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Chain_17
静断連鎖 ― From Silence to Entrapment
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Scene1:「静かな断絶」
2026年1月23日(土) 午前9時30分。
南秋大学・構内ロビー
冬晴れの空の下、南秋大学のキャンパスは一見いつもと変わらぬ朝を迎えていた。
ロビーの天井から差し込む陽光が、ガラスの床に柔らかな影を落としている。
だが、光のその奥にある静けさには、どこか乾いた緊張が混ざっていた。
宇田川梓は、手にしたスマートフォンの画面をじっと見つめていた。
松本沙雪──その名前だけが、何度も繰り返された自分の発信履歴に残っていた。
数時間おきにかけた履歴が並び、未読メッセージの通知が虚しく表示される。
反応はない。
LINEの既読も、返信も、何も。
鼓動の速さだけが、自分の中で際立っている気がした。
ほんの数日前──梓は確かに沙雪と、他愛もない会話を交わしていた。
「宇田川先輩、あの卒論の資料、今度一緒に見ませんか?」
「先輩、最近眠れてますか? 無理してないですか?」
そんな気遣いと笑顔を浮かべていた後輩が、突然、沈黙した。
彼女がこのキャンパスのどこかにいて、「宇田川先輩!」って声をかけてくる気がして、
構内を一周歩いてみた。食堂にも、図書館にも。沙雪の姿は、どこにもない。
当然だ。松本沙雪は東雲大学の学生で、事前に梓に連絡をよこしてからでなければ、ここへは来ない。居ないことが分かっていながら、不安が増幅して、またキャンパスを一周していた。
足音だけがコツコツと地面に響き、冬の空気は乾いて澄んでいた。
掲示板に貼られたサークルイベントのチラシも、風に揺れる枝の音も、まるで“日常”の演技に過ぎないように見えた。
──本当に、どこにもいない。
その実感が胸の奥に沈殿するように広がっていく。
同日午前11時18分。
構内を歩きまわっていたせいか、すでに2時間近くが過ぎていた。
梓は身体の疲れより、気持ちの疲れがピークになり女子寮の自室へ戻った。
メッセージアプリを開くと、沙雪との履歴がそのまま残っていた。
最後に既読がついたのは、一昨日の深夜。
『先輩、明日はちゃんと寝てくださいよ』
『私も資料探しておきますねー』
その明るい文面が、今では薄暗く画面に浮かび上がって見えた。
既読がつかないまま、梓の「大丈夫?」「何かあった?」の問いだけが並んでいる。
既に、三十時間以上。
何度も通知の音を確認し、バッテリーが切れていたのではと自分に言い聞かせ、それでも既読がつかない現実が、冷たい指で心臓を撫でていく。
──おかしい。
確信のようなものが、静かに喉元に根を張っていた。
梓は思わず、高田実の名前をタップしていた。
「梓さん? ああ……松本さんのことか。実は、俺も昨日から連絡がつかなくて」
「一昨日の夜、私、沙雪と話しました。そのときは普通だったんです」
「いや、こっちはその翌朝からもう既読がつかなくなっててね。正直、少し不穏だと思ってる」
数秒の沈黙。
「……何か、あったんでしょうか」
「分からない。けど、あの子が黙って姿を消すとは思えない。俺の知ってる限りでは、だけどな」
通話が終わると、部屋に沈黙が落ちた。
冷えきった空気の中で、窓の外の木々が静かに揺れている。
遠くの空に、冬の光が差していた。
──沙雪の自宅……住所は、覚えている。
行くべきか──いや、まだ確定はしていない。
寝込んでいるだけかもしれない。
……でも、そんな希望は、既にどこかで否定されていた。
梓はスマホを握りしめたまま、立ち上がった。
何かが、確実に失われた気がした。
目に映る景色が変わってしまったわけではないのに、
胸の中の空気が、別の温度を持ち始めていた。
