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1巻
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第一話 狐の嫁入り ~祝いの和菓子~
卯月の終わり――ぱらぱらと軽い音を立てて雨が降るのを硝子越しに眺めていた。
時折、強く吹く風が硝子戸を叩き、ガタガタ音を鳴らす。透明な硝子に雨の雫が張りつく。巷ではまだ高価で珍しい硝子を使った店の出入り口。
わずかに歪んだ硝子を通して見えるのは、石畳の通りだ。石畳の上で雨粒が白く跳ねている。俺は雨粒を数えながら微睡んだ。
湿気で陳列台の木の香りが微かに漂い、それがまた心地よい。
遠くで雷のゴロゴロという音が聞こえ、うっすらと目を開けた。
俺の名は千年屋安海。
『名前をやすみとつけたのが悪かった』と親が後悔するほどの怠け者である。
そんな俺は和菓子屋の三代目。千年屋店主として働く――こともある。
「今年の春は雨が続くな……」
ニャアと猫が鳴く声が聞こえたような気がして、椅子から立ち上がった。重い腰も猫に呼ばれると、反射的に動いてしまうのだから不思議だ。
裏の勝手口へ向かう。
本日、俺の仕事は猫のエサやりのみ――それで終わりだ。
猫にエサをやったら、俺は雨の降る庭を縁側から眺めて昼寝でもしよう。
桜は終わってしまったが、庭のツツジが朱や白、赤の花を咲かせ、庭を彩る。今が一番の見頃だ。
和菓子職人たる者、美意識を高めるため、花を愛でるのは大事なことだ。たとえ、それが昼寝目的だとしても。
味噌汁の出汁に使った煮干しを小皿に取り、雨宿りしていた黒猫にやった。
今日の俺は頑張った。ちゃんと動いた。
「よし! 今日は人間らしい活動をしたぞ!」
毎朝やってくるこの黒猫は野良だと思うが、艶やかな黒の毛並みに緑色の瞳をしている。
こいつはどこかで飼われているのかもしれない。
野良のわりに丸々と太っていて、やたら綺麗な猫だ。
もしや、俺よりいいものを食べているのでは――いやいや、まさかな?
太り気味な黒猫は煮干しを食べ終わると、ぷいっと明後日のほうへ顔を向けた。
「おい……。そこは感謝の気持ちを表せよ」
エサをやっても喜ぶどころか、『ごくろうさん』とでもいうように、尻尾をちょっとだけ振って去っていった。
愛想のカケラもない猫だ。しかし、その堂々たる背中は嫌いじゃない。
無駄な愛嬌は振りまかぬ。
それが猫の生きざまというものだろう。
俺には俺の生き方がある。とくと見よ。俺の生きざまを!
「さて。昼寝をするか」
綿入り座布団をいそいそと手にした瞬間、店の硝子戸が開け放たれた。店内に湿った空気が一気に流れ込んだ。空気だけなら良かったが、余計なものまで入ってきてしまったようだ。
「なにが昼寝だ。この無気力店主。働けよ」
「お前は知らないだろうが、今、俺は猫のエサやりという重大な任務を果たしたばかりだ」
「おおげさに言えば許されると思っているだろ。まだ正午のドンも鳴っていないってのに、とんだ怠け者だ」
正午のドンとは昼時を知らせてくれる大砲の音だ。
その正午のドンも鳴らないうちにやってきたのは一之森有浄という男で、俺の幼馴染だ。
近所の神社で神主を生業としている。
有浄は俺と会話をしながら、黒いコウモリ傘の雨粒を払い、店先でたたむ。そして、外の軒下にある竹の長椅子の横に立てかけた。
そして後ろ手で硝子戸を閉めると、無言で俺と向かい合い、目で会話する。
無言の会話も幼馴染ならではだ。
『今すぐ帰れ』
『お断りだ』
有浄は目を細め、にっこりと微笑んだ。
――くそっ! こいつ……できる!
長居するつもりでいるのか、帰る意思が見られない。チッと心の中で舌打ちをした。
「おい、有浄。なぜ俺の昼寝宣言が、店の外にいるお前に聞こえたんだ?」
「俺は陰陽師だからね」
出たよ、自称陰陽師。
「あー、そういう胡散臭いのは間に合ってるんで」
有浄はちょっとばかり……いや、かなり他の人間よりも変わっている。
明治が終わり、大正の世になったとはいえ、まだまだこの辺じゃ着物姿が主流。そんな中でも有浄はジャケットにベスト、ワイシャツとネクタイという西洋風の服装をしている。
正直、神主の装束姿より洋装姿のほうが馴染んで見え、『お前は外務省のお役人か貿易商かよ』とツッコミを入れたくなるほどだ。お前こそ、いつ神主の仕事をしているんだよ。
まあ、百歩譲って洋装は良しとしよう。個人の趣味嗜好だしな。だが、自称陰陽師はどうなんだ。胡散臭い上に怪しすぎるだろう。幼馴染でなければ、とっくに店の外へ追い出していた。
「悩み事があれば、陰陽師の俺に相談するといいよ」
「帰れ」
即決即断。俺の昼寝を邪魔する奴はすべて敵だ。
「俺を押し売り扱いするなよ」
「押し売りのほうがまだマシだ。もっと言えば、押し売りのほうが、俺にとって無害だ」
「うまい冗談だね。俺も無害だよ?」
なにが無害だ。どの口が言ってるんだ。微笑んだ有浄の顔にイラッとした。
「この間、俺はお前と女の痴話喧嘩に巻き込まれたよな。それに対する謝罪は?」
「痴話喧嘩じゃない。ちょっとした別れ話のもつれだ」
なにが『ちょっとした』だ。その日は雲一つない快晴だったというのに、急に雨が降り出した。さらに雷まで伴う大雨になり、強風まで吹き始めた。
天候を左右できる女は人間か?
