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第9話:村での新生活
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翌朝、俺は鳥のさえずりで目を覚ました。
古い家の簡素な寝台は決して寝心地が良いとは言えない。だが、誰かに叩き起こされることのない朝は、それだけで格別だった。
体を起こすと、部屋の隅に置いた椅子でリリアが眠っているのが見えた。昨夜は寝台を譲ると言ったのだが、彼女は「恩人の方を床に寝かせるわけにはいきません」と固辞して聞かなかった。結局、毛布を多めに渡して椅子で休んでもらうことで落ち着いたのだ。
その寝顔は、エルフという種族が持つ神秘的な美しさを湛えていた。だが、どこか張り詰めていたものが解けたような、安らかな表情にも見える。
俺は音を立てないように寝台から降りると、台所へ向かった。
まずは火起こしだ。乾燥させた薪を炉にくべ、火打石を打つ。いつもなら数回かかる火花が、なぜかその日は一発で着火した。小さな幸運に感謝しながら、俺は鍋に水を汲む。
朝食は、黒パンと干し肉を刻み入れただけの簡単なスープ。勇者パーティにいた頃は、毎朝豪勢な食事を用意させられたものだ。それに比べれば質素極まりないが、自分のために作る食事は気楽でいい。
スープを煮込んでいると、背後で衣擦れの音がした。
振り返ると、リリアが目を覚まし、こちらをじっと見ていた。
「おはよう。足の具合はどうだ」
「おはようございます、アッシュ様。おかげさまで、痛みはだいぶ引きました」
リリアは椅子から立ち上がろうとするが、まだ少し足を引きずっている。彼女はそのまま壁伝いに台所へやってくると、俺の隣に立った。
「何か、わたくしにお手伝いできることはありますか?」
「あんたは怪我人だ。座ってろ」
俺がそう言うと、リリアは少し不満そうな顔をした。
「ですが、お世話になりっぱなしでは心苦しいです。せめて、野菜を切るくらいなら……」
「いいから、座ってろ」
俺は有無を言わせぬ口調で彼女を椅子へと促した。これ以上動いて、怪我を悪化させられてはたまらない。
リリアはしぶしぶ椅子に戻ると、あとは何も言わず、俺が調理する様子を興味深そうに眺めていた。
やがて出来上がったスープと、硬い黒パンをテーブルに並べる。
リリアは器を手に取ると、まずその香りを楽しみ、それからゆっくりと一口スープを口に運んだ。
「……美味しいです。体が、芯から温まります」
「そうか。それは良かった」
素っ気なく答えながらも、俺は内心で安堵していた。誰かに自分の作った料理を「美味しい」と言ってもらう。それがこんなにも嬉しいことだとは、長い間忘れていた。
ガイアスたちは、俺がどんなに心を込めて料理を作っても、文句ばかりだったからだ。味が薄いだの、肉が硬いだの。いつしか俺は、料理をただの作業としてこなすようになっていた。
食事を終えると、家の扉が控えめにノックされた。
村長だった。俺たちのことを心配して、様子を見に来てくれたらしい。
「おお、ご無事でしたか。エルフのお嬢さんも、顔色が良いようで何よりじゃ」
村長はリリアの気品ある姿に少し驚いたようだったが、すぐに温和な笑みを浮かべた。
俺は森の掟を破ったことを謝罪した。
「いえ、村長。昨日は勝手な真似をして、すみませんでした」
すると村長は、俺の肩をぽんと叩いた。
「掟を破ったのは感心せん。だが、目の前の命を見捨てなかった。わしは、あんたさんのそういうところを信じておるよ」
その言葉は、俺がこれまで誰からもかけてもらえなかった種類の信頼だった。俺はただ、黙って頭を下げることしかできなかった。
村長はリリアに、怪我が治るまで安心して村に滞在するよう伝え、足に効くという薬湯の包みを置いて帰っていった。
その日を境に、俺たちの奇妙な共同生活が本格的に始まった。
リリアはまだ自由に歩き回れないため、ほとんどを家の中で過ごした。俺は日中、約束通り村の仕事を手伝い、夕方になると家に戻る。
