覗く女

不幸中の幸い

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第一章

嗤いの借金

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単身赴任で東京に来て、一か月目に入っていました。
平日は会社と部屋の往復で、部屋は古い分譲マンションの一室です。
玄関を開けるとすぐ小さなキッチンがあり、換気用の小窓が付いていました。
閉めても金具が浅く噛む感じがして、押し込むと小さく鳴る癖があります。

二月三日の夜、私は終電の一つ手前の電車に乗りました。
腕時計を見て、胸の内で数字をなぞります。
ここで数分でも遅れると、最寄り駅の終バスに間に合わない。
歩けない距離じゃない。
でも、暗い道を余計に歩く体力が、今日は残っていませんでした。
私はドアの近くに立ち、車内アナウンスが流れ終わるのを待っていました。

発車ベルが鳴って、ドアが閉まりかけた瞬間です。
ホームから女が飛び込んできました。
手荷物が大きい。
肩に掛けたバッグが振れ、さらに袖がドアのゴムに引っかかりました。
ドアが一度閉まり切れず、また開く。
女は短く息を漏らし、引き抜こうとして身体をもつれさせました。
ホームの空気が車内に入り込み、冷たい匂いがしました。

私はその様子を見て、口の端が勝手に上がったのが分かりました。
すぐに笑える状況じゃないのに、滑稽さが先に立った。
次の瞬間、苛立ちが追いかけてきて、私は腕時計に目を落としました。
「はぁ……なんだよ。乗るなよ」と、声に出さずに思いました。
喉の奥で小さく、舌打ちみたいな音まで出た気がします。

女が袖を抜いたあと、こちらを見ました。
白っぽい上着に暗いスカート。
髪は真っすぐで、顔はよく見えないのに視線だけが妙に真っ直ぐでした。
私はスマートフォンを取り出し、画面をタップして誤魔化しました。
手汗で指が滑り、ロック解除に手間取りました。
背中の皮膚が薄く冷えていく感じがして、息が浅くなりました。
幸い最終バスには間に合いそうで、足早にバス乗り場に向かいました。
駅の改札を抜けたとき、背後に人がいる気配がありました。
目の端に一瞬、あの女の白い服が見えたような気がしました。

でも、振り向くと人波が動いているだけで、あの白い上着は見つかりません。
それでも耳の奥に、言葉にならない小声が残りました。
ぶつぶつ、と喉で丸めるような音です。
自分の足音と重なって、どこから来るのか分かりませんでした。

マンションのエントランスに入ると、掲示板が目に入りました。
消防点検の案内、自治会の連絡、宅配ボックスの注意書きが並んでいます。
その端に、節分のチラシが一枚だけ貼られていました。
赤い面の絵に、太い文字で「節分 鬼は外」と書いてあります。
今日が節分のはずなのに、
紙は薄汚れて角が丸く、
何年も前からそこにあったみたいに見えました。
私は見ないふりをして、エレベーターに乗りました。

部屋に入ると、いつもより丁寧に鍵を回しました。
チェーンも掛け、靴を脱ぎ、キッチンの小窓を確かめました。
窓は閉まっていましたが、金具の噛み合わせが浅い気がして、
指で押し込みました。カチ、と小さく鳴ります。
冷たいガラスに指の跡が薄く残り、拭こうとして手を止めました。
今夜は、余計な動きをしたくありませんでした。

風呂を済ませ、布団に入って灯りを消しました。
部屋の時計は静かで、冷蔵庫の低い音だけが聞こえます。
目を閉じたまま、さっきの車内の視線を思い出しました。
胸の奥が落ち着かず、肩がこわばりました。
枕元のデジタル時計に目をやると、表示は2:11でした。

次の瞬間、時計が2:12に変わりました。
ほぼ同時に、玄関の方から、微かな音がしました。
金具が触れ合うような、細い鳴り方です。私は起き上がれませんでした。
布団の中で息を止め、耳だけを立てました。
ぶつぶつ、という小声が、廊下側から一瞬だけ濃くなり、
また薄くなりました。
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