私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】

椿蛍

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17 婚約者

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あれが本気の告白だったのだとわかったのはしばらく後のことだった。
知久ともひさが理由をつけて、学内でも学外でも私に会いに来るようになったからだった。
人の目がある場所では弟の友人としてふるまっていたけど、二人になると本性は悪魔以外のなにものでもなかった。

「練習室で待ってるなんて卑怯よ!」

「どうして?」

知久は練習室の鍵を私の手のひらにのせた。

「小百里のピアノを聴きたいな」

そんなことを言えば許されるとでも思っているのかしら。
もしかして、弟の唯冬ゆいとも共犯?
唯冬から『練習室の予約、とったけど予定が入ったから姉さん、よかったら使って』と言われた。
けど、いたのは唯冬ではなかった。
よくよく考えてみれば、『姉さん』と唯冬が私を呼ぶ時はなにか頼みたいことや後ろ暗いことがある時だけ。
それに気づかず、練習室を使えることに大喜びしていたおめでたい私。
なんの疑問も感じずに感謝していた自分を叱りたい。
私にとって、ピアノが使える時間は貴重だった。
渋木の家にもピアノはあるけど、唯冬も使いたいだろうし、清加きよかさんも弾くからどうしても自由には弾けない。
だから、練習室の予約は私にとってありがたいものだった。

「悪知恵が働く弟達に騙された私っ……!」

「人聞きが悪いな、小百里。早く弾かないと時間がなくなるよ?」

悔しいけど、その通りだった。
私は練習のつもりで、ショパンの蝶々を弾く。
軽やかで明るくて、春の訪れを喜び舞う蝶々達。
知久は窓辺に寄りかかり、私が弾くのを黙って眺めている。
課題曲を終わらせて、私が弾き終わるのをただ静かに待っている姿は犬みたいで可笑しい。
その様子に笑みがこぼれてしまい、知久がにこりと笑った。

「なにか楽しいことでもあった? それとも俺といるから楽しい?」

「そうね」

騙されたことには腹が立ったけど、本当は知久と一緒にいるのは嫌じゃない。
むしろ、私は居心地がよかった。
渋木の家は息苦しく、章江あきえさんや毬衣まりえさんが来るとよけいに家全体が重い空気に包まれるのがわかる。
学校は私にとって、息抜きの場所だった。

「俺といて楽しいならよかった」

練習が終わると、次は先生に聴いてもらうための曲を練習する。
曲はベートーヴェンのピアノソナタ十七番『テンペスト』。
第一楽章は速さの変化に戸惑わず流れるように弾く。
音の緩急はまるで嵐の始まり。
曲は第二楽章に入る。
知久が私の演奏を目を閉じて聴く。
第二楽章は、さっきと違う穏やかな曲調。
けれど、私にはこの楽章の中に小さな嵐が隠れ潜んでいるように思えた。
これから、始まる嵐の予感が、音の中に混じっている。
続く第三楽章に入ると、曲の嵐は最大となり、激しく強い音に変わる。
初見で弾いた私の演奏を聴いた先生からは、まるで閉じ込めてある感情をぶつけているようだと言われた。
それは正しいかもしれない。
けれど、私は日々の平穏を願っている。
できることなら、これ以上の苦しみがないようにと。
私だけじゃなく、清加きよかさんにも家族になってくれた唯冬達にも。
いつ止むかわからぬ嵐の終わりが近づく気配の音。
ラストは少し明るめに弾く。
そして軽やかに終わらせる―――嵐が止むと知久は口を開いた。

「第三楽章が好きだな」

「そう?」

「心の中の嵐を吐き出しているみたいで」

「……そんなことないわ」

先生と同じことを知久は言った。
知久に嘘はつけない。
私の心を簡単に見透かす。
初めて会った時から、その存在は特別で他とは違っていた。
知久は椅子から立ち上がり、私の髪に触れ、頬に触れ、指が首筋に触れ、指を絡める。
そして、私の目を覗き込む。

「すべての私を知らないと気が済まないの?」

「そうだよ。全部俺の物にしておかないと小百里はすぐに逃げるから」

知久が、なぜ私を好きになったのかわからない。
きっと、これは神様からのプレゼント。
ひとりぼっちだった私に神様がくれた一時の安らぎ。
いつか、知久は私の手から離れていくのはわかっていた。
彼は天才バイオリニストで、鳥のように自由な人だから。
私の頬に長く美しい指が触れ、柔らかな唇を重ねた。
いつか、失うとわかっていても、今だけは。
そう、今だけは誰もいない私のそばにいて欲しかった。

「小百里のことが好きだよ」

繰り返し言ってくれる言葉は私の孤独を埋めてくれる。
そんな私の心を満たすように何度も角度を変え、キスを繰り返す。
もっと私を求めて。
誰も私を必要としない世界で、唯一あなただけが私を必要としてくれた。
この時はまだ自由だったのだと、後に思いしる。
まさかこれ以上、自分が渋木の家に縛られることになるとは思ってなかった。

「もう帰るわ。運転手さんが迎えに来ているの」

「お嬢様も楽じゃないね」

「お互いにね」

私達は微笑み合って別れた。
この関係が終わるのは、まだずっと先だと思っていた。
それは私の思い違いで、すでに世界が私を閉じ込めようと籠を用意していたことも知らずに。

「おかえりなさいませ、小百里お嬢様。旦那様からお嬢様が帰ってきたら、呼ぶようにと言われております」

家に帰るとお客様がいたことにも驚いたけど、父がこんな早い時間に帰宅していることにも驚いた。
嫌な予感がした。
父が家にいる時は私にとって、いつも、なにか大きな変化がある。

「失礼します」

そう言って、応接間に入るとそこにいたのは父と伯母の章江さん、そして、スーツを着た男の人だった。
見た目からして、私よりいくつも上であることはすぐにわかった。

「ああ、小百里。帰ってきたか」

「ただいま帰りました……」

機嫌のいい父と伯母。
作り笑いを浮かべる男の人は私をじろじろと見ている。
私が警戒して、難しい表情を浮かべていると、章江さんが意地悪く笑った。

「この方は私が通っているお琴の先生の息子さんでね、瀬登せと笙司そうじさんとおっしゃるの」

「こんにちは、小百里さん」

「……はじめまして」

「将来有望で素敵な方でしょ? 小百里さんにぴったりな方だと思わなくて?」

「なんのことでしょう」

「小百里の婚約者だよ。なかなか決まらず心配していたが、姉さんが、ぜひというくらいの相手なんだ」

私を引き取ってから、父は章江さんと険悪になっていた。
だから、父はこれで、章江さんと仲が修復できたとほっとしているようだった。

「私、婚約なんてまだ早いと―――」

「早くありませんよ。渋木の娘として婚約させてあげたのだから喜びなさい」

「姉さん。DNA鑑定をして、小百里は娘だと証明されただろう? そんな言い方はやめてくれ」

鑑定―――?
そんな話は聞いていない。
いつの間にDNA鑑定なんてしていたのだろう。
父はやっぱり私を本当の娘かどうか、疑っていたのだと知った。
ぐらぐらと足元が揺れていた。
倒れないようにするので、精一杯。
いつもの笑顔は私の顔から完全に消えていた。

「小百里。これで親戚も少しは静かになる。よかったな」

よかった?
なにがよかったのだろう。
父は肩の荷が下りたとばかりに息を吐いた。
私を見て、婚約者となった笙司さんが微笑んでいる。
笑っていないのはきっとこの中で私だけ。
今、笑顔なんて作れない。
作れないわ―――知久。
心の中で知久の名を呼んでいた。

「毬衣も知久さんと婚約できたことだし、これで渋木の一族は安泰ね」

知久の名前に私は身を強張らせた。
私の婚約だけじゃなく、知久まで婚約者が決まった。
それも相手は毬衣さんで。
この場で、私の本当の気持ちなんて、言えるわけがなかった。
なんてあっけないのだろう。
私の幸せな時間は終わり、目の前で幕が閉じたのを感じていた。
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