それとも――いやいや、俺は絶対に関わらないと決めている。だから、余計なことを聞くつもりはない。
「美人だっただろ?」
「そうだな。お前と少し似ていたかもな」
有浄は日本人離れをした容姿をしている。色素の薄い瞳と髪、そしてすらりとした長身、近所でも評判の美男子だ。
赤ん坊の頃から、ぼんやり顔と言われている俺と大違いだ。
しかし、残念ながら有浄は陰陽師を自称しているせいで、胡散臭い男と思われ、『ぜひ、うちの娘を嫁に』という定番の流れにはならない。その有浄は長居をするつもりらしく、かぶっていた黒のフェルト帽を取った。
「おいおい、また新しい帽子を買ったのか? こないだの帽子は茶色だったよな?」
「いいだろ。これ、イギリス製のフェルト帽でさ」
有浄がノリノリでフェルト帽自慢を始めそうになったのを手で制した。ここで止めなくては話が長くなる。
「帽子の話はいい。けど、神主が洋装ってどうなんだろうな」
「和菓子屋が書生姿っていうのもどうなんだよ」
俺と有浄はお互いの服装を見た。お互い本業から大きくかけ離れた格好だ。
「誤解されがちだけど、神主の時はきちんと装束を着ているからな? 多数の女性から装束姿も素敵ですっていう感想が山ほどきている」
「きてねーよ」
神主の時はってなんだよ。お前の自称陰陽師は仕事なのかよ。しかも、どさくさに紛れて、『装束姿も素敵』って言うな。
「お前の知らないところで女性に人気なんだよ」
「なにが人気だ。人間じゃねーだろ。人間に好かれろよ」
人間ならまだしも、こいつの場合は人間じゃない奴との付き合いが多すぎる。人間なのか、それとも違うものなのか、ぱっと見ただけではわからない。だが、有浄にはわかる。
だから、自称陰陽師なのだろうが――
「まぁ、安海。安心しろ。お前が作る和菓子は評判がいい。俺には負けるけど、人気はあるよ」
「人間にな」
「いや、あやかしに」
「そういう胡散臭いお客様は当店ではお断りしております」
「客を選ぶなよ」
「選ばせろよ」
俺の商売相手は人間のはずだ。人間以外のものが集まる原因は有浄だ。
「わがままだな。あ、わかったぞ。頑固な職人は客を選ぶからだな」
「誰が頑固な職人だ!」
頑固な職人――それは俺のじいさんだ。道具を探し求め、全国を旅した和菓子職人の祖父。千年屋の初代店主は、和菓子に対する熱い情熱を持っていた。
俺はそんなじいさんの血を引いているはずなんだが、どこでどう間違えたのか、三代目無気力職人。俺、誕生。
「まあ、いい。茶と菓子を一つもらおうか」
「ない」
「……ここは和菓子屋だよな?」
「和菓子屋だ」
「商品のない和菓子屋が和菓子屋を名乗っていいと思うな!」
木製の陳列台には大福の一つ、団子の一本も並んでいなかった。だが、俺は堂々としていた。なぜなら、やましいことなど、なに一つないからである。
「ちゃんと看板が出ているだろ? 千年屋ってな」
「看板を出しておけば、商品がなくても許されるとでも? 安海の両親は働き者なのに、どこをどう間違って、こうなったんだよ!」
両親は数年前に大陸へ渡り、上海で饅頭を売っている。
働き者の両親は上海で成功し、知り合いも増え、なかなかの暮らしぶりだとか。そんな両親から生まれた俺は働き者――にはならず、だらだらと生きていた。
「きっと安海っていう名前のせいだな」
「なるほど。安海だけに休みってことか」
「まあな。じゃ、そういうことで」
「いやいやいや、待てよ!」
俺がいそいそと座布団を抱え、奥の茶の間で昼寝をしようとしたのを有浄が止めた。
「お前の和菓子はあやかしに評判がいいんだよ。なにかないか?」
「……あやかしより人間相手に評判になりたいよ、俺は」
「なら、店を開けろ。それが嫌なら、あやかし相手に金稼ぎをしろ」
めちゃくちゃなことを言う有浄に、俺は座布団を盾のように構えて答えた。俺の安眠を守護する座布団よ、お前は俺の心の盾。
「わかった。とりあえず、昼寝をしてから考えよう。じゃあな、有浄。早く帰れよ」
やる気なし。今日の俺は昼寝をすると決めている。
座布団を抱え、立ち去ろうとした。だが、その瞬間、有浄は座布団を俺の手から叩き落として蹴り上げた。座布団が宙を舞う。
「あ……」
ちょうど店の硝子戸が開き、俺は短く声を上げた。
座布団を救うために、そいつは現れたと言っていい。
「むぶっ!」
和菓子を購入しに来た客――ではなく、幼馴染その二、兼岡兎々子の顔面に座布団がぶつかった。
「兎々子ちゃん。タイミングいいなぁ」
座布団を蹴り上げた張本人である有浄は、少しも悪びれた様子がない。顔面で座布団を受け止めた兎々子に大笑いしているのを見た時、俺は本気で、こいつを出入り禁止にしてやろうかと思った。
なにが起きたかわかっていない兎々子は、キョトンとした顔で周囲を見回し、首を傾げた。
「どうして、座布団が飛んできたの?」
兎々子は鼻をさする。俺の大切な相棒、座布団を雨で濡れた地面に落ちないよう受け止めてくれた。
「有浄の仕業だ。兎々子、学校は?」
「今日の授業は午前で終わりだったの」
銘仙の着物は矢絣柄、海老茶の袴にブーツ、髪に大きなリボンをつけている。服装からわかるように兎々子は女学生だ。
有浄よりもマトモそうに見えるが、兎々子も俺にとっては迷惑度の高い存在である。無自覚な分、有浄よりタチが悪い。
「ありがとう。兎々子。俺の相棒を助けてくれて」
兎々子の手から座布団を受け取った。
「そして、さようなら」
そのまま外にぐいぐい押し出そうとすると、兎々子が猛烈な抵抗を見せた。
「なんでーっ! 私、お客様なのに!」
有浄のコウモリ傘の隣に和傘が置いてある。まだ雨は続いている。雨の中、女性を放り出すのか。そう思われるかもしれない。だが!