村人たちは最初、美しいエルフの訪問者に戸惑っていた。しかし、俺がリリアを甲斐甲斐しく世話する姿や、リリア自身の穏やかで礼儀正しい人柄に触れ、少しずつ警戒を解いていった。
ある者は、保存食にと干した果物を分けてくれた。またある者は、リリアが退屈しないようにと、古い伝承を語りに来てくれた。
アルカディア村は貧しく、寂れている。だが、ここには都会の豊かな町にはない、人の温かさがあった。
俺は、誰かのために世話を焼くという行為に、かつてない充実感を覚えていた。
それは、義務感や恐怖心からくるものではない。リリアが日に日によくなっていく姿を見ること、彼女の笑顔を見ることが、純粋な喜びに繋がっていた。
追放された時に投げつけられた「役立たず」という言葉が、少しずつ心の中から溶けていくような気がした。
夜、俺たちは暖炉の前に並んで座り、揺れる炎を眺めていた。
沈黙が心地よかった。
やがて、リリアがぽつりと口を開いた。
「アッシュ様は、どうしてそんなに優しいのですか?」
「優しくなんかない」
俺は即答した。
「ただ、あんたを放っておけなかっただけだ」
「それが、優しさなのですよ」
リリアはふわりと微笑んだ。
「わたくしはずっと、一人でした。森を救うという使命も、里の仲間には理解されず……。でも、あなたに出会って、一人じゃないと思えました」
彼女の瞳が、暖炉の炎を反射してきらきらと潤んでいるように見えた。
俺は照れ隠しに、暖炉の薪を火かき棒でいじる。
「怪我が治ったら、どうするんだ」
「森の調査を、続けなければなりません。精霊たちの苦しみを、これ以上見過ごすことはできませんから」
その声には、強い決意が宿っていた。
俺は何も言わなかった。彼女の覚悟を、俺が邪魔する権利はない。
だが、心のどこかで、この穏やかな日々がもう少し続けばいいのに、と思ってしまっている自分に気づいた。
追放されて手に入れた、静かな生活。
そこに迷い込んできた、一人のエルフの少女。
俺の新しい人生は、思ってもみなかった方向へ、ゆっくりと動き始めていた。
古い家の簡素な寝台は決して寝心地が良いとは言えない。だが、誰かに叩き起こされることのない朝は、それだけで格別だった。
体を起こすと、部屋の隅に置いた椅子でリリアが眠っているのが見えた。昨夜は寝台を譲ると言ったのだが、彼女は「恩人の方を床に寝かせるわけにはいきません」と固辞して聞かなかった。結局、毛布を多めに渡して椅子で休んでもらうことで落ち着いたのだ。
その寝顔は、エルフという種族が持つ神秘的な美しさを湛えていた。だが、どこか張り詰めていたものが解けたような、安らかな表情にも見える。
俺は音を立てないように寝台から降りると、台所へ向かった。
まずは火起こしだ。乾燥させた薪を炉にくべ、火打石を打つ。いつもなら数回かかる火花が、なぜかその日は一発で着火した。小さな幸運に感謝しながら、俺は鍋に水を汲む。
朝食は、黒パンと干し肉を刻み入れただけの簡単なスープ。勇者パーティにいた頃は、毎朝豪勢な食事を用意させられたものだ。それに比べれば質素極まりないが、自分のために作る食事は気楽でいい。
スープを煮込んでいると、背後で衣擦れの音がした。
振り返ると、リリアが目を覚まし、こちらをじっと見ていた。
「おはよう。足の具合はどうだ」
「おはようございます、アッシュ様。おかげさまで、痛みはだいぶ引きました」
リリアは椅子から立ち上がろうとするが、まだ少し足を引きずっている。彼女はそのまま壁伝いに台所へやってくると、俺の隣に立った。
「何か、わたくしにお手伝いできることはありますか?」
「あんたは怪我人だ。座ってろ」
俺がそう言うと、リリアは少し不満そうな顔をした。
「ですが、お世話になりっぱなしでは心苦しいです。せめて、野菜を切るくらいなら……」
「いいから、座ってろ」
俺は有無を言わせぬ口調で彼女を椅子へと促した。これ以上動いて、怪我を悪化させられてはたまらない。
