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第1章
6 私に残されたもの➁
「いらっしゃいませ。海寿さん、お久しぶりですね。体調を崩していて、ようやく店に出られるようになったんです」
「知ってる。店の前を通るたび覗いてたけど、ずっといなかったから」
店はガラス張りで、ショーケースになにが並んでいるかわかるよう外から中が見えるようになっている。
「海外へ行く前に、夕愛ちゃんの顔を見ておかないとなって思っていたんだ」
「……玲我さんもですけど、海寿さんも海外へ行かれるんですね」
いつも笑顔の海寿さんの顔から、一瞬だけ顔から笑みが消えた。
海寿さんは声を荒げるようなタイプではない穏やかな性格だ。
けれど、その顔を見て、鷹沢家と不仲な有近家を話題に出すのは避けたほうがよさそうだと思った。
「……そうだね。鷹沢の本社に入る前に勉強してこいってことだろうな」
海寿さんは玲我さんと似たような環境で育っている。
二人は幼い頃からどこへ行くにしても両親に連れられて、政財界のパーティーや個人的なホームパーティー、関連会社の記念式典、取引先との交流をして顔を売ってきたのだと、玲我さんから聞いたことがある。
だから、上司となる人よりも上層部に知り合いが多いそうだ。
考えただけでも扱いにくい新人で、上司となった人は困ると思う。
「海外で仕事を覚え、成功させて帰ってきたら、本社に入って昇進して結婚。親の考えてる筋書きはわかってるんだよ」
海寿さんはため息をついた。
「結婚ですか……」
きっと玲我さんも都久山へ戻ったら結婚する。
私の頭によぎった女性は、妃莉さんだった。
――もし、玲我さんと妃莉さんが結婚したら?
二人が結婚して、幸せに暮らしている姿を近くで見て耐えられるだろうか。
家族で店へやって来ることだってあるかもしれない。
海寿さんに気づかれないようエプロンを握りしめ、泣きたい気持ちをこらえた。
別れたら、後悔するってわかっていた――わかってたのに、それしか選べなかった。
「そうですか……。頑張ってくださいね」
海寿さんは私の顔をじっと見つめた。
「夕愛ちゃん、もしかして泣いてた?」
「い、いえ! 泣いてません! すみません。おしゃべりをしてしまって。今、ご注文をうかがいますね」
「母さんは菜の花のキッシュがいいかな。あ、卵焼きも」
「かしこまりました」
ケーキみたいに切り分けられた菜の花のキッシュをパックに詰める。
卵焼きは甘めでどっしりしたものだ。
「旅立つ前にここの卵焼きが食べたくなったんだ」
「海寿さんは卵焼きをよく買われますよね」
「うん。ここの卵焼きを食べると、なんだか懐かしくなるんだ」
おじいちゃんの代からある卵焼き。
それを懐かしむ人は多いけど、若い海寿さんの口から聞いたからか、不思議な感じがした。
「それと、夕愛ちゃんが店にいると安心感がある。だから、つい寄ってしまうんだよね」
「そうですか?」
「小さい頃から、ここのカウンターに夕愛ちゃんが立っていたのを覚えてる。店を手伝ってえらい子だなって思ってたよ」
過去を語る海寿さんの目は優しく、昔を思い出しているのだとわかった。
数年間、離れるだけだとわかっていても、生まれ育った場所から旅立つのは、切なくて寂しいものなのかもしれない。
「今のデリカテッセン『オグラ』の評判がいいのも夕愛ちゃんがいるからだと思ってる」
「そんなことは……」
「夕愛ちゃんが休んで店にいない間、大変そうだったよ」
海寿さんが招待された都久山のホームパーティーか、食事だったのか……注文した商品に不手際があったのかもしれない。
「申し訳ございません……」
「謝らなくていいよ。さりげない気配りが当たり前じゃないんだってわかっただけで、夕愛ちゃんはなにも悪くない。むしろ、存在に感謝だよ」
私は長く働いていることもあり、自然と都久山のお客様に関することに対して詳しくなった。
だから、お祝い事だと気づいたら、いつもと違う華やかな容器を選んだり、『祝』や『寿』の焼き印を卵に押してもらうよう厨房に頼んだり――少しだけ特別で、おおげさじゃないちょっと嬉しいサービス。
「夕愛ちゃん、いつもありがとう」
その『ありがとう』の言葉が弱った心に染みた。
「いえ、こちらこそありがとうございます」
海寿さんは笑って袋を受け取り、カードで支払った。
そのカードに重なっていたのは名刺だった。
「あの、海寿さん……」
「あげる。なにかあったら、俺に連絡して。君が一人で泣いていると思うと辛い」
――私と玲我さんの関係を知ってた?