「悪いが俺は俺の平和を守り抜く! 断固として! 和菓子屋だけに団子としてな」
俺の渾身のネタを披露した。だが、有浄と兎々子には不評だった。
二人に冷たい目で見られ、気まずくなった俺はふいっと目を逸らす。お愛想で笑ってくれるような優しさはないようだ。
「そういうの考えなくていいから、安海ちゃんは和菓子を頑張ればいいと思うの」
「完全に同意」
「うるせーよ」
まっとうじゃない二人にまっとうなことを言われる俺。
「あーあ。せっかく和菓子を食べようと思ってきたのに陳列棚がからっぽか」
有浄はがっくりと肩を落とした。
「今日は作る気分じゃなかった」
「お前はどこぞの気難しい芸術家か。俺の甘いものを食べたい気分をどうしてくれるんだ」
「え? 有浄さんは甘いものを食べたいの? ちょっと待ってね」
兎々子が着物の袂をごそごそ探り、黄色い箱を取り出した。その黄色の箱の正体は、子供から大人まで大好きなお菓子。
「ああ、ミルクキャラメルだね!」
箱入りのミルクキャラメルは、今流行りのお菓子で、偽物まで出回る始末。箱を見ただけでわかる有浄もミルクキャラメルの虜なのだろう。
「和菓子がないなら他のお菓子を食べればいいじゃない」
兎々子は得意顔でそんな台詞を言って、ミルクキャラメルをバーンと見せた。
「なんだ、こいつ。やっぱり帰れ」
「えーっ! どうしてー!」
和菓子屋に和菓子を買いに来て、ミルクキャラメルを自慢する幼馴染。なにがお客様だ。これは敵襲だろ。
「だいたい洋食屋の娘が和菓子屋になんの用だ。冷やかしにでもきたか」
「冷やかしじゃないよー! 私の家は洋食屋だけど、朝ごはんはお味噌汁必須で納豆も食べるし、たくあんだって大好きな、完全な和食派なんだから!」
「うっわ。洋食じゃないんだ。それもどうなんだろうな」
洋食屋の朝はパンとオムレツを食べているとでも思っていたのか、有浄はショックを受けていた。有浄は洋装を好んでいるだけあって洋食好きの西洋かぶれ。兎々子の父親がやっている洋食屋『カネオカ』にもよく足を運んでいる。
「まあまあ。お一つ、あげましょう」
兎々子は俺と有浄の手のひらにミルクキャラメルを一粒ずつのせた。ちょうど小腹が空いていたので、紙をぺりぺり剥がして口の中へ放り込む。
ふむ、これがミルクキャラメルか。甘くて香ばしい味がする。
「うまいな」
兎々子を追い出そうとしていた俺だが、話題のミルクキャラメルをご相伴にあずかり、少し反省した。
「人気すぎて、偽物が出回るのもわかるよ」
兎々子はミルクキャラメルを口に入れ、有浄の言葉にうなずいた。
「でも、これは正真正銘の本物よ。百貨店で買ったんだから、間違いないわ」
「やだなぁ。兎々子ちゃん。百貨店で買ったからといって本物とは限らないよ」
「有浄さんはいつもそうやって茶化して。素直じゃないっていうか、疑り深いっていうか……」
「疑ってかかったほうがいいに決まってる。人の形をしたものが人であるとは限らない」
有浄がおかしなことを言い始めた瞬間、店の硝子戸がガタガタと鳴った。俺の気のせいでなければ、雨が激しくなったような気がする。さっきまでうっすら射していた日の光が陰り、店の中が薄暗くなった。
「おい、有浄。お前のせいだぞ。変なことを言うから客が来た」
「お客様は大歓迎ってね」
「普通の客ならな」
有浄はにこにこしていた。そんな笑顔で歓迎するような客じゃない。
雨に濡れた硝子戸に、歪んで映る人の影。いつの間にか、店の前に女性が一人立っていた。徐々にその姿が明らかになっていく。切れ長の目に涼し気な目元、妖艶な雰囲気。
たぶん、あれは人間じゃない。だから嫌なんだ。この二人を店に入れるのは――うんざりした気持ちで、店の前に立っている客を眺めた。
「呼んだ責任を取れ」
「俺が呼んだわけじゃないよ。ここが千年屋だからやってくる。さあ、お客様を招こうか!」
「今すぐにでも鍵をかけたいよ、俺は」
できれば、招きたくない。
店先に和傘を差して立っている女性は、見るからに怪しげだ。どこが怪しいのかというと、草履が濡れておらず、泥が跳ねた様子もないことだ。雨の中、ここまで歩いてきたのなら、着物と草履が多少なりとも濡れているはずだ。しかし新品のように美しい。これは、どう考えてもおかしい。
見惚れるほどの美人なのだが、どこか狐に似ていて、警戒心の強い俺は、素直に彼女を受け入れることができなかった。幼い頃から、トラブルに巻き込まれ続けて二十年以上。有浄と兎々子に警戒心を鍛えられた俺は、美人を見ても素直に喜べないひねくれものになってしまったというわけだ。
「うわぁ、美人さん! それに素敵な着こなし……」
兎々子には人間に見えるようだ。
妖艶な女性の髪型は流行りの耳隠しにべっ甲のかんざし。赤い紅を唇に差し、白い藤の絵が描かれた黒地の着物は半襟を大きく覗かせ、今風に着こなしている。口元にはホクロが一つある。それが印象的だった。
女性は和傘を閉じると、兎々子の傘の隣に置き、店に一歩足を踏み入れた。俺の平穏がさらに遠のき、がっくり肩を落とした。
「こんにちは」
「あいにく今日は休みでして」