リリアはしぶしぶ椅子に戻ると、あとは何も言わず、俺が調理する様子を興味深そうに眺めていた。
やがて出来上がったスープと、硬い黒パンをテーブルに並べる。
リリアは器を手に取ると、まずその香りを楽しみ、それからゆっくりと一口スープを口に運んだ。
「……美味しいです。体が、芯から温まります」
「そうか。それは良かった」
素っ気なく答えながらも、俺は内心で安堵していた。誰かに自分の作った料理を「美味しい」と言ってもらう。それがこんなにも嬉しいことだとは、長い間忘れていた。
ガイアスたちは、俺がどんなに心を込めて料理を作っても、文句ばかりだったからだ。味が薄いだの、肉が硬いだの。いつしか俺は、料理をただの作業としてこなすようになっていた。
食事を終えると、家の扉が控えめにノックされた。
村長だった。俺たちのことを心配して、様子を見に来てくれたらしい。
「おお、ご無事でしたか。エルフのお嬢さんも、顔色が良いようで何よりじゃ」
村長はリリアの気品ある姿に少し驚いたようだったが、すぐに温和な笑みを浮かべた。
俺は森の掟を破ったことを謝罪した。
「いえ、村長。昨日は勝手な真似をして、すみませんでした」
すると村長は、俺の肩をぽんと叩いた。
「掟を破ったのは感心せん。だが、目の前の命を見捨てなかった。わしは、あんたさんのそういうところを信じておるよ」
その言葉は、俺がこれまで誰からもかけてもらえなかった種類の信頼だった。俺はただ、黙って頭を下げることしかできなかった。
村長はリリアに、怪我が治るまで安心して村に滞在するよう伝え、足に効くという薬湯の包みを置いて帰っていった。
その日を境に、俺たちの奇妙な共同生活が本格的に始まった。
リリアはまだ自由に歩き回れないため、ほとんどを家の中で過ごした。俺は日中、約束通り村の仕事を手伝い、夕方になると家に戻る。
村人たちは最初、美しいエルフの訪問者に戸惑っていた。しかし、俺がリリアを甲斐甲斐しく世話する姿や、リリア自身の穏やかで礼儀正しい人柄に触れ、少しずつ警戒を解いていった。
ある者は、保存食にと干した果物を分けてくれた。またある者は、リリアが退屈しないようにと、古い伝承を語りに来てくれた。
アルカディア村は貧しく、寂れている。だが、ここには都会の豊かな町にはない、人の温かさがあった。
俺は、誰かのために世話を焼くという行為に、かつてない充実感を覚えていた。
それは、義務感や恐怖心からくるものではない。リリアが日に日によくなっていく姿を見ること、彼女の笑顔を見ることが、純粋な喜びに繋がっていた。
追放された時に投げつけられた「役立たず」という言葉が、少しずつ心の中から溶けていくような気がした。
夜、俺たちは暖炉の前に並んで座り、揺れる炎を眺めていた。
沈黙が心地よかった。
やがて、リリアがぽつりと口を開いた。
「アッシュ様は、どうしてそんなに優しいのですか?」
「優しくなんかない」
俺は即答した。
「ただ、あんたを放っておけなかっただけだ」
「それが、優しさなのですよ」
リリアはふわりと微笑んだ。
「わたくしはずっと、一人でした。森を救うという使命も、里の仲間には理解されず……。でも、あなたに出会って、一人じゃないと思えました」
彼女の瞳が、暖炉の炎を反射してきらきらと潤んでいるように見えた。
俺は照れ隠しに、暖炉の薪を火かき棒でいじる。
「怪我が治ったら、どうするんだ」
「森の調査を、続けなければなりません。精霊たちの苦しみを、これ以上見過ごすことはできませんから」
その声には、強い決意が宿っていた。
俺は何も言わなかった。彼女の覚悟を、俺が邪魔する権利はない。
だが、心のどこかで、この穏やかな日々がもう少し続けばいいのに、と思ってしまっている自分に気づいた。
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2025/9/29
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