断絶。
その言葉だけが、思考の底で冷たく鳴り響いていた。
Scene2:「誘い」
2026年1月23日(土) 午後0時26分。
南秋大学 女子寮・宇田川梓の部屋
部屋の窓に薄曇りの光が射している。カーテン越しに揺れる光は、どこか色を失って見えた。
宇田川梓は、ぼんやりとした意識のままスマートフォンの画面を睨んでいた。松本沙雪からの返信は、やはり来ていない。既読がつかないまま、画面の下に昨日送ったメッセージが淡く浮かんでいる。
『無事? 心配してる。何かあったら連絡して。』
その一行が、まるで誰かの遺言のように無機質だった。
沙雪の最後の連絡から、すでに五日以上が過ぎている。
高田とも相談して、彼女の実家に電話もした。
だが誰も出なかった。大学にも確認をとったが、連絡はないというだけだった。
警察には行方不明届も提出した。
けれど、“事件性が確認されない限り捜査は難しい”と返されただけ。
それでも、梓の中には説明のつかない違和感が残っていた。
彼女の自宅を訪ねても、ドアには鍵がかかっていて、郵便受けには何も入っていなかった。
近所の人も“数日前から見ていない”とだけ言っていたという。
家族も連絡が取れず、まるで家そのものが——誰にも存在を知られていなかったかのように、
静かに沈んでいた。
警察も一度は松本家を訪れたが、異変は確認されなかったという。
(……家族もいないらしい。自宅には人の気配すらなかった。警察は“旅行にでも行ったんじゃないか”って、呑気なことを言ってた。でもそんなことある?沙雪が何も言わずに連絡もよこさずに、急に家族旅行行くなんてこと……)
これまでの死者たちの連絡パターンが、頭の中を嫌でも駆け巡る。
最初に返信が来なくなる。通知が切れ、やがて発見されるのは壊れた身体——。
恐怖より先に、疲労が心を蝕んでいた。
スマートフォンが震えた。
瞬間、全身が強張った。
沙雪か。
その名が脳裏を走ったが、表示された名前は——「神谷千咲」だった。
一瞬、時間が止まったようだった。
千咲から電話が?
これまで、彼女から電話がかかってきたことなど一度でもあっただろうか。
違和感と警戒心が、心の中で警鐘のように鳴り響く。
それでも、指が勝手に画面をスライドしていた。
「……何?」
通話が繋がった瞬間、梓は問いを吐いた。
怒りでもなく、不安でもなく、ただ無感情な声だった。
だが心の奥では、既に通報の準備を思い浮かべていた。
警察に連絡すべきだと理性が叫ぶ。だが、証拠がない。決定的な“証明”が何もない。
『ごめんね。……ちょっと、お願いがあるの』
千咲の声は、妙に落ち着いていた。
以前のあの、儚げでどこか怯えた響きはなかった。むしろ、芯があるようにさえ感じる。
「……何の、用?」
『……私、自首しようと思うの』
その言葉を聞いた瞬間、梓の中に張り詰めていた空気が微かに波打った。
『もう、自分では止められないの。だから、梓に……ついてきてほしい』
名前呼びだった。唐突に距離を詰めるような呼びかけに、わずかに眉が動いた。
『最後くらいは、ちゃんと終わらせたい。……私、あの子のことも、本当は……』
“あの子”とは誰か——梓は問わなかった。
問うてしまえば、この薄皮一枚の均衡が崩れると、本能が告げていた。
「……場所は」
『……今日の夜、会えないかな? 部屋で待ってる。
梓に、どうしても話したいことがあるの。……一人で来て。』
「……わかった」
通話が切れた。
その瞬間、部屋に沈黙が満ちた。
梓はゆっくりとスマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。
千咲は言った——「自首する」と。
だが、それをそのまま信じられるほど、甘い構造ではない。
これまで何人もの命が、彼女の周囲で絶たれてきた。
しかも千咲は、事件に関する“知っているはずのない情報”を
昨日の夜、梓との会話で無意識に漏らしている。
確信に近い疑念が、すでに梓の中にあった。
だが、証拠はない。
梓は机の上に置かれていたICレコーダーを手に取る。
録音開始。
これが決定的な“記録”になれば……。
目の前にある手帳に、短くメモを走らせた。
『神谷千咲 1月23日12:26 通話記録あり』
『内容:自首希望/場所:女子寮・神谷千咲の部屋』
こうして書き残す行為そのものが、自分にとっての覚悟の証だった。
梓は上着を羽織りながら、ふとベッドの脇に置かれた沙雪のメモを見た。
『明日、資料見せてね♪』
丸みを帯びた文字が、異様に遠い世界のものに感じられる。
「……必ず、見つける」
その呟きは、自分に対する誓いだった。
外の空気は、冷え込みを増していた。女子寮を出ると、午後の日差しが傾き始めていた。
空は晴れているのに、どこか空虚な青だった。
女子寮の中庭は、冬の冷たい陽射しを受けてどこか薄く青白く見えた。
千咲の部屋へは梓の寮棟を一旦出る必要がある。
千咲の部屋のある寮棟に続く廊下は、
これまで何度も通ったはずなのに、今日だけは異様に遠く感じられた。
……なぜ、千咲の部屋なのか。その“意図”を、出来る限り考えないようにしていた。
(もし、いざとなれば私の方が体力がある。高校時代陸上部で鍛えた脚力もある。
膝が壊れていても、千咲が追いつくことを許さないくらいには逃げられる)
ポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。
だが画面を見ると、通知はなかった。気のせい。
あるいは、REVERB。
その名前を、梓は心の中で言葉にすることすら避けた。
呼吸が浅くなっていく。
もしこの先で、千咲が真実を語るのなら。
もし、あの目で“すべてを笑って肯定する”なら——。
その時、自分は。
梓は、女子寮の廊下を一歩ずつ踏みしめながら、千咲の部屋へと向かっていった。
Scene3:「供物の封印」
2026年1月23日(土) 午後1時58分。
南秋大学 女子寮・神谷千咲の部屋
梓は、ICレコーダーの赤いランプを一度だけ見つめ、右手でそっとスライドを押した。
録音ON。
左手にはスマートフォン。画面は通話履歴を開いたまま。万が一のときのため、発信ボタンに親指をかけている。
廊下は、昼下がりとは思えないほど静まり返っている。女子寮特有の甘い芳香剤の匂いが微かに混じる空気。その中で梓は無意識に、何度も自分の呼吸の音を確認した。心拍数が早い。
ドアの前で立ち止まり、梓はドアノックを二度、静かに叩いた。
「どうぞ。もう準備は終わってるから」
内側から千咲の声。声は普段よりもやや低く、妙に抑揚がなかった。
梓は深く息を吸い込み、覚悟を決めるように小さく呟いた。
「……入るよ」
冷たいノブを握り、ゆっくりと回し、ドアを押し開けた。
——部屋は、異常なほど静かだった。
まず梓の肌を刺したのは、室内に漂う甘い、どこか薬草めいた香り。窓は完全にカーテンで覆われ、薄暗さと蛍光灯の白い光が室内に境界線を作っている。外からの気配が一切遮断されていた。
壁際には本棚、書き込みで膨れたノートとレポートの山。ベッドの上には畳まれたタオルと、使い古したマグカップ、封の空いた風邪薬。
棚の端にはウサギのぬいぐるみ。目が合うと、なぜか心の奥で冷たいものが這い回る。パイプハンガーには千咲の日常服、そして一着だけ黒いワンピースが吊るされていた。
床にはグレーのラグ。わずかにめくれたその下に、赤い何かが見え隠れする。部屋のどこを見ても、どこかに“非日常の気配”が漂っていた。
千咲は机の前で背を向けて座っている。ノートパソコンを閉じ、何かをじっと両手で握りしめているようだった。
梓は足音を消すように静かに一歩踏み込む。靴底がラグに沈み、妙に弾力のある感触が伝わる。
ここは女子寮。部屋の構造も大体わかってる……でも、本当に大丈夫なのか?
梓は心の中で警戒警報を鳴らし続ける。頭の中では、入室から脱出までのシミュレーション。危険物の有無、通報手段、出口への最短距離——すべてを想定。
「本当に……自首するつもりなんだよね?」
問いかけると、千咲はわずかに肩をすくめて頷いた。
「うん。全部、終わったから」
どこか他人事のような声色。
「……じゃあ、これでやっと終われるんだ」
梓自身、今この部屋で自分の緊張がわずかに緩んだことを感じていた。
「ごめんね、梓。怖がらせて」
その声音には妙な温かさがあった。
梓は部屋の隅々を視線で走査する。天井の隅、蛍光灯の影、机下、窓際。
一歩進むごとに、床の軋み。ベッド脇には折り畳まれた毛布と枕。その下から白いUSBケーブルが覗く。スマートスピーカーが消音モードで点灯している。壁時計の秒針は正確に時を刻むが、どこか遅れているように思えた。
机の上には白い花が一輪。花瓶の水がわずかに濁っている。
アルバムの表紙は擦り切れている。横には、大学の学生証。写真は千咲のものだが、どこか色褪せて見えた。
梓は机の前の椅子を見つめた。椅子の上には薄いブランケットが掛かっている。
(何か、仕掛けがあるか? いや、でも……今さら帰れない)
「座ってもいい?」
「うん、どうぞ」
梓は表面をそっと押さえて確かめ、ゆっくり腰を下ろした。
梓が座ったのと同時に千咲がゆっくりと言葉を発した。
「……あの、松本沙雪さんは……元気、かしら?」
唐突な問いに、梓の警戒心が逆に鋭く立ち上がる。
(なぜ今その名前?……いや、それを知っているのは……)
梓の全神経が千咲の発した言葉の意味の解読に走った。
その瞬間——
足元から微かな霧。アイソフルラン。
(薬……?)
息苦しさ、目の前の景色が歪む。千咲が、いつの間にか背後に回っている。白いハンカチが鼻と口を強く覆う。
「——ごめんね。すぐに終わるから」
梓はもがくが、力が入らない。指先から感覚が消え、天井の光が遠ざかる。
「……や、め……っ……」
視界に映るのは——
机の上の花が歪み、ぬいぐるみの目が笑う。
ラグの下の赤い紐がわずかに揺れた。
千咲の横顔が、一瞬だけ微笑んだ気がした。
——暗転。
*
意識が戻ったとき、
首には紅い紐。
両手両足は強力な拘束バンドで「大の字」に固定され、スツールの上に縛り付けられている。
部屋は先ほどよりもさらに静か。録画ランプの赤い光。天井の蛍光灯は、一つだけ微かに点滅。
千咲が静かに目の前に立っている。さっきまでの優しさは消え、無表情。
その表情が急激に悪意をもった笑みに変わり、
ケラケラケラケラと乾いた笑い声が梓の朦朧とする意識の中に響いてきた。
2026年1月23日(土) 午前9時30分。
南秋大学・構内ロビー
冬晴れの空の下、南秋大学のキャンパスは一見いつもと変わらぬ朝を迎えていた。
ロビーの天井から差し込む陽光が、ガラスの床に柔らかな影を落としている。
だが、光のその奥にある静けさには、どこか乾いた緊張が混ざっていた。
宇田川梓は、手にしたスマートフォンの画面をじっと見つめていた。
松本沙雪──その名前だけが、何度も繰り返された自分の発信履歴に残っていた。
数時間おきにかけた履歴が並び、未読メッセージの通知が虚しく表示される。
反応はない。
LINEの既読も、返信も、何も。
鼓動の速さだけが、自分の中で際立っている気がした。
ほんの数日前──梓は確かに沙雪と、他愛もない会話を交わしていた。
「宇田川先輩、あの卒論の資料、今度一緒に見ませんか?」
「先輩、最近眠れてますか? 無理してないですか?」
そんな気遣いと笑顔を浮かべていた後輩が、突然、沈黙した。
彼女がこのキャンパスのどこかにいて、「宇田川先輩!」って声をかけてくる気がして、
構内を一周歩いてみた。食堂にも、図書館にも。沙雪の姿は、どこにもない。
当然だ。松本沙雪は東雲大学の学生で、事前に梓に連絡をよこしてからでなければ、ここへは来ない。居ないことが分かっていながら、不安が増幅して、またキャンパスを一周していた。
足音だけがコツコツと地面に響き、冬の空気は乾いて澄んでいた。