無駄な抵抗だとわかっていても、なんとか女性を追い返そうと足掻いた。そんな俺の心を見透かしたように、女性は口元に袖をあて、くすりと笑った。
「ここはいつもお休みですこと。ねぇ? 有浄様?」
「やっぱり有浄の知り合いか!」
じろりと有浄を睨みつけた。だが、有浄は俺の鋭い視線をハエ程度にしか思っていないのか、にこにこ笑い、気にした様子がない。
兎々子は俺の着物の袖をぐいっと引っ張って、目の前の妖艶な女性を目で指して、小声で言った。
「ねえねえ。安海ちゃん。すっごい美人さんよね。もしかして、有浄さんの恋人?」
どこをどう見たらそうなる。恋愛に繋げる前に、もっと警戒しろよと俺は言いたい。
だが、兎々子は現役の女学生だけあって恋愛話が大好きだ。憧れの先輩から手紙の返事をいただいたと大騒ぎしたり、少女雑誌を持ってきて、恋愛小説を読ませてきたりと、俺に恋愛のなんたるかを説いていく。
今、兎々子には贔屓にしている恋愛小説家がいるらしく、わざわざ人気画家の便箋まで買って手紙を送るのだと、得意顔で言っていたのを思い出す。しかし、手紙を送るのに新しい便箋まで買わなくてもいいのではと思う。なぜなら、兎々子は行く先々で便箋や葉書を購入し、山ほど持っているからだ。『前に買ったものから使えよ』と、俺が一言言っただけで、『朴念仁』と怒られた。そんな怒られるようなことか?
兎々子に言わせると俺は恋愛に関しては尋常小学校に通う子供以下の朴念仁らしい。
朴念仁――まあ、それは百歩譲って認めよう。だが兎々子、お前の目は節穴か?
女性は女性でも、それが人間とは限らない。人間かどうかくらいは、せめて見極めてくれ。
「私が浮気者な有浄様の恋人なんてご冗談を」
俺が答えられずにいると、女性が代わりに答えてくれた。そして、有浄は即座に反論する。
「俺が浮気者なんて人聞きが悪いな。俺は浮気者じゃないよ? ただちょっとばかり女性が集まりやすいだけなんだ」
「人間以外のな」
「おっと、安海。俺の人気に嫉妬かな?」
有浄は額にかかる髪を手で払い、にやりと笑った。それが彼女の気に障ったらしく……いや、俺の気にも障ったが、女性の目が鋭くなった。思わず、俺は有浄の背中をどんっと手で押した。
「俺は関係ない。こいつのことは煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」
「おい、親友」
「違う。腐れ縁だ。勝手に親友呼ばわりするな」
そして、俺と親しげに肩を組むな。迷惑そうに有浄の手を拒んでいると、女性は目を細めてほほっと笑う。ますます狐のように見えてきた。
「ご安心くださいな。私は千年屋さんをよく存じておりますの。それこそ、初代が店を開いた頃からのお付き合いですからね。お二人の関係もちゃんと理解しております」
「すごーい! おじいちゃんの頃からのお客さんなんて、ありがたいよね? 安海ちゃん!」
兎々子は嬉しそうに手を叩いたが、俺は素直に喜べなかった。
じいさんが店を開いた頃からの客だと言った。だが、目の前の女性の外見年齢は二十代後半か三十代前半。なぜ、年を取っていないんだ。少しは疑問に思えよ、兎々子。
女性の年齢は聞くなってのは本当だなと思った。
俺はあえて、今の言葉を聞かなかったことにした。なぜなら、俺は有浄とは違う。自称陰陽師などと、胡散臭い肩書きを名乗っていない。ただの無力な和菓子屋だ。
「そうだな。ありがたいな。じゃ、俺はこれから昼寝をするんで」
ここで全員、まとめて追い出そう。俺はそう決めた。だが――
「今日は特別な注文をお願いしに来たんですの」
「特別? いや、そういう注文は引き受けてな……いてっ!」
断るつもりが、有浄が俺をどんっと肘でつついた。それもけっこう強めで。
「実はね、八十八夜の後に、私の嫁入りがあるんですよ」
「わぁー! お嫁入り! おめでとうございます!」
兎々子がぱちぱちと手を叩いてお祝いの言葉を述べた。
八十八夜。つまり立春から数えて八十八日目ってことだ。
あと数日しかない。
春から夏に変わる季節。さわやかに吹く風の中、縁側で昼寝をする俺の姿が目に浮かぶ。昼寝をするには快適な時季だが、嫁入りにもちょうどいいのかもしれない。
「嫁入りはわかったが、急な注文は困る」
「あらあら。よろしいんですの?」
「ん?」
「昔、近所の柿の木から落ちたのを助けたでしょう」
「え、いや……」
「安海さんが川で溺れそうになって、岸まで運んだのをお忘れですか?」
「どうしてそれを?」
有浄と兎々子が俺からスッと目を逸らす。おい、諸悪の根源。
「いや、あのな。そもそも釣りに誘ったのが有浄で、柿が食べたいと言ったのが兎々子なんだが」
有浄の釣竿が流れていったのを見た俺は、釣竿を拾おうとして川岸から落ちて深みにはまった。それが運の尽き。うっかり釣竿ごと流されてしまった。だが、運良く岸に流れ着いた。
俺が柿の木から落ちたのは、兎々子が町内で一番うまい柿があると言い出したのが発端だ。嫌がる俺を無理矢理連れていき、人の家の柿の木に登らせた。
木登りは苦手だったが、兎々子を登らせるわけにはいかないと思ったのだ。だが、木から落ちた瞬間、やっぱり登らなければ良かったと後悔した。
