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第三十六話:売国の密約
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バルツァー伯爵の居城は、主の心を映すかのように、陰鬱な空気に満ちていた。領主であるバルツァーは、執務室で苛立たしげにテーブルを指で叩いていた。彼の感情は、「焦燥:90」「怒り:85」「猜疑心:95」。アッシュが蒔いた毒は、彼の精神を内側から確実に蝕んでいた。
騎士団長ダリウスを閑職に追いやったものの、騎士団の士気は低下し、領内の統制は乱れ始めている。ヴァイスラントへの妨害工作も、効果が上がるどころか、ドベルグの商人たちから不評を買い、逆に自領の経済を圧迫し始めていた。何もかもが、うまくいかない。
「あの忌々しい小僧め……!」
バルツァーは、全ての原因をアッシュという存在に押し付け、憎悪を募らせていた。嫉妬の炎は、彼の理性を焼き尽くそうとしている。
その時、執務室の隠し扉が静かに開いた。現れたのは、フードで顔を隠した長身の男だった。その男が纏う空気は、この帝国のものとは明らかに異質だった。
「……首尾は、どうだ」
バルツァーが、低い声で尋ねる。
「ご安心を、伯爵閣下」
フードの男は、抑揚のない声で答えた。
「我がグランツ帝国は、貴殿との盟約を歓迎いたします。閣下が、我が軍を領内に引き入れる手引きをしてくださるならば、ヴァイスラントを蹂躙した後、その土地と富は全て貴殿のものとなるでしょう」
グランツ帝国。帝国の東に国境を接する、長年の宿敵。その国の密使と、バルツァーは手を結ぼうとしていた。私的な嫉妬と欲望のために、自国を裏切る。それは、貴族として、いや人として決して越えてはならない一線だった。
「……本当に、帝国に気づかれずにやれるのか」
バルツァーの声には、僅かな「恐怖」が混じっていた。
「無論です。全ては、貴領内で起きた盗賊団の暴走として処理されます。我らは、ただそれを鎮圧するために手を貸す、善良な隣人に過ぎません。帝国中央が事態を把握する頃には、全ては終わっておりますよ」
密使の言葉は、悪魔の囁きのように甘美だった。バルツァーの心の天秤で、売国への恐怖と、アッシュへの憎悪、そしてヴァイスラントの富への欲望が揺れ動く。そして、その天秤は、あっけなく後者へと傾いた。
「……よかろう。契約成立だ」
バルツァーは、自らの破滅へと繋がる契約書に、震える手で署名した。
その数日後。ヴァイスラントの領主の館に、一羽の伝書鳩が舞い込んだ。その足に結びつけられた小さな筒を、ジョセフが受け取り、急いでアッシュの元へと運ぶ。それは、バルツァー領に潜入している密偵カイルからの、緊急報告だった。
アッシュは、執務室で密書を広げた。その内容に目を通すうち、彼の赤い瞳が、氷のように冷たい光を帯びていく。
「……愚かな豚め。ついに、最悪の選択をしたか」
密書には、バルツァー伯爵がグランツ帝国の密使と接触し、軍を領内に引き入れようとしているという、衝撃的な事実が記されていた。この情報は、騎士団長ダリウスを通じてカイルにもたらされたものだった。
閑職に追いやられたダリウスは、逆に伯爵の監視の目から自由になっていた。彼は、騎士としての最後の誇りをかけて、主君の不穏な動きを独自に探っていたのだ。そして、城内で密会するグランツ帝国の密使の姿を目撃し、その事実をカイルに伝えた。それは、自らの命を危険に晒す、覚悟の告発だった。
「すぐに全員を集めろ。緊急の軍議を開く」
アッシュの命令で、館の作戦司令室に主要メンバーが召集された。回復途上のガイウス、サイモン、ボルグ、ギムリ、ブロック。そして、客人の身であるセレスティアも、その場に呼ばれた。
アッシュは、カイルからの密書の内容を、淡々と読み上げた。
「――バルツァー伯爵、グランツ帝国と密約。ヴァイスラント侵攻のため、領内に敵軍を引き入れる、と」
その言葉が響いた瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
「なっ……なんだと!?」
ボルグが、信じられないという顔で叫んだ。
「売国だと!?あの伯爵、気でも狂ったか!」
彼の感情が「怒り」と「驚愕」で爆発する。
サイモンは、顔面蒼白になっていた。
「帝国への反逆……。これは、もはや我々だけの問題ではない。国家の危機だ」
彼の「危機感」は、最高潮に達していた。
「敵の戦力は?」
ベッドから起き上がり、杖を突きながら軍議に参加したガイウスが、低い声で尋ねた。その顔色はまだ悪いが、瞳には将軍としての鋭い光が戻っている。
「グランツ帝国が動かすのは、国境警備軍の一部。およそ千。対する我々の兵力は、義勇兵五十名。話にならん」
