婚約破棄のついでに国外追放されましたが、私を拾ってくれたのは前世で最推しだった黒騎士様でした

夏見ナイ

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第71話:社交界デビュー

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帝陛下への謁見という嵐のような一日が終わり、私たちは宿屋へと戻った。部屋に戻っても、私の心臓はまだ興奮と安堵で静かに高鳴っていた。

玉座の間でのあの息が詰まるようなやり取り。
皇帝陛下の全てを見透かすような鋭い瞳。
そして私を守るために、絶対君主にさえ一歩も引かなかったギルバート様の揺るぎない背中。
その全てが、まだ私の瞼の裏に鮮明に焼き付いている。

リビングのソファに腰を下ろした私に、ギルバート様は温かいハーブティーを淹れてくれた。その手つきはいつもと変わらず無骨だったが、今はその不器用さの一つ一つが私にはたまらなく愛おしく感じられた。

「…疲れただろう。今日はもうゆっくり休め」
彼の声には私を労る響きがあった。
「はい…。ギルバート様も、お疲れ様でした。私のために、あのような…」
「気にするな。当然のことをしたまでだ」

彼はそう言うと、私の向かいの椅子に腰を下ろした。そして、まるで今日の謁見などなかったかのように静かに告げた。
「陛下から新たな勅命が下った」
「えっ…?」

私の心臓が再び緊張に跳ね上がる。まさかまた何か無理難題を…?
しかし、彼の口から語られたのは全く予想外の内容だった。

「三日後、宮殿で夜会が開かれる。陛下は我々にも出席を命じられた」
「夜会…ですか?」
私は思わず聞き返した。
「ああ。陛下は帝国の貴族たちに、君を公式にお披露目するおつもりらしい」

お披露目。その言葉の裏にある皇帝の政治的な思惑を、私はまだ完全には理解できなかった。しかし、彼が私という存在を帝国の重要な駒として認識したことだけは確かだった。

「そんな…私のような者が帝国の夜会になど…」
私の脳裏に蘇ったのは、エルミール王国でのあの卒業記念パーティーの悪夢だった。
夜会という華やかな舞台は、私にとって偽りの罪で断罪され、全てを失った絶望の場所。その記憶が私の心を暗い影で覆う。

私の表情の変化に気づいたのだろう。ギルバートは静かに私の名を呼んだ。
「リリアンナ」
その声に、私ははっと顔を上げた。

「ここはエルミール王国ではない。そしてお前はもう一人ではない」
彼の金の瞳がまっすぐに私を見つめている。
「俺がお前の隣にいる。誰にもお前を傷つけるような真似はさせん。だから何も恐れることはない」

彼の言葉は魔法のようだった。
私の心に巣食っていた過去のトラウマが、その温かい光に照らされて少しずつ溶けていくのを感じる。

そうだ。もう私は一人じゃない。
この人が隣にいてくれる。
あの時とは何もかもが違うのだ。

「…はい」
私はこくりと頷いた。
「今度の夜会は義務のためでも、誰かに媚びるためでもない。ただ、お前自身が楽しむために行けばいい」
楽しむために。

その言葉は、私にとって目から鱗が落ちるような新鮮な響きを持っていた。
これまでの私の人生で、パーティーとは常にアルクライド侯爵令嬢として、そして王太子の婚約者としての役割を演じるための息の詰まる舞台だった。心から楽しむなど、考えたこともなかった。

でも、今度は違うのかもしれない。
この人の隣でなら。
彼が守ってくれるこの場所でなら。
私も普通の女の子のように、華やかな夜会を心から楽しむことができるのかもしれない。

私の心の中に、小さく、しかし確かな希望の灯りがともった。
「分かりました。出席させていただきます」
私の前向きな返事に、ギルバートは満足そうにほんのわずかに口元を緩めたように見えた。

夜会の準備は、翌日から早速始まった。
ギルバートが手配したのだろう。帝都で一番と評判の仕立て屋や宝飾店の主人が、次々と私たちの宿屋を訪れた。

部屋のテーブルの上には、目も眩むような美しいドレスの生地や宝石の数々が広げられる。
「辺境伯閣下。こちらが今帝都で最も人気の高い、月の光を織り込んだと言われる銀糸のシルクでございます」
「こちらのダイヤモンドは先日、東方の国から届いたばかりの一点物でございますぞ」

そのどれもが、エルミール王国の王族でさえめったに手にすることのできない最高級品ばかりだった。
「ギルバート様、このような高価なもの、私には…!」
私がいつものように遠慮しようとすると、彼は私の言葉を遮るように言った。
「お前は帝国の賓客として夜会に出るのだ。シュヴァルツ辺境伯のエスコートを受ける女性として、見劣りするような格好は許さん。好きなものを選べ」

その口調は命令だったが、その瞳の奥には「お前には最高級のものがふさわしい」という不器用な愛情が満ち溢れていた。
私はもう何も言えなかった。ただ彼の気持ちを素直に受け取ることにした。

専門の侍女たちに囲まれ、採寸をし、生地を選び、デザインを決めていく。それは私がこれまで経験したことのない、心から胸がときめく時間だった。
私が選んだのは夜空を思わせる深いミッドナイトブルーのシルクのドレス。銀糸で繊細な星屑の刺繍が施されており、動くたびにキラキラと輝くデザインだ。
アクセサリーは私の紫色の瞳に合わせて、小さなアメジストが揺れる白銀のネックレスとイヤリングを選んだ。

そして夜会の当日。
仕立て上がったドレスに身を包み、侍女に髪を結い上げてもらった私の姿は、自分でも信じられないほど別人のように見えた。
深い青色のドレスは私の銀髪と白い肌を際立たせ、控えめながらも確かな存在感を放っている。

準備を終えた私がリビングへ出ると、そこで待っていたギルバートが息を呑んだのが分かった。
彼は何も言わなかった。
ただその金の瞳を大きく見開き、まるで初めて見る美しい芸術品でも見るかのように、驚きと賞賛、そして熱っぽい独占欲が入り混じった眼差しで私をじっと見つめていた。

その視線だけで十分だった。
どんな賛辞の言葉よりも雄弁に、彼の気持ちが伝わってくる。
私の顔はきっと熟した果実のように赤く染まっていたに違いない。

「…行くか」
ようやく我に返った彼が、少し掠れた声で言った。そして私の前に進み出ると、優雅な仕草で自分の腕を差し出す。

私は夢見るような気持ちで、そっとその腕に自分の手を絡ませた。
二人でヴァルハラ宮殿へと向かう馬車に乗り込む。
窓の外にはガス灯が美しく輝く帝都の夜景が流れていった。

「綺麗…」
「ああ」

短い会話。
けれどその沈黙は、心地よい期待感で満たされている。
私はもう何も怖くなかった。
これから始まる華やかな夜を、この人の隣で心から楽しもう。
そう固く決意していた。

馬車が宮殿の正面玄関にゆっくりと到着する。
侍従が馬車の扉を外から開ける音がした。
その向こうには、きらびやかな光と優雅な音楽、そして人々の喧騒が満ち溢れている。

私の初めての本当の社交界デビュー。
その幕が今、上がろうとしていた。
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