卯月の終わり――ぱらぱらと軽い音を立てて雨が降るのを硝子越しに眺めていた。
時折、強く吹く風が硝子戸を叩き、ガタガタ音を鳴らす。透明な硝子に雨の雫が張りつく。巷ではまだ高価で珍しい硝子を使った店の出入り口。
わずかに歪んだ硝子を通して見えるのは、石畳の通りだ。石畳の上で雨粒が白く跳ねている。俺は雨粒を数えながら微睡んだ。
湿気で陳列台の木の香りが微かに漂い、それがまた心地よい。
遠くで雷のゴロゴロという音が聞こえ、うっすらと目を開けた。
俺の名は千年屋安海。
『名前をやすみとつけたのが悪かった』と親が後悔するほどの怠け者である。
そんな俺は和菓子屋の三代目。千年屋店主として働く――こともある。
「今年の春は雨が続くな……」
ニャアと猫が鳴く声が聞こえたような気がして、椅子から立ち上がった。重い腰も猫に呼ばれると、反射的に動いてしまうのだから不思議だ。
裏の勝手口へ向かう。
本日、俺の仕事は猫のエサやりのみ――それで終わりだ。
猫にエサをやったら、俺は雨の降る庭を縁側から眺めて昼寝でもしよう。
桜は終わってしまったが、庭のツツジが朱や白、赤の花を咲かせ、庭を彩る。今が一番の見頃だ。
和菓子職人たる者、美意識を高めるため、花を愛でるのは大事なことだ。たとえ、それが昼寝目的だとしても。
味噌汁の出汁に使った煮干しを小皿に取り、雨宿りしていた黒猫にやった。
今日の俺は頑張った。ちゃんと動いた。
「よし! 今日は人間らしい活動をしたぞ!」
毎朝やってくるこの黒猫は野良だと思うが、艶やかな黒の毛並みに緑色の瞳をしている。
こいつはどこかで飼われているのかもしれない。
野良のわりに丸々と太っていて、やたら綺麗な猫だ。
もしや、俺よりいいものを食べているのでは――いやいや、まさかな?
太り気味な黒猫は煮干しを食べ終わると、ぷいっと明後日のほうへ顔を向けた。
「おい……。そこは感謝の気持ちを表せよ」
エサをやっても喜ぶどころか、『ごくろうさん』とでもいうように、尻尾をちょっとだけ振って去っていった。
愛想のカケラもない猫だ。しかし、その堂々たる背中は嫌いじゃない。
無駄な愛嬌は振りまかぬ。
それが猫の生きざまというものだろう。
俺には俺の生き方がある。とくと見よ。俺の生きざまを!
「さて。昼寝をするか」
綿入り座布団をいそいそと手にした瞬間、店の硝子戸が開け放たれた。店内に湿った空気が一気に流れ込んだ。空気だけなら良かったが、余計なものまで入ってきてしまったようだ。
「なにが昼寝だ。この無気力店主。働けよ」
「お前は知らないだろうが、今、俺は猫のエサやりという重大な任務を果たしたばかりだ」
「おおげさに言えば許されると思っているだろ。まだ正午のドンも鳴っていないってのに、とんだ怠け者だ」
正午のドンとは昼時を知らせてくれる大砲の音だ。
その正午のドンも鳴らないうちにやってきたのは一之森有浄という男で、俺の幼馴染だ。
近所の神社で神主を生業としている。
有浄は俺と会話をしながら、黒いコウモリ傘の雨粒を払い、店先でたたむ。そして、外の軒下にある竹の長椅子の横に立てかけた。
そして後ろ手で硝子戸を閉めると、無言で俺と向かい合い、目で会話する。
無言の会話も幼馴染ならではだ。
『今すぐ帰れ』
『お断りだ』
有浄は目を細め、にっこりと微笑んだ。
――くそっ! こいつ……できる!
長居するつもりでいるのか、帰る意思が見られない。チッと心の中で舌打ちをした。
「おい、有浄。なぜ俺の昼寝宣言が、店の外にいるお前に聞こえたんだ?」
「俺は陰陽師だからね」
出たよ、自称陰陽師。
「あー、そういう胡散臭いのは間に合ってるんで」
有浄はちょっとばかり……いや、かなり他の人間よりも変わっている。
明治が終わり、大正の世になったとはいえ、まだまだこの辺じゃ着物姿が主流。そんな中でも有浄はジャケットにベスト、ワイシャツとネクタイという西洋風の服装をしている。
正直、神主の装束姿より洋装姿のほうが馴染んで見え、『お前は外務省のお役人か貿易商かよ』とツッコミを入れたくなるほどだ。お前こそ、いつ神主の仕事をしているんだよ。
まあ、百歩譲って洋装は良しとしよう。個人の趣味嗜好だしな。だが、自称陰陽師はどうなんだ。胡散臭い上に怪しすぎるだろう。幼馴染でなければ、とっくに店の外へ追い出していた。
「悩み事があれば、陰陽師の俺に相談するといいよ」
「帰れ」
即決即断。俺の昼寝を邪魔する奴はすべて敵だ。
「俺を押し売り扱いするなよ」
「押し売りのほうがまだマシだ。もっと言えば、押し売りのほうが、俺にとって無害だ」
「うまい冗談だね。俺も無害だよ?」
なにが無害だ。どの口が言ってるんだ。微笑んだ有浄の顔にイラッとした。
「この間、俺はお前と女の痴話喧嘩に巻き込まれたよな。それに対する謝罪は?」
「痴話喧嘩じゃない。ちょっとした別れ話のもつれだ」
なにが『ちょっとした』だ。その日は雲一つない快晴だったというのに、急に雨が降り出した。さらに雷まで伴う大雨になり、強風まで吹き始めた。
天候を左右できる女は人間か?
