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第二章

28 春、照らす道

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 ――代償は大きかった。
 怨霊に言葉を奪われた玲花れいかは話せないだけでなく、感情も失ってしまっていた。
 魂があるのかないのか――まるで、人間の形をした器だけが残された生きた人形そのもの。それでも、心の奥深くに感情がまだ残っているはずだった。

「今日はなにか反応があればいいのですけど……」
「どうだろうな」

 なんとなく、私より紫水しすい様のほうが、玲花の状態を理解しているような気がしていた。
 はっきり無理だと言わないところを見ると、感情を取り戻す可能性はあるということだ。

「世梨、悪い。車に見舞いの品を忘れた」

 座席に置いたまま、持ってくるのを忘れた紫水様が、療養所の玄関前で足を止めた。

「申し訳ありません。気づきませんでした。私も一緒に車へ戻ります」
「いや。世梨は靴に慣れてないだろう? 先に行ってくれ。すぐ追いつく」
「はい……」

 確かに私の歩く速度は遅い。
 紫水様が車へ戻るのを眺め、私は一人、長い廊下を歩き出す。
 交通の便がよくない山奥の療養所のせいか、お見舞いに訪れる人は少なく、廊下を歩いているのは私だけだった。
 廊下の窓が緑のペンキで塗られていたけれど、湿気で木製の窓枠はボロボロになり、剥げている個所もあった。
 それが、余計に物寂しさを感じさせる。
 窓の向こうで、桜の木が風に揺れているのが見えたけれど、山の中にある療養所は日陰が多く、花にはまだ蕾が残っている。
 蕾が残る枝から、視線を歩く方向へ戻すと、廊下の奥から誰かが歩いてくるのが見えた。
 それは、断髪に着物姿の女性だった。
 年頃は私や玲花と同じくらいで、目鼻立ちがくっきりした綺麗な人。着物は大輪の薔薇文、彼女の華やかな雰囲気と合っていて、とても良く似合う。
 西洋風のモダンな着物の帯留めは珊瑚、レースの半襟は和装であっても違和感がない。
 彼女のお洒落な着こなしは、洋服に負けない堂々とした着物姿。
 でも、容姿以上に私の目を引いたのは、彼女の手の中にある着物だった。 
 たたまれた着物の色は、私の記憶を呼び覚まし、首を絞められたような息苦しさを感じた。

「くちなし色の着物……」

 玲花が郷戸の家で、着ていた着物と同じ色と柄でなかったら、きっと私は気に留めなかったと思う。
 私の声が聞こえたのか、すれ違う瞬間、その人は足を止めた。
 そして、唐突に声をかけられた。

「あなた、洋裁をなさるんですってね」

 まるで、洋裁することを責められたような気がして、すぐに返事ができなかった。

「そう聞いたのだけど、違ったかしら?」
「……いえ。もうじき、洋裁学校へ通う予定です。もしかして、玲花のお友達ですか?」
「ええ、そうね。一応は」
「一応?」

 不思議そうに聞き返した私のなにがおかしかったのか、小馬鹿にするような表情を浮かべ、くすりと笑った。

「あなた着物じゃなくて、洋服を着ていらっしゃるの?」
「洋服に憧れていて……それで……」

 もしかして、似合わなかっただろうかと、お洒落な彼女を前にして不安になった。
 窓硝子に映る私の青いワンピース姿。
 でも、私は着てみたくて、ずっと自分が憧れていたことを思い出し、自信のない気持ちは、すぐに消えた。
 それに、今は自分のことより、彼女が手にしている玲花の着物が気になる。
 私が着物をジッと見つめていることに気づいたらしく、手の中にある着物に視線を落とす。

「そうね。着るものはとても大切よ。着るもので、自分の気持ちも人からの扱いも変わるもの。いいほうにも悪いほうにもね」
「玲花に着物を贈った着物作家というのは、あなたですか?」
「ええ。わたくしが玲花さんに贈ったの。この着物の作品名は『六条のくちなし』というのよ」

