げに頷いた。
返書がエルミールへと送られ、両国の外交関係は、公式に冷え切ったものとなった。
表向きには、これで一件落着。
しかし、皇帝の興味は、まだ尽きていなかった。
彼は、宰相に低い声で問いかけた。
「して、噂の『聖女』とやらは、どうなのだ。ギルバートが、そこまで執心するほどの娘とは、一体どんな代物なのだ?」
宰相は、待っていましたとばかりに、これまでに集めた情報を報告し始めた。
「はっ。シュヴァルツ領に潜らせている密偵からの報告によりますと、噂は真実かと。彼女、リリアンナ嬢が領地に来てから、凶作だった土地は豊穣に転じ、領民の暮らしは劇的に改善されたと」
「ほう」
「極めつけは、先日の魔獣騒ぎです。厄災級の魔獣アイアン・グリフォンを、彼女が放ったという金色の光が、一瞬で浄化したと…。数十人の騎士と、数百の領民が、その奇跡を目撃しております」
「金色の光、か。面白い」
皇帝の目が、きらりと好奇心に輝いた。
国を豊かにし、魔獣さえも浄化する奇跡の力。そして、あの鉄面皮の黒騎士を、骨抜きにしてしまうほどの魅力。
「その娘、会ってみたいとは思わんか?」
皇帝の言葉に、宰相は全てを察したように、深く頭を下げた。
「はっ。陛下のお望みとあらば、いつでも」
「うむ。ギルバートに、帝都への召喚命令を出せ。もちろん、その『聖女様』とやらも、同伴させるように、とな」
それは、命令だった。
帝国最強の騎士であるギルバートでさえ、逆らうことのできない、絶対君主からの命令。
皇帝は、これから起こるであろう面白い出来事を想像し、愉快でたまらないといった表情で、玉座の上で笑っていた。
あの朴念仁の黒騎士が、噂の聖女を連れて、この俺の前にどんな顔で現れるのか。
そして、その聖女とやらは、一体どれほどの価値を持つ『駒』なのか。
それを、この目で見定めてやる。
皇帝レオポルトは、久方ぶりに感じる胸の高鳴りを、楽しんでいた。
二つの国の対立は、今、皇帝という最大のプレイヤーを巻き込んで、新たな局面を迎えようとしていた。
322
あなたにおすすめの小説
「そうだ、結婚しよう!」悪役令嬢は断罪を回避した。
ミズメ
恋愛
ブラック企業で過労死(?)して目覚めると、そこはかつて熱中した乙女ゲームの世界だった。
しかも、自分は断罪エンドまっしぐらの悪役令嬢ロズニーヌ。そしてゲームもややこしい。
こんな謎運命、回避するしかない!
「そうだ、結婚しよう」
断罪回避のために動き出す悪役令嬢ロズニーヌと兄の友人である幼なじみの筋肉騎士のあれやこれや
「お前との婚約はなかったことに」と言われたので、全財産持って逃げました
ほーみ
恋愛
その日、私は生まれて初めて「人間ってここまで自己中心的になれるんだ」と知った。
「レイナ・エルンスト。お前との婚約は、なかったことにしたい」
そう言ったのは、私の婚約者であり王太子であるエドワルド殿下だった。
「……は?」
まぬけな声が出た。無理もない。私は何の前触れもなく、突然、婚約を破棄されたのだから。
何でもするって言うと思いました?
糸雨つむぎ
恋愛
ここ(牢屋)を出たければ、何でもするって言うと思いました?
王立学園の卒業式で、第1王子クリストフに婚約破棄を告げられた、'完璧な淑女’と謳われる公爵令嬢レティシア。王子の愛する男爵令嬢ミシェルを虐げたという身に覚えのない罪を突き付けられ、当然否定するも平民用の牢屋に押し込められる。突然起きた断罪の夜から3日後、随分ぼろぼろになった様子の殿下がやってきて…?
※他サイトにも掲載しています。
【完結】お父様。私、悪役令嬢なんですって。何ですかそれって。
紅月
恋愛
小説家になろうで書いていたものを加筆、訂正したリメイク版です。
「何故、私の娘が処刑されなければならないんだ」
最愛の娘が冤罪で処刑された。
時を巻き戻し、復讐を誓う家族。
娘は前と違う人生を歩み、家族は元凶へ復讐の手を伸ばすが、巻き戻す前と違う展開のため様々な事が見えてきた。
婚約者の態度が悪いので婚約破棄を申し出たら、えらいことになりました
神村 月子
恋愛
貴族令嬢アリスの婚約者は、毒舌家のラウル。
彼と会うたびに、冷たい言葉を投げつけられるし、自分よりも妹のソフィといるほうが楽しそうな様子を見て、アリスはとうとう心が折れてしまう。
「それならば、自分と妹が婚約者を変わればいいのよ」と思い付いたところから、えらいことになってしまうお話です。
登場人物たちの不可解な言動の裏に何があるのか、謎解き感覚でお付き合いください。
※当作品は、「小説家になろう」、「カクヨム」にも掲載しています
断罪前に“悪役"令嬢は、姿を消した。
パリパリかぷちーの
恋愛
高貴な公爵令嬢ティアラ。
将来の王妃候補とされてきたが、ある日、学園で「悪役令嬢」と呼ばれるようになり、理不尽な噂に追いつめられる。
平民出身のヒロインに嫉妬して、陥れようとしている。
根も葉もない悪評が広まる中、ティアラは学園から姿を消してしまう。
その突然の失踪に、大騒ぎ。
婚約破棄されたので、前世の知識で無双しますね?
ほーみ
恋愛
「……よって、君との婚約は破棄させてもらう!」
華やかな舞踏会の最中、婚約者である王太子アルベルト様が高らかに宣言した。
目の前には、涙ぐみながら私を見つめる金髪碧眼の美しい令嬢。確か侯爵家の三女、リリア・フォン・クラウゼルだったかしら。
──あら、デジャヴ?
「……なるほど」
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる