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4 婚約者からのプロポーズ
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「よかったよ。さすが音大を卒業しているだけあって見劣りしない」
私のそばへやってくるなり、笙司さんが腕を差し出した。
その腕を知久は見つめた。
「席に戻ろうか」
笙司さんの腕に触れ、私が椅子から立ち上がったその時、甲高い声が響いた。
「知久さん! 今日一番の演奏だったわ!」
きつい香水の匂いとハイヒールの強い音。
胸元が大きく開いた黒のロングドレスを着た毬衣さんが拍手をしながら、近づいてきた。
私をじろりとにらむのも忘れない。
毬衣さんは自分から知久の腕に自分の腕を絡める。
そうすることで、自分の物だと主張して、知久を誘惑するように胸元を強調する。
それを見た笙司さんはいい顔をしなかった。
彼は女性から、迫られることを嫌う。
主張されることも。
けれど、知久は笑ってかわす。
「次の曲を弾くよ」
知久は微笑んで、慣れた仕草で腕をほどく。
それも自然に。
自分から逃れた腕を毬衣さんは悔しげに眺めていた。
「小百里さん、ありがとう。楽しかったよ」
「いいえ、こちらこそ」
「知久さんと弾けて光栄だったでしょ?小百里なんてちょっとピアノがうまいだけのただの一般人なんだから」
噛みついてきた毬衣さんを知久が冷たい目で一瞥した。
笑っているのに目は笑っていない。
それに気づき、毬衣さんは黙った。
「小百里さんはプロと言っても差し支えない。ただコンクールに出場できなかっただけで」
毬衣さんは気まずそうな表情をしながらも、知久の『できなかった』という言葉になにも答えなかった。
コンクールに出場しなかったではなく―――知久が私の代わりに怒る必要はない。
出ようと思えば、出られた。
出て、その道を歩むことも選択肢にあったかもしれない。
けれど、私が選んだのは。
「知久さん」
私は微笑んだ。
「ありがとう。でも、私の演奏はコンクール向きではないわ。笙司さん、席に行きましょうか」
毬衣さんは昔から私を嫌っている。
だから、嫌味を言われたところで、本気で相手にする気はなかった。
顔を合わせるたびなにか言わずにはいられないのだから、このままここに長く留まるほうが、面倒なことになる。
「小百里と毬衣さんは従姉妹なのにまったく似てないな」
席に戻ると、金色のシャンパンがシャンパングラスに注がれていた。
笙司さんはグラスを手にして、浮かんだ泡を眺め、ぽつりと呟いた。
「私を月に連れて行ってか」
「曲を選んだのは知久さんよ」
「わかっているよ」
シャンパングラスを鳴らし、笙司さんは嫉妬心を滲ませ、知久を眺めていた。
知久がバイオリンを手にしただけで、拍手が起きる。
店内にいる女性の心は彼のもの。
奏でれば、奏でるほど。
音に溺れていく。
彼の音に誰もが。
冷静であろうと思っている私でさえも。
目を閉じて、グラスの中のシャンパンを口にした。
「彼は魅力的な男だ。君が好きにならないとも限らない」
「笙司さんが嫉妬なんて、珍しいわね」
私はまた嘘をついた。
本当は知っている。
笙司さんが知久に何度も嫉妬しているのを見ていたのを。
けれど、私はそれを口にしない。
「留学に行く前はまだ子供だったが、留学を終えて帰って来た知久君は男としての華やかさが増したよ」
次の曲を知久が弾き始めた。
曲はカルメン。
彼が得意とする曲。
女性客の歓声が店内に響いた。
「小百里。そろそろ結婚しないか」
いつかそう言われる日が来ると思っていた。
客席は私の冷え冷えとした気持ちとは裏腹に、彼が得意だと公言しているカルメンに酔いしれていた。
知久のカルメンは情熱的に愛を歌う。
誘い惑わせ狂わせる。
本当は違う。
彼が得意な曲はカルメンじゃない。
わざと彼は自分を隠している。
それは彼だけじゃなく、私も同じ。
ずっと周りにも自分にも嘘をつき続けて、欺いて、うまく本心を隠し続けるしかなかった―――私達は。
私のそばへやってくるなり、笙司さんが腕を差し出した。
その腕を知久は見つめた。
「席に戻ろうか」
笙司さんの腕に触れ、私が椅子から立ち上がったその時、甲高い声が響いた。
「知久さん! 今日一番の演奏だったわ!」
きつい香水の匂いとハイヒールの強い音。
胸元が大きく開いた黒のロングドレスを着た毬衣さんが拍手をしながら、近づいてきた。
私をじろりとにらむのも忘れない。
毬衣さんは自分から知久の腕に自分の腕を絡める。
そうすることで、自分の物だと主張して、知久を誘惑するように胸元を強調する。
それを見た笙司さんはいい顔をしなかった。
彼は女性から、迫られることを嫌う。
主張されることも。
けれど、知久は笑ってかわす。
「次の曲を弾くよ」
知久は微笑んで、慣れた仕草で腕をほどく。
それも自然に。
自分から逃れた腕を毬衣さんは悔しげに眺めていた。
「小百里さん、ありがとう。楽しかったよ」
「いいえ、こちらこそ」
「知久さんと弾けて光栄だったでしょ?小百里なんてちょっとピアノがうまいだけのただの一般人なんだから」
噛みついてきた毬衣さんを知久が冷たい目で一瞥した。
笑っているのに目は笑っていない。
それに気づき、毬衣さんは黙った。
「小百里さんはプロと言っても差し支えない。ただコンクールに出場できなかっただけで」
毬衣さんは気まずそうな表情をしながらも、知久の『できなかった』という言葉になにも答えなかった。
コンクールに出場しなかったではなく―――知久が私の代わりに怒る必要はない。
出ようと思えば、出られた。
出て、その道を歩むことも選択肢にあったかもしれない。
けれど、私が選んだのは。
「知久さん」
私は微笑んだ。
「ありがとう。でも、私の演奏はコンクール向きではないわ。笙司さん、席に行きましょうか」
毬衣さんは昔から私を嫌っている。
だから、嫌味を言われたところで、本気で相手にする気はなかった。
顔を合わせるたびなにか言わずにはいられないのだから、このままここに長く留まるほうが、面倒なことになる。
「小百里と毬衣さんは従姉妹なのにまったく似てないな」
席に戻ると、金色のシャンパンがシャンパングラスに注がれていた。
笙司さんはグラスを手にして、浮かんだ泡を眺め、ぽつりと呟いた。
「私を月に連れて行ってか」
「曲を選んだのは知久さんよ」
「わかっているよ」
シャンパングラスを鳴らし、笙司さんは嫉妬心を滲ませ、知久を眺めていた。
知久がバイオリンを手にしただけで、拍手が起きる。
店内にいる女性の心は彼のもの。
奏でれば、奏でるほど。
音に溺れていく。
彼の音に誰もが。
冷静であろうと思っている私でさえも。
目を閉じて、グラスの中のシャンパンを口にした。
「彼は魅力的な男だ。君が好きにならないとも限らない」
「笙司さんが嫉妬なんて、珍しいわね」
私はまた嘘をついた。
本当は知っている。
笙司さんが知久に何度も嫉妬しているのを見ていたのを。
けれど、私はそれを口にしない。
「留学に行く前はまだ子供だったが、留学を終えて帰って来た知久君は男としての華やかさが増したよ」
次の曲を知久が弾き始めた。
曲はカルメン。
彼が得意とする曲。
女性客の歓声が店内に響いた。
「小百里。そろそろ結婚しないか」
いつかそう言われる日が来ると思っていた。
客席は私の冷え冷えとした気持ちとは裏腹に、彼が得意だと公言しているカルメンに酔いしれていた。
知久のカルメンは情熱的に愛を歌う。
誘い惑わせ狂わせる。
本当は違う。
彼が得意な曲はカルメンじゃない。
わざと彼は自分を隠している。
それは彼だけじゃなく、私も同じ。
ずっと周りにも自分にも嘘をつき続けて、欺いて、うまく本心を隠し続けるしかなかった―――私達は。
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