 やはり、私が思っていたとおり、源氏物語の六条御息所ろくじょうみやすどころを表現したものだった。

「玲花さんに間違えて、この着物をお渡ししてしまったから、返していただいたの」
「間違えて……?」

 彼女が言ったように、着るものが人を変えるというのなら、嫉妬心により生霊になった六条御息所を表現した作品を間違えて渡すだろうか。
 でももし――もし、私と同じように、彼女が変わった力を持っていたなら?
 そう、たとえば、身につける物に対して、なんらかの効果を与えるような力。
 着ている人の心を良いほうにも悪いほうにも変えられたのなら、嫉妬心を煽ることだって簡単にできる。
 私に対する玲花の過剰なまでの嫉妬心に、ずっと違和感があった。
 そのせいか、玲花のことを嫌いになれず、『なぜ』という気持ちがつきまとっていた。
 清睦きよちかさんと玲花は違う。
 玲花は着物作家や画家になりたいという夢を持っていなかったし、両親からも愛されて、可愛いものや綺麗なものに憧れる普通の少女。
 殺したいほどの激しい嫉妬心を持つ理由がない。

「あら、そんな怖い顔をしないでちょうだい。これは普通の着物よ」
「そうですよね……」

 失礼なことを考えていた自分に気づき、申し訳ない気持ちになった。
 最近、私の身の回りにいるのが、人間よりあやかしのほうが多いからか、突拍子もないことを考えてしまう。

「それで、あなたは着物より洋服がお好きなの?」
「着物も好きですけれど、今は洋服に興味があります。どちらかが嫌いだというわけではありません」

 私の返答に彼女は顔を歪めた。
 今まで何度か見てきた表情に、私は清睦さんを思い出した。
 もしかしたら、着物作家同士の繋がりで、祖父を知っている人なのかもしれない。

「将来のことはわかりませんが、今は洋裁をやってみたいと思っています」
「それを千秋せんしゅう様が望まなくても?」

 彼女は祖父を知っていた。
 祖父の周りには、大勢の人が集まり、亡くなった今も尊敬されている。
 そして、その影を追い続け、誰も千秋の代わりにはなれないのに、私に期待して百世ひゃくせいを名乗り、祖父の跡を継げと言う。

「私は今まで、自分のやりたいことを口にできませんでした。それを口に出すのが、とても悪いことのような気がして……。でも、私の旦那様がミシンを買ってくれたんです。誰よりも祖父の跡を継いで欲しいと願っているような方なのに、私の夢を否定しませんでした」
「旦那様……」

 ずっと強い口調で話していた彼女が見せた一瞬の間。
 私が結婚したと知らなかったようで、それ以上なにも言わなくなった。
 会話はこれで終わり。
 そう思って、私は彼女に会釈した。

「妹のお見舞いがあるので、これで失礼します」

 返事はなかった。
 彼女がどんな表情をしているか、前を向いた私は気づかない。
 玲花の部屋に入る頃には、廊下に人の気配はなく、床には桜の木々の影だけが踊っていた。
 部屋は個室になっているため、とても静かで、外からの光しかない部屋は薄暗い。
 動かない玲花からは衣擦れの音もなく、春の強い風が、窓を叩く音しか聞こえてこなかった。

「玲花、体調はどう? さっき、玲花のお友達とすれ違ったのだけど、とても美人で華やかな方だったわ」

 明るい声で話しかけたけど、やはり玲花の反応はなかった。
 
「少しだけ窓を開けましょうか? とてもいいお天気で、桜の花も咲き始めているのよ」

 玲花の目は、白いシーツの上に映る葉の影を眺めるだけで、私のほうを見ることはなかった。
 近づく足音が聞こえ、紫水様がやってきたのだとわかる。

「悪い。遅くなった」

 部屋のドアを数回ノックし、お見舞い品の風呂敷包みを持った紫水様が現れた。
 薄暗く殺風景な部屋を眺め、紫水様は私に言った。

「郷戸の両親は?」
「母はたまに来ているみたいですけど……。辛いのかもしれません」
「そうか」

 清睦さんは一度だけ、両親とやってきたそうだ。
 本性を見抜ける目を持つ清睦さんは、なにか気づいたのか終始無言だったそうで、それ以来、お見舞いに来ていない。

「今日はこれを持ってきた」

 紫水様が手にした風呂敷の中から、取り出したのは一枚の振り袖だった。
 華やかな赤い振り袖は、年若い女性が着るために作られたものであることが、一目でわかる。
 菊、牡丹、扇文などの古典文様を使い、着る者の将来の幸福を願う意味を込めた図案である。
 そして、鞠。これは困難があったとしても、丸く収まるという意味を持つ。

