私のことが必要ないなんて言わせません!【菱水シリーズ③】

椿蛍

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April

9 あなたの音

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夕闇が庭を染める頃、仕事帰りの常連さんやご近所の老夫婦が集まり出した。
テーブルにセッティングしたキャンドルの火が揺らめき、今日のために用意した星座が描かれた青いガラスのコップに水を注ぐ。
特に開演の時間や決まりはなく、出入りは自由だ。
気ままに弾いて楽しむだけの演奏会。
まずは唯冬ゆいとさんの演奏からのスタート。
唯冬さんが弾くのはしっとりとしたサティのジムノペディ。
夕暮れから夜の闇に変わる時間にぴったりで常連の方達の中には目を閉じて聴いている方もいた。
だから、料理を運ぶ私もそっと音をたてないようにテーブルに置いていく。

「ありがとう、望未みみちゃん」

そんな私の気遣いに小百里さゆりさんは気づいてくれているようでうれしかった。
唯冬さんが終わると次は千愛ちささん。
常連さんの期待に応えるようにラ・カンパネラを弾く。
正確な鐘の音の中にどこか楽しげな色。
あんな難しい曲なのに感情を乗せて弾いていた。
弾き終わると大きな拍手が起きた。

「やっぱり千愛には敵わないな」

「そんなことないわよ。唯冬のほうがよかったわ」

弾き終わった千愛さんをテーブル席で待っていて、労う唯冬さん。
お互いに想い合っているのだと微笑み合う二人の姿を見て思った。
なんて素敵な夫婦なんだろう。

「小百里さん。弟の唯冬さん。とても優しい人じゃないですか」

小百里さんは私の言葉に首を横に振った。

「千愛さんにはね。味方には甘いけど、敵には容赦ないから」

頬に手をあてて、ふうっと小百里さんはため息をついた。
千愛さんのラ・カンパネラで盛り上がった後は陣川じんかわさんのカルメン。
情熱的で鮮やかな色彩を放つ音。

「大変。聴いている場合じゃなかった」

ちゃんとお水を入れて回らなくちゃ。
テーブルを回りながら、少なくなった水を足していく。

「ありがとう」

お礼を言われて会釈し、顔をあげると、そのお客さんは私をじっと見つめていた。

「名前、なんて読むのかな?」

これって、ナンパ?
最近、よく来るようになった常連の若いサラリーマン。
さわやかで優しい印象のある人だ。
いつも一人でランチやディナーの時間にきて、難しそうな本を読んでいた。

「……っと、失礼だったよね。これ、俺の名刺」

どうぞと私に渡してくれた名刺には戸川とがわ達貴たつきと書いてあった。
戸川家具店社長と書いてある。

「社長なんですか?」

「家業を継いだだけだよ」

輸入家具も取り扱ってるらしく、HPの案内が書いてある。

「軽い男って思われたくないんだけど、警戒した?俺は君のピアノのファンで怪しい人間じゃないよ」

ふんわりと優しく微笑む。

「私のピアノですか」

「そう。ずっと話しかけたかったけど、チャンスがなくて。今なら、声をかけてもいいような気がしたんだ」

店内にカルメンの曲が流れていた。
陣川さんの色っぽいカルメン。
底抜けに明るいはずの音だけど、それは人を誘う悪魔みたいな音なのかもしれない。
人に恋を思い出させるのだから―――とんでもないバイオリンの音。

「俺には君のピアノが合っているみたいだ。君のピアノは素直でキラキラしてるから、聴いていて楽しい」

この場で誰がそんなことを言ってくれるだろう。
こんなすごい人達の演奏を聴いていて、私のほうがいいなんて。

「私の名前は笠内かさうち望未みみです」

「望未ちゃんか。俺のことも名前でいいよ」

「はい。また聴きにきてください」

「うん。またくるよ。もっと君のこと知りたいしね」

優しい笑顔と言葉。
とても感じのいい人だった。
私はお辞儀をして、次のテーブルへと行く。
カルメンが終わり、夜の闇が濃くなった頃、チェロの音が店内に響いた。

「ドビュッシーの月光……」

外のテーブルにいた私の目には月が見えて、降り注ぐ光が揺らいでいるような気がした。
音と同じリズムの揺らぎ。
深月さんのチェロの音はどこか物悲しくて、梶井さんの音に似ている。
深月さんが演奏しているのに私は梶井さんを思い出していた。
エプロンの中にあった名刺が手に触れ、それを無意識のうちにぐしゃりと丸めて潰してしまっていた。
会いたいのは一人だけ。
私の体の中に梶井さんの毒が巡っている。
月の光の下、目を閉じてチェロの音を聴いていた。
どこか切なくさせるその音に梶井さんを重ねていた―――
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