それとも――いやいや、俺は絶対に関わらないと決めている。だから、余計なことを聞くつもりはない。
「美人だっただろ?」
「そうだな。お前と少し似ていたかもな」
有浄は日本人離れをした容姿をしている。色素の薄い瞳と髪、そしてすらりとした長身、近所でも評判の美男子だ。
赤ん坊の頃から、ぼんやり顔と言われている俺と大違いだ。
しかし、残念ながら有浄は陰陽師を自称しているせいで、胡散臭い男と思われ、『ぜひ、うちの娘を嫁に』という定番の流れにはならない。その有浄は長居をするつもりらしく、かぶっていた黒のフェルト帽を取った。
「おいおい、また新しい帽子を買ったのか? こないだの帽子は茶色だったよな?」
「いいだろ。これ、イギリス製のフェルト帽でさ」
有浄がノリノリでフェルト帽自慢を始めそうになったのを手で制した。ここで止めなくては話が長くなる。
「帽子の話はいい。けど、神主が洋装ってどうなんだろうな」
「和菓子屋が書生姿っていうのもどうなんだよ」
俺と有浄はお互いの服装を見た。お互い本業から大きくかけ離れた格好だ。
「誤解されがちだけど、神主の時はきちんと装束を着ているからな? 多数の女性から装束姿も素敵ですっていう感想が山ほどきている」
「きてねーよ」
神主の時はってなんだよ。お前の自称陰陽師は仕事なのかよ。しかも、どさくさに紛れて、『装束姿も素敵』って言うな。
「お前の知らないところで女性に人気なんだよ」
「なにが人気だ。人間じゃねーだろ。人間に好かれろよ」
人間ならまだしも、こいつの場合は人間じゃない奴との付き合いが多すぎる。人間なのか、それとも違うものなのか、ぱっと見ただけではわからない。だが、有浄にはわかる。
だから、自称陰陽師なのだろうが――
「まぁ、安海。安心しろ。お前が作る和菓子は評判がいい。俺には負けるけど、人気はあるよ」
「人間にな」
「いや、あやかしに」
「そういう胡散臭いお客様は当店ではお断りしております」
「客を選ぶなよ」
「選ばせろよ」
俺の商売相手は人間のはずだ。人間以外のものが集まる原因は有浄だ。
「わがままだな。あ、わかったぞ。頑固な職人は客を選ぶからだな」
「誰が頑固な職人だ!」
頑固な職人――それは俺のじいさんだ。道具を探し求め、全国を旅した和菓子職人の祖父。千年屋の初代店主は、和菓子に対する熱い情熱を持っていた。
俺はそんなじいさんの血を引いているはずなんだが、どこでどう間違えたのか、三代目無気力職人。俺、誕生。
「まあ、いい。茶と菓子を一つもらおうか」
「ない」
「……ここは和菓子屋だよな?」
「和菓子屋だ」
「商品のない和菓子屋が和菓子屋を名乗っていいと思うな!」
木製の陳列台には大福の一つ、団子の一本も並んでいなかった。だが、俺は堂々としていた。なぜなら、やましいことなど、なに一つないからである。
「ちゃんと看板が出ているだろ? 千年屋ってな」
「看板を出しておけば、商品がなくても許されるとでも? 安海の両親は働き者なのに、どこをどう間違って、こうなったんだよ!」
両親は数年前に大陸へ渡り、上海で饅頭を売っている。
働き者の両親は上海で成功し、知り合いも増え、なかなかの暮らしぶりだとか。そんな両親から生まれた俺は働き者――にはならず、だらだらと生きていた。
「きっと安海っていう名前のせいだな」
「なるほど。安海だけに休みってことか」
「まあな。じゃ、そういうことで」
「いやいやいや、待てよ!」
俺がいそいそと座布団を抱え、奥の茶の間で昼寝をしようとしたのを有浄が止めた。
「お前の和菓子はあやかしに評判がいいんだよ。なにかないか?」
「……あやかしより人間相手に評判になりたいよ、俺は」
「なら、店を開けろ。それが嫌なら、あやかし相手に金稼ぎをしろ」
めちゃくちゃなことを言う有浄に、俺は座布団を盾のように構えて答えた。俺の安眠を守護する座布団よ、お前は俺の心の盾。
「わかった。とりあえず、昼寝をしてから考えよう。じゃあな、有浄。早く帰れよ」
やる気なし。今日の俺は昼寝をすると決めている。
座布団を抱え、立ち去ろうとした。だが、その瞬間、有浄は座布団を俺の手から叩き落として蹴り上げた。座布団が宙を舞う。
「あ……」
ちょうど店の硝子戸が開き、俺は短く声を上げた。
座布団を救うために、そいつは現れたと言っていい。
「むぶっ!」
和菓子を購入しに来た客――ではなく、幼馴染その二、兼岡兎々子の顔面に座布団がぶつかった。
「兎々子ちゃん。タイミングいいなぁ」
座布団を蹴り上げた張本人である有浄は、少しも悪びれた様子がない。顔面で座布団を受け止めた兎々子に大笑いしているのを見た時、俺は本気で、こいつを出入り禁止にしてやろうかと思った。
なにが起きたかわかっていない兎々子は、キョトンとした顔で周囲を見回し、首を傾げた。
「どうして、座布団が飛んできたの?」
兎々子は鼻をさする。俺の大切な相棒、座布団を雨で濡れた地面に落ちないよう受け止めてくれた。
「有浄の仕業だ。兎々子、学校は?」
「今日の授業は午前で終わりだったの」
銘仙の着物は矢絣柄、海老茶の袴にブーツ、髪に大きなリボンをつけている。服装からわかるように兎々子は女学生だ。
有浄よりもマトモそうに見えるが、兎々子も俺にとっては迷惑度の高い存在である。無自覚な分、有浄よりタチが悪い。
「ありがとう。兎々子。俺の相棒を助けてくれて」
兎々子の手から座布団を受け取った。
「そして、さようなら」
そのまま外にぐいぐい押し出そうとすると、兎々子が猛烈な抵抗を見せた。
「なんでーっ! 私、お客様なのに!」
有浄のコウモリ傘の隣に和傘が置いてある。まだ雨は続いている。雨の中、女性を放り出すのか。そう思われるかもしれない。だが!
