無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第九十三話:届かぬ声、届いた温もり

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「アッシュ様……」

リリアはゆっくりと、一歩、また一歩と狂気の嵐の中心へと歩みを進めていた。彼女の周りを、暴走するアッシュと虚無の導師が放つエネルギーの余波が刃のように吹き荒れる。だが、彼女は怯まなかった。その小さな体には、傷だらけの仲間たちにも、そしてアッシュ自身にさえも理解できない絶対的な覚悟が宿っていた。

「リリア、危ない!戻れ!」
セレスティアの悲鳴に近い制止の声が飛ぶ。
ガイウスも彼女を止めようと手を伸ばしかけた。だが、彼はその手を下ろした。リリアの横顔に浮かぶ表情を見て、彼は悟ったのだ。彼女はもはや誰にも止められない。そして、もしかしたらこの絶望的な状況を覆せる唯一の存在が彼女なのかもしれないと。

リリアの耳には、仲間たちの声は届いていなかった。
彼女の世界には、ただ一人、闇に飲まれ苦しんでいる主の姿があるだけだった。

(……痛い……)
リリアは、自分の胸がまるで引き裂かれるように痛むのを感じていた。
それは壁に叩きつけられた物理的な痛みではない。
アッシュが苦しんでいる。独りで、暗闇の中で泣いている。
彼女の獣としての共感能力が、暴走するアッシュの魂の叫びを痛いほどに感じ取っていた。

彼は拒絶した。自分に触るな、と。
でも、それは本心じゃない。
本当は助けてほしいと叫んでいる。誰かにこの苦しみから救い出してほしいと願っている。

(……私が、行かなきゃ)

誰にも彼の声は届かない。
セレスティア様の正義の声も、ガイウス様の忠義の声も、今の彼には届かない。
なぜなら彼は誰も信じていないから。心の奥底でずっと独りだったから。
奴隷だった自分と同じ。

でも、私は知っている。
アッシュ様が、本当はとても優しい人だってことを。
私に温かいスープをくれた。
私にメイド服をくれた。
私にふかふかの寝床をくれた。
そして、私の力を信じて「護衛」という大切な役目をくれた。

彼は私を独りじゃなくしてくれた。
だから今度は、私が彼を独りにさせない。

リリアは、暴走するアッシュのがら空きの背後にたどり着いた。
アッシュは彼女の気配に気づいていない。彼の全ての意識は、目の前の敵、虚無の導師を破壊することだけに集中していた。

リリアは深呼吸を一つした。
そして、その小さな両腕を大きく広げた。

彼女は、アッシュの背中を強く、強く抱きしめた。

その瞬間。
アッシュの体を駆け巡っていた黒い破壊衝動の嵐が、ぴたりと止まった。
背中に触れた小さな温もり。
それはあまりにも場違いで、あまりにも柔らかく、そして、あまりにも温かかった。

『……なんだ……これは……?』
アッシュの狂気の意識の中に、一つの純粋な感情が流れ込んできた。
それは怒りでも、憎しみでも、絶望でもない。
これまで彼のスキル【感情経済】が一度も正確に測定できたことのない、規格外の感情。

『リリア・感情ステータス:愛情 測定不能』

測定不能。
それは彼の理解と計算を完全に超えた領域の力だった。
それは見返りを求めない。損得を考えない。ただ、相手の存在そのものを肯定する力。
彼女が奴隷としてではなく、一人の少女としてアッシュに対して抱いた、純粋で、そして強大な想い。

「アッシュ様」
リリアはアッシュの背中に顔を埋め、囁いた。
「もう大丈夫です。あなたは独りじゃありません。私がここにいます」

その言葉と背中の温もりが、アッシュの精神の最も深い部分にゆっくりと染み渡っていく。
前世の孤独な記憶も、この世界での絶望も、復讐の果ての虚無も。その全てを彼女の温かさが優しく包み込んでいく。

アッシュの赤い瞳から、一筋、涙が零れ落ちた。
それは彼が二つの人生を通じて、初めて流した本物の涙だった。

彼の体から黒いオーラが、まるで朝霧が晴れるようにすうっと消えていった。暴走していたスキルが再び彼の制御下へと戻ってくる。
流れ込んできていた百万の民の負の感情は、もはや彼を飲み込む濁流ではなく、彼が制御できる膨大なエネルギーの奔流となっていた。

「……リリア……」
アッシュはかすれた声で彼女の名を呼んだ。

「……おかえりなさい、アッシュ様」
リリアは顔を上げ、涙で濡れた顔で最高の笑顔を見せた。

届かなかった、どんな英雄の言葉も。
届いたのは、たった一つの少女の温もりだった。
その温もりこそが、最強の悪魔を再び一人の人間に引き戻した唯一無二の奇跡だった。
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