掲示板に貼られたサークルイベントのチラシも、風に揺れる枝の音も、まるで“日常”の演技に過ぎないように見えた。
──本当に、どこにもいない。
その実感が胸の奥に沈殿するように広がっていく。
同日午前11時18分。
構内を歩きまわっていたせいか、すでに2時間近くが過ぎていた。
梓は身体の疲れより、気持ちの疲れがピークになり女子寮の自室へ戻った。
メッセージアプリを開くと、沙雪との履歴がそのまま残っていた。
最後に既読がついたのは、一昨日の深夜。
『先輩、明日はちゃんと寝てくださいよ』
『私も資料探しておきますねー』
その明るい文面が、今では薄暗く画面に浮かび上がって見えた。
既読がつかないまま、梓の「大丈夫?」「何かあった?」の問いだけが並んでいる。
既に、三十時間以上。
何度も通知の音を確認し、バッテリーが切れていたのではと自分に言い聞かせ、それでも既読がつかない現実が、冷たい指で心臓を撫でていく。
──おかしい。
確信のようなものが、静かに喉元に根を張っていた。
梓は思わず、高田実の名前をタップしていた。
「梓さん? ああ……松本さんのことか。実は、俺も昨日から連絡がつかなくて」
「一昨日の夜、私、沙雪と話しました。そのときは普通だったんです」
「いや、こっちはその翌朝からもう既読がつかなくなっててね。正直、少し不穏だと思ってる」
数秒の沈黙。
「……何か、あったんでしょうか」
「分からない。けど、あの子が黙って姿を消すとは思えない。俺の知ってる限りでは、だけどな」
通話が終わると、部屋に沈黙が落ちた。
冷えきった空気の中で、窓の外の木々が静かに揺れている。
遠くの空に、冬の光が差していた。
──沙雪の自宅……住所は、覚えている。
行くべきか──いや、まだ確定はしていない。
寝込んでいるだけかもしれない。
……でも、そんな希望は、既にどこかで否定されていた。
梓はスマホを握りしめたまま、立ち上がった。
何かが、確実に失われた気がした。
目に映る景色が変わってしまったわけではないのに、
胸の中の空気が、別の温度を持ち始めていた。
断絶。
その言葉だけが、思考の底で冷たく鳴り響いていた。
Scene2:「誘い」
2026年1月23日(土) 午後0時26分。
南秋大学 女子寮・宇田川梓の部屋
部屋の窓に薄曇りの光が射している。カーテン越しに揺れる光は、どこか色を失って見えた。
宇田川梓は、ぼんやりとした意識のままスマートフォンの画面を睨んでいた。松本沙雪からの返信は、やはり来ていない。既読がつかないまま、画面の下に昨日送ったメッセージが淡く浮かんでいる。
『無事? 心配してる。何かあったら連絡して。』
その一行が、まるで誰かの遺言のように無機質だった。
沙雪の最後の連絡から、すでに五日以上が過ぎている。
高田とも相談して、彼女の実家に電話もした。
だが誰も出なかった。大学にも確認をとったが、連絡はないというだけだった。
警察には行方不明届も提出した。
けれど、“事件性が確認されない限り捜査は難しい”と返されただけ。
それでも、梓の中には説明のつかない違和感が残っていた。
彼女の自宅を訪ねても、ドアには鍵がかかっていて、郵便受けには何も入っていなかった。
近所の人も“数日前から見ていない”とだけ言っていたという。
家族も連絡が取れず、まるで家そのものが——誰にも存在を知られていなかったかのように、
静かに沈んでいた。
警察も一度は松本家を訪れたが、異変は確認されなかったという。
(……家族もいないらしい。自宅には人の気配すらなかった。警察は“旅行にでも行ったんじゃないか”って、呑気なことを言ってた。でもそんなことある?沙雪が何も言わずに連絡もよこさずに、急に家族旅行行くなんてこと……)
これまでの死者たちの連絡パターンが、頭の中を嫌でも駆け巡る。
最初に返信が来なくなる。通知が切れ、やがて発見されるのは壊れた身体——。
恐怖より先に、疲労が心を蝕んでいた。
スマートフォンが震えた。
瞬間、全身が強張った。
沙雪か。
その名が脳裏を走ったが、表示された名前は——「神谷千咲」だった。
一瞬、時間が止まったようだった。
千咲から電話が?