アッシュは、残酷な現実を突きつけた。
部屋を、重い絶望が支配した。千対五十。それは、戦いですらなく、一方的な蹂躙を意味する数字だった。
「どうすりゃいいんだ……」
「逃げるしかねえ……」
義勇兵を代表して参加していた若者たちが、青ざめた顔で囁き合う。
その時まで、黙って話を聞いていたセレスティアが、静かに立ち上がった。彼女の翡翠色の瞳は、怒りの炎で燃え盛っていた。
「逃げるなどという選択肢は、あり得ません」
その声は、凛として、迷いがなかった。
「バルツァー伯爵の行為は、帝国そのものへの裏切りです。貴族として、そして帝国魔導師団の一員として、断じて見過ごすことはできない」
彼女は、アッシュをまっすぐに見据えた。
「アッシュ・フォン・ヴェルヘイム。私は、あなたのやり方を認めたわけではない。あなたの存在が、帝国にとって善であるとも思わない。しかし、今、この瞬間において、帝国を裏切ったバルツァー伯爵は、我々共通の『敵』です」
それは、彼女なりの宣戦布告であり、そして、アッシュに対する協力の申し出だった。彼女の感情ウィンドウには、「正義感:100」「怒り:95」という、混じり気のない純粋な光が輝いていた。
アッシュは、セレスティアの申し出に、静かに頷いた。
「貴女ほどの魔導師が味方に加わってくれるなら、百人力だ。感謝する」
アッシュとセレスティア。水と油のように反発し合っていた二人の間に、初めて共通の目的が生まれた瞬間だった。
アッシュは、絶望に沈む一同を見回した。
「確かに、戦力差は絶望的だ。正面からぶつかれば、我々に勝ち目はない。だが」
彼は、地図の上で駒を動かすように、指を滑らせた。
「戦争は、数だけで決まるものではない。地形、天候、情報、そして、敵の『心』。使えるものは全て使う。俺の戦場で、敵に思う通りの戦いをさせてやると思うな」
その声には、不思議な力が宿っていた。千の軍勢を前にしても、微塵も揺るがない、絶対的な自信。
絶望の淵にいた義勇兵たちの心に、再び小さな希望の火が灯り始めた。
「ガイウス殿。兵の訓練を最終段階に入れろ。ブロック、村の防衛設備の構築を急げ。ギムリ、ありったけの鉄で、最高の武具を作れ」
アッシュは、次々と指示を飛ばす。その姿はもはや、ただの少年ではない。国家間の戦争という巨大な嵐を前に、冷静に舵を取る、冷徹な指揮官の姿だった。
「ここが、我々の正念場だ。ヴァイスラントの存亡をかけた、最初の、そして最大の戦いが始まる」
アッシュの言葉を合図に、北の果ての小さな共同体は、帝国最強の敵を迎え撃つべく、一つの巨大な意志となって動き始めた。彼らの前には、絶望的な戦いが待ち受けている。だが、その瞳には、もはや諦めの色はなかった。
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「あの忌々しい小僧め……!」
バルツァーは、全ての原因をアッシュという存在に押し付け、憎悪を募らせていた。嫉妬の炎は、彼の理性を焼き尽くそうとしている。
その時、執務室の隠し扉が静かに開いた。現れたのは、フードで顔を隠した長身の男だった。その男が纏う空気は、この帝国のものとは明らかに異質だった。
「……首尾は、どうだ」
バルツァーが、低い声で尋ねる。
「ご安心を、伯爵閣下」
フードの男は、抑揚のない声で答えた。
「我がグランツ帝国は、貴殿との盟約を歓迎いたします。閣下が、我が軍を領内に引き入れる手引きをしてくださるならば、ヴァイスラントを蹂躙した後、その土地と富は全て貴殿のものとなるでしょう」
グランツ帝国。帝国の東に国境を接する、長年の宿敵。その国の密使と、バルツァーは手を結ぼうとしていた。私的な嫉妬と欲望のために、自国を裏切る。それは、貴族として、いや人として決して越えてはならない一線だった。
「……本当に、帝国に気づかれずにやれるのか」
バルツァーの声には、僅かな「恐怖」が混じっていた。
「無論です。全ては、貴領内で起きた盗賊団の暴走として処理されます。我らは、ただそれを鎮圧するために手を貸す、善良な隣人に過ぎません。帝国中央が事態を把握する頃には、全ては終わっておりますよ」
密使の言葉は、悪魔の囁きのように甘美だった。バルツァーの心の天秤で、売国への恐怖と、アッシュへの憎悪、そしてヴァイスラントの富への欲望が揺れ動く。そして、その天秤は、あっけなく後者へと傾いた。
「……よかろう。契約成立だ」
バルツァーは、自らの破滅へと繋がる契約書に、震える手で署名した。
その数日後。ヴァイスラントの領主の館に、一羽の伝書鳩が舞い込んだ。その足に結びつけられた小さな筒を、ジョセフが受け取り、急いでアッシュの元へと運ぶ。それは、バルツァー領に潜入している密偵カイルからの、緊急報告だった。