聞き返そうにも、有近家と不仲な鷹沢家の一人息子である海寿さんに不用意なことは絶対言えない。
「あ、誘ってるわけでも変な意味でもないよ? そうだな。兄として? うん、そうだ。君の兄として心配してる。それなら、連絡先を受けとってもらえるよね?」
「は、はい……」
返事はしたけど、気軽に連絡できる相手ではない。
でも、私の返事に気を良くしたのか、海寿さんはにっこり微笑んだ。
「日本に帰ってきたら、また寄るよ」
「はい。お待ちしております」
海寿さんが私に微笑んでくれたからか、私もうまく笑顔を作れた気がした。
面白くて明るい海寿さんにつられて、私も明るい気持ちになれた。
失った恋の代わりに残ったデリカテッセン『オグラ』。
――私は店を守る。
別れを選んだけれど、簡単に忘れられない――忘れられるような相手じゃない。
だから、私は玲我さんへの想いに蓋をして生きていくしかなかった。
「知ってる。店の前を通るたび覗いてたけど、ずっといなかったから」
店はガラス張りで、ショーケースになにが並んでいるかわかるよう外から中が見えるようになっている。
「海外へ行く前に、夕愛ちゃんの顔を見ておかないとなって思っていたんだ」
「……玲我さんもですけど、海寿さんも海外へ行かれるんですね」
いつも笑顔の海寿さんの顔から、一瞬だけ顔から笑みが消えた。
海寿さんは声を荒げるようなタイプではない穏やかな性格だ。
けれど、その顔を見て、鷹沢家と不仲な有近家を話題に出すのは避けたほうがよさそうだと思った。
「……そうだね。鷹沢の本社に入る前に勉強してこいってことだろうな」
海寿さんは玲我さんと似たような環境で育っている。
二人は幼い頃からどこへ行くにしても両親に連れられて、政財界のパーティーや個人的なホームパーティー、関連会社の記念式典、取引先との交流をして顔を売ってきたのだと、玲我さんから聞いたことがある。
だから、上司となる人よりも上層部に知り合いが多いそうだ。
考えただけでも扱いにくい新人で、上司となった人は困ると思う。
「海外で仕事を覚え、成功させて帰ってきたら、本社に入って昇進して結婚。親の考えてる筋書きはわかってるんだよ」
海寿さんはため息をついた。
「結婚ですか……」
きっと玲我さんも都久山へ戻ったら結婚する。
私の頭によぎった女性は、妃莉さんだった。
――もし、玲我さんと妃莉さんが結婚したら?
二人が結婚して、幸せに暮らしている姿を近くで見て耐えられるだろうか。
家族で店へやって来ることだってあるかもしれない。
海寿さんに気づかれないようエプロンを握りしめ、泣きたい気持ちをこらえた。
別れたら、後悔するってわかっていた――わかってたのに、それしか選べなかった。
「そうですか……。頑張ってくださいね」
海寿さんは私の顔をじっと見つめた。
「夕愛ちゃん、もしかして泣いてた?」
「い、いえ! 泣いてません! すみません。おしゃべりをしてしまって。今、ご注文をうかがいますね」
「母さんは菜の花のキッシュがいいかな。あ、卵焼きも」
「かしこまりました」
ケーキみたいに切り分けられた菜の花のキッシュをパックに詰める。
卵焼きは甘めでどっしりしたものだ。
「旅立つ前にここの卵焼きが食べたくなったんだ」
「海寿さんは卵焼きをよく買われますよね」
「うん。ここの卵焼きを食べると、なんだか懐かしくなるんだ」
おじいちゃんの代からある卵焼き。
それを懐かしむ人は多いけど、若い海寿さんの口から聞いたからか、不思議な感じがした。
「それと、夕愛ちゃんが店にいると安心感がある。だから、つい寄ってしまうんだよね」
「そうですか?」
「小さい頃から、ここのカウンターに夕愛ちゃんが立っていたのを覚えてる。店を手伝ってえらい子だなって思ってたよ」
過去を語る海寿さんの目は優しく、昔を思い出しているのだとわかった。
数年間、離れるだけだとわかっていても、生まれ育った場所から旅立つのは、切なくて寂しいものなのかもしれない。
「今のデリカテッセン『オグラ』の評判がいいのも夕愛ちゃんがいるからだと思ってる」
「そんなことは……」
「夕愛ちゃんが休んで店にいない間、大変そうだったよ」
海寿さんが招待された都久山のホームパーティーか、食事だったのか……注文した商品に不手際があったのかもしれない。
「申し訳ございません……」
「謝らなくていいよ。さりげない気配りが当たり前じゃないんだってわかっただけで、夕愛ちゃんはなにも悪くない。むしろ、存在に感謝だよ」
私は長く働いていることもあり、自然と都久山のお客様に関することに対して詳しくなった。
だから、お祝い事だと気づいたら、いつもと違う華やかな容器を選んだり、『祝』や『寿』の焼き印を卵に押してもらうよう厨房に頼んだり――少しだけ特別で、おおげさじゃないちょっと嬉しいサービス。
「夕愛ちゃん、いつもありがとう」
その『ありがとう』の言葉が弱った心に染みた。
「いえ、こちらこそありがとうございます」
海寿さんは笑って袋を受け取り、カードで支払った。
そのカードに重なっていたのは名刺だった。
「あの、海寿さん……」
「あげる。なにかあったら、俺に連絡して。君が一人で泣いていると思うと辛い」
――私と玲我さんの関係を知ってた?
聞き返そうにも、有近家と不仲な鷹沢家の一人息子である海寿さんに不用意なことは絶対言えない。
「あ、誘ってるわけでも変な意味でもないよ? そうだな。兄として? うん、そうだ。君の兄として心配してる。それなら、連絡先を受けとってもらえるよね?」
「は、はい……」
返事はしたけど、気軽に連絡できる相手ではない。
でも、私の返事に気を良くしたのか、海寿さんはにっこり微笑んだ。
「日本に帰ってきたら、また寄るよ」
「はい。お待ちしております」
海寿さんが私に微笑んでくれたからか、私もうまく笑顔を作れた気がした。
面白くて明るい海寿さんにつられて、私も明るい気持ちになれた。
失った恋の代わりに残ったデリカテッセン『オグラ』。
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だから、私は玲我さんへの想いに蓋をして生きていくしかなかった。
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