これまで、彼女から電話がかかってきたことなど一度でもあっただろうか。
違和感と警戒心が、心の中で警鐘のように鳴り響く。
それでも、指が勝手に画面をスライドしていた。
「……何?」
通話が繋がった瞬間、梓は問いを吐いた。
怒りでもなく、不安でもなく、ただ無感情な声だった。
だが心の奥では、既に通報の準備を思い浮かべていた。
警察に連絡すべきだと理性が叫ぶ。だが、証拠がない。決定的な“証明”が何もない。
『ごめんね。……ちょっと、お願いがあるの』
千咲の声は、妙に落ち着いていた。
以前のあの、儚げでどこか怯えた響きはなかった。むしろ、芯があるようにさえ感じる。
「……何の、用?」
『……私、自首しようと思うの』
その言葉を聞いた瞬間、梓の中に張り詰めていた空気が微かに波打った。
『もう、自分では止められないの。だから、梓に……ついてきてほしい』
名前呼びだった。唐突に距離を詰めるような呼びかけに、わずかに眉が動いた。
『最後くらいは、ちゃんと終わらせたい。……私、あの子のことも、本当は……』
“あの子”とは誰か——梓は問わなかった。
問うてしまえば、この薄皮一枚の均衡が崩れると、本能が告げていた。
「……場所は」
『……今日の夜、会えないかな? 部屋で待ってる。
梓に、どうしても話したいことがあるの。……一人で来て。』
「……わかった」
通話が切れた。
その瞬間、部屋に沈黙が満ちた。
梓はゆっくりとスマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。
千咲は言った——「自首する」と。
だが、それをそのまま信じられるほど、甘い構造ではない。
これまで何人もの命が、彼女の周囲で絶たれてきた。
しかも千咲は、事件に関する“知っているはずのない情報”を
昨日の夜、梓との会話で無意識に漏らしている。
確信に近い疑念が、すでに梓の中にあった。
だが、証拠はない。
梓は机の上に置かれていたICレコーダーを手に取る。
録音開始。
これが決定的な“記録”になれば……。
目の前にある手帳に、短くメモを走らせた。
『神谷千咲 1月23日12:26 通話記録あり』
『内容:自首希望/場所:女子寮・神谷千咲の部屋』
こうして書き残す行為そのものが、自分にとっての覚悟の証だった。
梓は上着を羽織りながら、ふとベッドの脇に置かれた沙雪のメモを見た。
『明日、資料見せてね♪』
丸みを帯びた文字が、異様に遠い世界のものに感じられる。
「……必ず、見つける」
その呟きは、自分に対する誓いだった。
外の空気は、冷え込みを増していた。女子寮を出ると、午後の日差しが傾き始めていた。
空は晴れているのに、どこか空虚な青だった。
女子寮の中庭は、冬の冷たい陽射しを受けてどこか薄く青白く見えた。
千咲の部屋へは梓の寮棟を一旦出る必要がある。
千咲の部屋のある寮棟に続く廊下は、
これまで何度も通ったはずなのに、今日だけは異様に遠く感じられた。
……なぜ、千咲の部屋なのか。その“意図”を、出来る限り考えないようにしていた。
(もし、いざとなれば私の方が体力がある。高校時代陸上部で鍛えた脚力もある。
膝が壊れていても、千咲が追いつくことを許さないくらいには逃げられる)
ポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。
だが画面を見ると、通知はなかった。気のせい。
あるいは、REVERB。
その名前を、梓は心の中で言葉にすることすら避けた。
呼吸が浅くなっていく。
もしこの先で、千咲が真実を語るのなら。
もし、あの目で“すべてを笑って肯定する”なら——。
その時、自分は。
梓は、女子寮の廊下を一歩ずつ踏みしめながら、千咲の部屋へと向かっていった。
Scene3:「供物の封印」
2026年1月23日(土) 午後1時58分。
南秋大学 女子寮・神谷千咲の部屋
梓は、ICレコーダーの赤いランプを一度だけ見つめ、右手でそっとスライドを押した。
録音ON。
左手にはスマートフォン。画面は通話履歴を開いたまま。万が一のときのため、発信ボタンに親指をかけている。
廊下は、昼下がりとは思えないほど静まり返っている。女子寮特有の甘い芳香剤の匂いが微かに混じる空気。その中で梓は無意識に、何度も自分の呼吸の音を確認した。心拍数が早い。
ドアの前で立ち止まり、梓はドアノックを二度、静かに叩いた。