アッシュは、執務室で密書を広げた。その内容に目を通すうち、彼の赤い瞳が、氷のように冷たい光を帯びていく。
「……愚かな豚め。ついに、最悪の選択をしたか」
密書には、バルツァー伯爵がグランツ帝国の密使と接触し、軍を領内に引き入れようとしているという、衝撃的な事実が記されていた。この情報は、騎士団長ダリウスを通じてカイルにもたらされたものだった。
閑職に追いやられたダリウスは、逆に伯爵の監視の目から自由になっていた。彼は、騎士としての最後の誇りをかけて、主君の不穏な動きを独自に探っていたのだ。そして、城内で密会するグランツ帝国の密使の姿を目撃し、その事実をカイルに伝えた。それは、自らの命を危険に晒す、覚悟の告発だった。
「すぐに全員を集めろ。緊急の軍議を開く」
アッシュの命令で、館の作戦司令室に主要メンバーが召集された。回復途上のガイウス、サイモン、ボルグ、ギムリ、ブロック。そして、客人の身であるセレスティアも、その場に呼ばれた。
アッシュは、カイルからの密書の内容を、淡々と読み上げた。
「――バルツァー伯爵、グランツ帝国と密約。ヴァイスラント侵攻のため、領内に敵軍を引き入れる、と」
その言葉が響いた瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
「なっ……なんだと!?」
ボルグが、信じられないという顔で叫んだ。
「売国だと!?あの伯爵、気でも狂ったか!」
彼の感情が「怒り」と「驚愕」で爆発する。
サイモンは、顔面蒼白になっていた。
「帝国への反逆……。これは、もはや我々だけの問題ではない。国家の危機だ」
彼の「危機感」は、最高潮に達していた。
「敵の戦力は?」
ベッドから起き上がり、杖を突きながら軍議に参加したガイウスが、低い声で尋ねた。その顔色はまだ悪いが、瞳には将軍としての鋭い光が戻っている。
「グランツ帝国が動かすのは、国境警備軍の一部。およそ千。対する我々の兵力は、義勇兵五十名。話にならん」
アッシュは、残酷な現実を突きつけた。
部屋を、重い絶望が支配した。千対五十。それは、戦いですらなく、一方的な蹂躙を意味する数字だった。
「どうすりゃいいんだ……」
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義勇兵を代表して参加していた若者たちが、青ざめた顔で囁き合う。
その時まで、黙って話を聞いていたセレスティアが、静かに立ち上がった。彼女の翡翠色の瞳は、怒りの炎で燃え盛っていた。
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その声は、凛として、迷いがなかった。
「バルツァー伯爵の行為は、帝国そのものへの裏切りです。貴族として、そして帝国魔導師団の一員として、断じて見過ごすことはできない」
彼女は、アッシュをまっすぐに見据えた。
「アッシュ・フォン・ヴェルヘイム。私は、あなたのやり方を認めたわけではない。あなたの存在が、帝国にとって善であるとも思わない。しかし、今、この瞬間において、帝国を裏切ったバルツァー伯爵は、我々共通の『敵』です」
それは、彼女なりの宣戦布告であり、そして、アッシュに対する協力の申し出だった。彼女の感情ウィンドウには、「正義感:100」「怒り:95」という、混じり気のない純粋な光が輝いていた。
アッシュは、セレスティアの申し出に、静かに頷いた。
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アッシュとセレスティア。水と油のように反発し合っていた二人の間に、初めて共通の目的が生まれた瞬間だった。
アッシュは、絶望に沈む一同を見回した。
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その声には、不思議な力が宿っていた。千の軍勢を前にしても、微塵も揺るがない、絶対的な自信。
絶望の淵にいた義勇兵たちの心に、再び小さな希望の火が灯り始めた。
「ガイウス殿。兵の訓練を最終段階に入れろ。ブロック、村の防衛設備の構築を急げ。ギムリ、ありったけの鉄で、最高の武具を作れ」
アッシュは、次々と指示を飛ばす。その姿はもはや、ただの少年ではない。国家間の戦争という巨大な嵐を前に、冷静に舵を取る、冷徹な指揮官の姿だった。
「ここが、我々の正念場だ。ヴァイスラントの存亡をかけた、最初の、そして最大の戦いが始まる」
アッシュの言葉を合図に、北の果ての小さな共同体は、帝国最強の敵を迎え撃つべく、一つの巨大な意志となって動き始めた。彼らの前には、絶望的な戦いが待ち受けている。だが、その瞳には、もはや諦めの色はなかった。
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