私のことが必要ないなんて言わせません!【菱水シリーズ③】

椿蛍

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April

8 この恋は

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桜の花の時期は短いと思う。
咲いていたと思っていた桜の花はあっという間に散ってしまい、緑の葉で枝が隠れ始めていた。
私は働きだしたとは言え、バイトからの社員扱いだったから、変わりない毎日を過ごしていた。
開店準備を済ませた私は新しい号の音楽雑誌を本棚に置いた。
カフェ『音の葉』は主に音楽雑誌が並べている。
だから、どうしてもチェックしてしまう。

梶井かじい理滉みちひろの挑戦』
『首席チェリストとして活躍』
『日本を旅立ち、新たな音楽との出会い』

ファッションモデルみたいにドイツの街並みの中で自然に微笑む梶井さん。

望未みみちゃん。さっきからそのページ、ずっと見てるけど、もしかして梶井さんのファンなの?」

小百里さゆりさんが花瓶に花を生けながら微笑んだ。
花屋で買ったカスミソウが小百里さんによく似合っていた。

「大学生の時に梶井さんと出会って、それでファンになったんです」

「望未ちゃん。梶井さんは悪い人ではないけど、悪い男だから気を付けたほうがいいよ」

そう言って穂風ほのかさんはココット型に入ったイチゴババロアをテーブルに置いた。
ピンク色のババロアに白い生クリームとイチゴ、とろりとしたイチゴソースが飾られ、ミントが飾られていた。

「試作品。日替わりのデザートにつけるから二人とも感想をきかせてよ」

「わぁ。ありがとうございます」

スプーンをいれるとイチゴの甘酸っぱい香りが漂った。

「おいしいです。穂風さん」

「爽やかなイチゴの味がいいわね」

「それはよかった。それじゃあ、厨房に戻るよ。今日はピアニストの渋木さん夫婦がくるからね。お客さんがいつもより多いだろうから、仕込みの量を増やさないと」

今日の午後からは小百里さんの弟さん夫婦がピアノを弾きにきてくれる。
近所のマンションに住んでいて、たまにこうして弾きにくる。

「そうね。唯冬ゆいとがくるなら、仲のいい二人もついてくるかもしれないし。外の席も作っておきましょうか」

「手伝います」

窓を開けて外にテーブルや椅子を並べて席を増やす。

「今日、集まる方達って有名な人ばかりですよね。常連さんしか知らなくていいんですか?」

ピアニストの渋木夫妻とバイオリニストの陣川じんかわさん、チェリストの深月みづきさんが来ると聞いていた。
クラシック界の王子と呼ばれる三人と天才ピアニストの渋木千愛さん。
四人は私と同じ菱水ひしみず音大附属高校出身で先輩だけど、私とはレベルが違う。
高校入学前からコンクールの常連で才能は際立っていた。
すごすぎて嫉妬できないレベル。

「知らなくてもいいのよ。ここで演奏するのは遊びだと思っているから。ふらりとやってきて、ご飯食べていくんだもの。少しは恩を返してもらわないとね」

困った顔をしていても小百里さんは春の妖精みたいにふんわりとしていて可愛らしい。
すごい人達も小百里さんにしたら、手のかかる弟達でしかないようだった。

「小百里さん、いるー?ちょっと早いけど来たよー。はい!これ、お土産!」

明るい声と同時に現れたのはバイオリニストの陣川じんかわ知久ともひささんだった。

「小百里さん、赤い薔薇が好きだよね?」

「薔薇は好きだけど、なんの冗談かしら」

陣川さんはお土産らしい赤い薔薇の花束を手にしていた。
たぶん、笑いをとるためにそんな大きな花束をわざともってきたのだろうけど、小百里さんは呆れていた。

「しっかり者の弟ですら手を焼いているのよ……」

「そうでしょうね……」

その後ろから人形のような綺麗な顔をした男性、小百里さんの弟である唯冬ゆいとさんが入ってくる。
その腕に手を絡めているのは奥様の千愛ちささん。

「とてもお似合いな二人ですね」

「千愛さんは優しい人だから、大丈夫よ」

「は、はあ」

弟さんは?と思ったけど、口には出さなかった。

「本当に集まるのが早いわね」

白のテーブルクロスがまだ外のテーブルにセットされていない。

「テーブルセッティングは私がやっておきますから、大丈夫です。小百里さんは打ち合わせをしてください」

「そう?ごめんなさいね」

「いいえ」

小百里さんはあの集団にいても浮いてない。
私があそこにいたら、きっと違和感ありまくりなんだろうな。

「あんな綺麗な人だったら、私のことウサギちゃんなんて呼ばずに恋愛対象として見てくれたのかな」

それとも隣に乗っていたセクシー美女みたいだったら、ちゃんと女として扱ってくれた?
無言でテーブルクロスの皺をシュッと伸ばした。
夜のためにキャンドルをひとつずつテーブルに置いていく。
演奏を聴きながら、春の夜を楽しむ。
この席は密かに人気がある。
ここで知り合った常連さん同士がいいかんじになっちゃって、結婚した人までいる。

「ロマンチックだよね」

「ロマンチックなのはいいけど、梶井はやめておいたほうがいいよ」

うっとりとしながらディナーメニューを抱き締めていると眠そうな声に現実に引き戻された。

「べ、別に梶井さんのことじゃない……って、深月みづきさん!?」

前髪に隠れた目とぼんやりとした空気。
ファンの間ではぼんやりじゃない、のんびりした人だっていわれている人―――

「春は眠い」

「は?」

「忠告はしたよ。じゃあね」

もしかして、スマホを拾ったのが私だと気づいている?
声でわかったのかもしれない。
なんて耳がいいのだろう。
でも―――

「梶井さんと恋をするのもダメなの?」

誰も応援はしてくれない。
そんなに梶井さんはとんでもない人なのだろうか。
私にはそう思えなくて、ゆっくりと陽が落ちていく空を見上げていた。
この空の下に梶井さんがいるはず。
私の恋は始まっているはずなのに好きすら言わせてもらえない。
そんな前途多難な恋だった。
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