「どうぞ。もう準備は終わってるから」
内側から千咲の声。声は普段よりもやや低く、妙に抑揚がなかった。
梓は深く息を吸い込み、覚悟を決めるように小さく呟いた。
「……入るよ」
冷たいノブを握り、ゆっくりと回し、ドアを押し開けた。
——部屋は、異常なほど静かだった。
まず梓の肌を刺したのは、室内に漂う甘い、どこか薬草めいた香り。窓は完全にカーテンで覆われ、薄暗さと蛍光灯の白い光が室内に境界線を作っている。外からの気配が一切遮断されていた。
壁際には本棚、書き込みで膨れたノートとレポートの山。ベッドの上には畳まれたタオルと、使い古したマグカップ、封の空いた風邪薬。
棚の端にはウサギのぬいぐるみ。目が合うと、なぜか心の奥で冷たいものが這い回る。パイプハンガーには千咲の日常服、そして一着だけ黒いワンピースが吊るされていた。
床にはグレーのラグ。わずかにめくれたその下に、赤い何かが見え隠れする。部屋のどこを見ても、どこかに“非日常の気配”が漂っていた。
千咲は机の前で背を向けて座っている。ノートパソコンを閉じ、何かをじっと両手で握りしめているようだった。
梓は足音を消すように静かに一歩踏み込む。靴底がラグに沈み、妙に弾力のある感触が伝わる。
ここは女子寮。部屋の構造も大体わかってる……でも、本当に大丈夫なのか?
梓は心の中で警戒警報を鳴らし続ける。頭の中では、入室から脱出までのシミュレーション。危険物の有無、通報手段、出口への最短距離——すべてを想定。
「本当に……自首するつもりなんだよね?」
問いかけると、千咲はわずかに肩をすくめて頷いた。
「うん。全部、終わったから」
どこか他人事のような声色。
「……じゃあ、これでやっと終われるんだ」
梓自身、今この部屋で自分の緊張がわずかに緩んだことを感じていた。
「ごめんね、梓。怖がらせて」
その声音には妙な温かさがあった。
梓は部屋の隅々を視線で走査する。天井の隅、蛍光灯の影、机下、窓際。
一歩進むごとに、床の軋み。ベッド脇には折り畳まれた毛布と枕。その下から白いUSBケーブルが覗く。スマートスピーカーが消音モードで点灯している。壁時計の秒針は正確に時を刻むが、どこか遅れているように思えた。
机の上には白い花が一輪。花瓶の水がわずかに濁っている。
アルバムの表紙は擦り切れている。横には、大学の学生証。写真は千咲のものだが、どこか色褪せて見えた。
梓は机の前の椅子を見つめた。椅子の上には薄いブランケットが掛かっている。
(何か、仕掛けがあるか? いや、でも……今さら帰れない)
「座ってもいい?」
「うん、どうぞ」
梓は表面をそっと押さえて確かめ、ゆっくり腰を下ろした。
梓が座ったのと同時に千咲がゆっくりと言葉を発した。
「……あの、松本沙雪さんは……元気、かしら?」
唐突な問いに、梓の警戒心が逆に鋭く立ち上がる。
(なぜ今その名前?……いや、それを知っているのは……)
梓の全神経が千咲の発した言葉の意味の解読に走った。
その瞬間——
足元から微かな霧。アイソフルラン。
(薬……?)
息苦しさ、目の前の景色が歪む。千咲が、いつの間にか背後に回っている。白いハンカチが鼻と口を強く覆う。
「——ごめんね。すぐに終わるから」
梓はもがくが、力が入らない。指先から感覚が消え、天井の光が遠ざかる。
「……や、め……っ……」
視界に映るのは——
机の上の花が歪み、ぬいぐるみの目が笑う。
ラグの下の赤い紐がわずかに揺れた。
千咲の横顔が、一瞬だけ微笑んだ気がした。
——暗転。
*
意識が戻ったとき、
首には紅い紐。
両手両足は強力な拘束バンドで「大の字」に固定され、スツールの上に縛り付けられている。
部屋は先ほどよりもさらに静か。録画ランプの赤い光。天井の蛍光灯は、一つだけ微かに点滅。
千咲が静かに目の前に立っている。さっきまでの優しさは消え、無表情。
その表情が急激に悪意をもった笑みに変わり、
ケラケラケラケラと乾いた笑い声が梓の朦朧とする意識の中に響いてきた。
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旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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