「悪いが俺は俺の平和を守り抜く! 断固として! 和菓子屋だけに団子としてな」
俺の渾身のネタを披露した。だが、有浄と兎々子には不評だった。
二人に冷たい目で見られ、気まずくなった俺はふいっと目を逸らす。お愛想で笑ってくれるような優しさはないようだ。
「そういうの考えなくていいから、安海ちゃんは和菓子を頑張ればいいと思うの」
「完全に同意」
「うるせーよ」
まっとうじゃない二人にまっとうなことを言われる俺。
「あーあ。せっかく和菓子を食べようと思ってきたのに陳列棚がからっぽか」
有浄はがっくりと肩を落とした。
「今日は作る気分じゃなかった」
「お前はどこぞの気難しい芸術家か。俺の甘いものを食べたい気分をどうしてくれるんだ」
「え? 有浄さんは甘いものを食べたいの? ちょっと待ってね」
兎々子が着物の袂をごそごそ探り、黄色い箱を取り出した。その黄色の箱の正体は、子供から大人まで大好きなお菓子。
「ああ、ミルクキャラメルだね!」
箱入りのミルクキャラメルは、今流行りのお菓子で、偽物まで出回る始末。箱を見ただけでわかる有浄もミルクキャラメルの虜なのだろう。
「和菓子がないなら他のお菓子を食べればいいじゃない」
兎々子は得意顔でそんな台詞を言って、ミルクキャラメルをバーンと見せた。
「なんだ、こいつ。やっぱり帰れ」
「えーっ! どうしてー!」
和菓子屋に和菓子を買いに来て、ミルクキャラメルを自慢する幼馴染。なにがお客様だ。これは敵襲だろ。
「だいたい洋食屋の娘が和菓子屋になんの用だ。冷やかしにでもきたか」
「冷やかしじゃないよー! 私の家は洋食屋だけど、朝ごはんはお味噌汁必須で納豆も食べるし、たくあんだって大好きな、完全な和食派なんだから!」
「うっわ。洋食じゃないんだ。それもどうなんだろうな」
洋食屋の朝はパンとオムレツを食べているとでも思っていたのか、有浄はショックを受けていた。有浄は洋装を好んでいるだけあって洋食好きの西洋かぶれ。兎々子の父親がやっている洋食屋『カネオカ』にもよく足を運んでいる。
「まあまあ。お一つ、あげましょう」
兎々子は俺と有浄の手のひらにミルクキャラメルを一粒ずつのせた。ちょうど小腹が空いていたので、紙をぺりぺり剥がして口の中へ放り込む。
ふむ、これがミルクキャラメルか。甘くて香ばしい味がする。
「うまいな」
兎々子を追い出そうとしていた俺だが、話題のミルクキャラメルをご相伴にあずかり、少し反省した。
「人気すぎて、偽物が出回るのもわかるよ」
兎々子はミルクキャラメルを口に入れ、有浄の言葉にうなずいた。
「でも、これは正真正銘の本物よ。百貨店で買ったんだから、間違いないわ」
「やだなぁ。兎々子ちゃん。百貨店で買ったからといって本物とは限らないよ」
「有浄さんはいつもそうやって茶化して。素直じゃないっていうか、疑り深いっていうか……」
「疑ってかかったほうがいいに決まってる。人の形をしたものが人であるとは限らない」
有浄がおかしなことを言い始めた瞬間、店の硝子戸がガタガタと鳴った。俺の気のせいでなければ、雨が激しくなったような気がする。さっきまでうっすら射していた日の光が陰り、店の中が薄暗くなった。
「おい、有浄。お前のせいだぞ。変なことを言うから客が来た」
「お客様は大歓迎ってね」
「普通の客ならな」
有浄はにこにこしていた。そんな笑顔で歓迎するような客じゃない。
雨に濡れた硝子戸に、歪んで映る人の影。いつの間にか、店の前に女性が一人立っていた。徐々にその姿が明らかになっていく。切れ長の目に涼し気な目元、妖艶な雰囲気。
たぶん、あれは人間じゃない。だから嫌なんだ。この二人を店に入れるのは――うんざりした気持ちで、店の前に立っている客を眺めた。
「呼んだ責任を取れ」
「俺が呼んだわけじゃないよ。ここが千年屋だからやってくる。さあ、お客様を招こうか!」
「今すぐにでも鍵をかけたいよ、俺は」
できれば、招きたくない。
店先に和傘を差して立っている女性は、見るからに怪しげだ。どこが怪しいのかというと、草履が濡れておらず、泥が跳ねた様子もないことだ。雨の中、ここまで歩いてきたのなら、着物と草履が多少なりとも濡れているはずだ。しかし新品のように美しい。これは、どう考えてもおかしい。
見惚れるほどの美人なのだが、どこか狐に似ていて、警戒心の強い俺は、素直に彼女を受け入れることができなかった。幼い頃から、トラブルに巻き込まれ続けて二十年以上。有浄と兎々子に警戒心を鍛えられた俺は、美人を見ても素直に喜べないひねくれものになってしまったというわけだ。
「うわぁ、美人さん! それに素敵な着こなし……」
兎々子には人間に見えるようだ。
妖艶な女性の髪型は流行りの耳隠しにべっ甲のかんざし。赤い紅を唇に差し、白い藤の絵が描かれた黒地の着物は半襟を大きく覗かせ、今風に着こなしている。口元にはホクロが一つある。それが印象的だった。
女性は和傘を閉じると、兎々子の傘の隣に置き、店に一歩足を踏み入れた。俺の平穏がさらに遠のき、がっくり肩を落とした。
「こんにちは」
「あいにく今日は休みでして」
無駄な抵抗だとわかっていても、なんとか女性を追い返そうと足掻いた。そんな俺の心を見透かしたように、女性は口元に袖をあて、くすりと笑った。