「名を本宮世梨。雅号を百世。最初で最後の一枚だ」

 紫水様は私に 落款らっかんを見せた。

「紫水様がどうしても欲しかった着物って、もしかして……」
「なんだ。知ってたのか。これを手に入れるため、だいぶ苦労したぞ」

 屈託のない笑みを浮かべ、紫水様は言った。
 まるで、この着物が必要であることを知っていたかのように、紫水様は持ってきてくれたのだ。

「この着物は、祖父が亡くなる前に、私に百世ひゃくせいとして一枚だけ、作ってほしいと頼まれたものです」

 そして、この着物が完成したら、会って渡そうと決めていた。
 
「わかっている。妹のために作ったのだろう?」
「そうです。でも、叔父夫婦に売り払われてしまって……。紫水様、これをいただいてもよろしいのですか?」
「ああ。俺の本業は蒐集家。本来の持ち主に戻すのも仕事のひとつだ」

 紫水様はそう言うと、シーツの上に振袖を広げた。
 広げられた振袖は、殺風景だった部屋を明るくし、花のない部屋に花を咲かせる。

「玲花。渡すのが遅くなってしまって、ごめんなさい。これを受け取ってくれる?」

 玲花の手の甲に、自分の右手のひらを重ね、表情のない顔を覗き込んだ。
 表情は変わらなくても生きている証拠に、玲花の手は温かい。
 重ねた手の甲に、涙が雨粒のように落ちた。

「玲花……」
 
 返事はなかったけれど、それが精一杯だったのか、玲花は目を閉じて横になる。
 疲れたのか、そのまま眠ってしまった。

「世梨。行こう」
「はい」

 起こさないよう物音を立てずに、そっと離れ、私と紫水様は部屋から出た。
 きっとあれが、今の玲花にできる精一杯の返事だったのだと思う。

「喜んでいたぞ」
「本当ですか?」
「ああ」

 紫水様と私が見えるものは、きっと違う。
 だから、紫水様の言葉を信じて、私はこれでよかったのだと思うことにした。

「紫水様。着物を手に入れて下さって、ありがとうございました」
「物にも気持ちがある。あいつらも相応しい場所に戻りたいと願っている。俺はその手助けをしたまでだ」
「蒐集家だからですか?」
「そうだ。俺の本業だ」

 出会った時から、変わらない答えに、あれが冗談ではなく、本心だったのだと知る。
 療養所から出ると、運転手さんが車のドアを開けて待っていた。

「おかえりなさいませ」
三葉みわ本邸まで頼む」
「本邸でございますね。かしこまりました」

 療養所を出て、山道を下る頃には、夕暮れ色の紅が徐々に山の斜面を染め始め、黒い山の向こうに太陽が沈んでいく。
 薄紫色の車内は静かで、穏やかな空気が流れていた。
 やがて、風景が町へ変わり、電灯が規則正しく並ぶ道沿いを車が走る。
 美しく舗装された先の坂の上に、仄かな光を放つ提灯が見えた。
 提灯の灯りで照らされた薄紅色の桜が枝を伸ばし、白い雲のように浮かんでいる。
 車は坂の下で止まり、私たちを降ろす。

「あっ! 紫水様と世梨さまが来たぁー! こっちですぅー!」

 坂を歩く私たちを一番に見つけたのは、あおちゃんで、嬉しそうに両手を振っている。
 その後ろでは、陽文さんや大勢の招待客が、私たちを待っていた。
 賑やかな声が聞こえてくる。
 私のスカートの裾が春の夜風になびき、紫水様が微笑み右手を握る。

「俺の妻として、世梨をお披露目したい」
「妻……本物の妻ですか?」
「当り前だ。嫌でなければだが」
 
 誰よりも強いのに、不安そうな顔をした紫水様に、思わず笑ってしまった。
 ぬくもりを持った紫水様の手を両手で包み、気持ちが伝わるよう握りしめた。
 
「あなたの妻になりたいと思っていました」
「そうか」
 
 柔らかな灯りに似た笑みを浮かべ、私の手を取る。
 春灯しゅんとう――提灯の淡い灯りが道を照らす。
 私とあなたの行く道を。

【第二章    了】
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