婚約破棄のついでに国外追放されましたが、私を拾ってくれたのは前世で最推しだった黒騎士様でした

夏見ナイ

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第64話:皇帝の興味

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エルミール王国との外交問題が一段落し、シュヴァルツ領には再び静かな冬の日々が戻っていた。しかし、その静けさは水面下で蠢く大きな流れの前の、束の間の凪に過ぎなかった。

リリアンナは、自分が聖女であるという自覚がないまま、以前と変わらぬ毎日を送っていた。厨房で料理の腕を振るい、薬草を調合し、そして時折、雪に覆われた実験農場の様子を見に行く。領民たちはそんな彼女を変わらず『聖女様』と呼び、深い敬愛の念を向けていたが、その熱狂も少しずつ落ち着き、温かい日常へと溶け込んでいた。

彼女にとって何よりの幸せは、ギルバートとの穏やかな時間だった。
彼はリリアンナが聖女であることを知った後も、その態度を少しも変えなかった。彼女を特別な存在として崇めるのではなく、ただ一人の愛しい女性として不器用に、しかし深く大切にしてくれた。その事実が、リリアンナをどれほど安堵させたことか。

「私は、聖女なんかじゃありません。ただのリリアンナです」
彼女がそう言うと、彼は「知っている」とだけ答え、その頭を優しく撫でてくれる。それだけで彼女は満たされた。

しかし、そんな二人の穏やかな日常を揺るがす報せは、帝都から突然もたらされた。
雪道を駆って砦に到着した帝国の伝令使が、ギルバートの前に一通の羊皮紙を差し出した。そこに押されていたのは、ガルヴァニア帝国皇帝の紋章。レオポルト帝、その人からの親書だった。

ギルバートは執務室でその封を切り、書面に目を通した。
その瞬間、彼の纏う空気がぴしりと凍てついた。

『シュヴァルツ辺境伯ギルバート・フォン・シュヴァルツに命ず。エルミール王国との一件、その働き見事であった。ついては詳しい報告を聴取するため、速やかに帝都へ出仕せよ』

そこまでならば儀礼的な命令だ。問題は、その後に続く一文だった。

『なお、貴官が保護しているという『聖女』リリアンナ嬢も、朕(ちん)に謁見させるべく必ず同伴のこと』

「…!」
ギルバートは、思わず奥歯を噛み締めた。
やはり来たか。
エルミール王国という分かりやすい脅威は去った。しかし、それよりも遥かに厄介で、そして抗うことの難しい存在が彼女に目をつけたのだ。

皇帝レオポルト。
大陸最強の国家を統べる絶対君主。その本質は老獪で、探究心が強く、そして何よりも退屈を嫌う男。
聖女という国一つ分の価値を持つ『おもちゃ』を見つけて、彼が見過ごすはずがなかった。

帝都へ連れて行けば、彼女はどうなる?
その力を試され、値踏みされ、そして帝国のための『道具』として利用されるに違いない。彼女の穏やかな日常は二度と戻らないだろう。最悪の場合、彼の寵姫として後宮に囲われることさえあり得る。

冗談ではない。
そんなことは絶対にさせない。

ギルバートの心に、皇帝に対する明確な敵意が芽生えた。
たとえ相手が自分が忠誠を誓った主君であろうと、リリアンナを脅かす存在であるならば、それは即ち俺の敵だ。

しかし、これは皇帝からの正式な召喚命令だ。辺境伯という立場にある彼が、正当な理由なくこれを拒否することは反逆と見なされかねない。そうなれば帝国全土を敵に回すことになる。それはさすがに分が悪すぎた。

(どうする…)

ギルバートが思考を巡らせていると、部屋の扉が控えめにノックされた。
「ギルバート様、お夜食をお持ちしました」
リリアンナの声だった。

彼女は盆の上に温かいスープを乗せ、部屋に入ってきた。そしてギルバートの険しい表情と、彼が手に持つ皇帝の親書に気づき、心配そうに首を傾げた。
「何か、あったのですか?」

ギルバートは親書を素早く机の引き出しにしまった。彼女に余計な心配をかけたくなかった。
「いや、何でもない。帝都からの定期報告だ」

その嘘が彼女に通じていないことは分かっていた。彼女の紫色の瞳は、不安げに揺れている。
その瞳を見ていると、ギルバートの心は決まった。

逃げることはできない。ならば、行くしかない。
俺が彼女のそばにいる限り、たとえ皇帝が相手であろうと、彼女に指一本触れさせるものか。
俺の覚悟と彼女という存在の本当の価値を、あの老獪な皇帝の目の前で直接証明してやればいい。

「リリアンナ」
彼は決然とした口調で言った。
「近々、帝都へ行くことになった。お前も一緒に来てもらう」

「帝都…ですか?」
リリアンナは驚きに目を丸くした。
「ですが、なぜ私が…?」

「皇帝陛下が、君に会いたいそうだ」
ギルバートは事実をありのままに告げた。
「心配はいらない。俺が必ずそばにいる。何があっても、お前は俺が守る」

その力強い言葉と揺るぎない金の瞳に、リリアンナの不安は少しだけ和らいだ。
彼女は自分がなぜ皇帝に呼ばれるのか、その本当の意味をまだ知らない。しかし、この人がそばにいてくれるのなら、きっと大丈夫だろう。

「…分かりました。お供させていただきます」
彼女はこくりと頷いた。

こうして二人の帝都行きは決定した。
ギルバートは、これから始まるであろう皇帝との腹の探り合いに、静かに闘志を燃やしていた。
一方のリリアンナは、初めて訪れる大都市へのほんの少しの期待と、大きな不安を胸に抱いていた。

二人の運命の歯車が、また一つ大きく動き出そうとしていた。
シュヴァルツ領という小さな舞台から、ガルヴァニア帝国という巨大な舞台へ。
彼らの物語は、新たな章を迎えようとしていた。
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