「ここはいつもお休みですこと。ねぇ? 有浄様?」
「やっぱり有浄の知り合いか!」
じろりと有浄を睨みつけた。だが、有浄は俺の鋭い視線をハエ程度にしか思っていないのか、にこにこ笑い、気にした様子がない。
兎々子は俺の着物の袖をぐいっと引っ張って、目の前の妖艶な女性を目で指して、小声で言った。
「ねえねえ。安海ちゃん。すっごい美人さんよね。もしかして、有浄さんの恋人?」
どこをどう見たらそうなる。恋愛に繋げる前に、もっと警戒しろよと俺は言いたい。
だが、兎々子は現役の女学生だけあって恋愛話が大好きだ。憧れの先輩から手紙の返事をいただいたと大騒ぎしたり、少女雑誌を持ってきて、恋愛小説を読ませてきたりと、俺に恋愛のなんたるかを説いていく。
今、兎々子には贔屓にしている恋愛小説家がいるらしく、わざわざ人気画家の便箋まで買って手紙を送るのだと、得意顔で言っていたのを思い出す。しかし、手紙を送るのに新しい便箋まで買わなくてもいいのではと思う。なぜなら、兎々子は行く先々で便箋や葉書を購入し、山ほど持っているからだ。『前に買ったものから使えよ』と、俺が一言言っただけで、『朴念仁』と怒られた。そんな怒られるようなことか?
兎々子に言わせると俺は恋愛に関しては尋常小学校に通う子供以下の朴念仁らしい。
朴念仁――まあ、それは百歩譲って認めよう。だが兎々子、お前の目は節穴か?
女性は女性でも、それが人間とは限らない。人間かどうかくらいは、せめて見極めてくれ。
「私が浮気者な有浄様の恋人なんてご冗談を」
俺が答えられずにいると、女性が代わりに答えてくれた。そして、有浄は即座に反論する。
「俺が浮気者なんて人聞きが悪いな。俺は浮気者じゃないよ? ただちょっとばかり女性が集まりやすいだけなんだ」
「人間以外のな」
「おっと、安海。俺の人気に嫉妬かな?」
有浄は額にかかる髪を手で払い、にやりと笑った。それが彼女の気に障ったらしく……いや、俺の気にも障ったが、女性の目が鋭くなった。思わず、俺は有浄の背中をどんっと手で押した。
「俺は関係ない。こいつのことは煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」
「おい、親友」
「違う。腐れ縁だ。勝手に親友呼ばわりするな」
そして、俺と親しげに肩を組むな。迷惑そうに有浄の手を拒んでいると、女性は目を細めてほほっと笑う。ますます狐のように見えてきた。
「ご安心くださいな。私は千年屋さんをよく存じておりますの。それこそ、初代が店を開いた頃からのお付き合いですからね。お二人の関係もちゃんと理解しております」
「すごーい! おじいちゃんの頃からのお客さんなんて、ありがたいよね? 安海ちゃん!」
兎々子は嬉しそうに手を叩いたが、俺は素直に喜べなかった。
じいさんが店を開いた頃からの客だと言った。だが、目の前の女性の外見年齢は二十代後半か三十代前半。なぜ、年を取っていないんだ。少しは疑問に思えよ、兎々子。
女性の年齢は聞くなってのは本当だなと思った。
俺はあえて、今の言葉を聞かなかったことにした。なぜなら、俺は有浄とは違う。自称陰陽師などと、胡散臭い肩書きを名乗っていない。ただの無力な和菓子屋だ。
「そうだな。ありがたいな。じゃ、俺はこれから昼寝をするんで」
ここで全員、まとめて追い出そう。俺はそう決めた。だが――
「今日は特別な注文をお願いしに来たんですの」
「特別? いや、そういう注文は引き受けてな……いてっ!」
断るつもりが、有浄が俺をどんっと肘でつついた。それもけっこう強めで。
「実はね、八十八夜の後に、私の嫁入りがあるんですよ」
「わぁー! お嫁入り! おめでとうございます!」
兎々子がぱちぱちと手を叩いてお祝いの言葉を述べた。
八十八夜。つまり立春から数えて八十八日目ってことだ。
あと数日しかない。
春から夏に変わる季節。さわやかに吹く風の中、縁側で昼寝をする俺の姿が目に浮かぶ。昼寝をするには快適な時季だが、嫁入りにもちょうどいいのかもしれない。
「嫁入りはわかったが、急な注文は困る」
「あらあら。よろしいんですの?」
「ん?」
「昔、近所の柿の木から落ちたのを助けたでしょう」
「え、いや……」
「安海さんが川で溺れそうになって、岸まで運んだのをお忘れですか?」
「どうしてそれを?」
有浄と兎々子が俺からスッと目を逸らす。おい、諸悪の根源。
「いや、あのな。そもそも釣りに誘ったのが有浄で、柿が食べたいと言ったのが兎々子なんだが」
有浄の釣竿が流れていったのを見た俺は、釣竿を拾おうとして川岸から落ちて深みにはまった。それが運の尽き。うっかり釣竿ごと流されてしまった。だが、運良く岸に流れ着いた。
俺が柿の木から落ちたのは、兎々子が町内で一番うまい柿があると言い出したのが発端だ。嫌がる俺を無理矢理連れていき、人の家の柿の木に登らせた。
木登りは苦手だったが、兎々子を登らせるわけにはいかないと思ったのだ。だが、木から落ちた瞬間、やっぱり登らなければ良かったと後悔した。
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