覗く女

不幸中の幸い

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第四章

隙間の目

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私はすぐに窓を閉め直せませんでした。
指が動かず、呼吸だけが浅い。
隙間からの冷気が首筋を舐め、金具は掛かっているのに開いている。

台所の灯りは消えたままです。
闇の中で白い布が動いた気がして、窓の隙間に視線をやりました。
そこに女の目がありました。
顔の輪郭も口元も分からないのに、目の位置だけがやけに正確でした。
声を出そうとして喉が閉じる。
女の息がガラスの縁を曇らせ、細く伸びてすぐ消えました。

ぶつぶつが聞こえました。玄関の外ではなく、小窓のすぐ向こう。
距離が、もう言い訳できないところまで詰まっています。
その隙間に、あの二音が落ちました。

「……おに……」

反射みたいに、私の喉も同じ形に動きました。
声にしないつもりなのに、口の中から同じ二音が漏れる。
外のぶつぶつと、自分の息が、ぴたりと重なっていきました。

玄関の方で金属が鳴りました。ドアノブが回る音です。
ガチャ、と一度。
次の瞬間、ガチャガチャガチャ、と乱暴に掻き回す音に変わりました。

「うっ……」

喉から漏れた音だけで、足の力が抜けました。
膝が折れ、台所の床に手をつく。
冷たさが掌に貼り付くのに、身体は言うことをききません。
視線だけが玄関へ飛びました。

小窓の女の視線は、確実に私を捉えていました。
そして嗤っているように見えました。
口元は見えないのに、目だけが細くなり、
私の息の乱れを数えているみたいでした。

私は引き出しを開け、何か掴めるものを探しました。
手に当たったのは帰りに買った豆菓子の袋でした。
「鬼は外」と印刷された小袋が、紙みたいに軽い。
握ったところで何も変わらないのに、私はそれを握りしめました。

ドアノブがまた鳴り、チェーンが小さく震えました。
私は発信画面を開き、指が一度「110」に触れて止まりました。
深夜に警察を呼べば廊下が騒ぎ、明日には管理人にも知られる。
説明できる自信がありませんでした。

玄関の内側に貼られた小さなシールが目に入りました。
入居時に渡された、管理会社の夜間緊急番号です。
指が滑って押し間違え、かけ直す間にもドアノブが鳴りました。
ガチャ、ガチャガチャ。息が吸えないまま、
やっと繋がった相手に住所と部屋番号を告げました。

「玄関の外に誰かがいます。今、ドアノブを」

そこまで言って喉が詰まりました。
小窓のことは言えませんでした。
言った瞬間に、現実が決まってしまう気がしたからです。
通話の向こうの落ち着いた声が続いている間に、
ドアノブの音が止まりました。
廊下の気配が薄くなり、誰かが去る足音が、こつ、こつ、と伸びていきます。
その足音に合わせて小窓のぶつぶつも遠ざかり、女の目がすっと消えました。

私は小袋を開けました。
指先が震えて端が裂けず、無理に破ると豆が床に散りました。
私は拾わず、窓の隙間へ向けて豆を放りました。
「鬼は外」と声に出したのかどうかは覚えていません。
ただ、喉が動いた感覚だけが残っています。

豆は夜の空気に吸い込まれていきました。
窓の隙間はそのままです。
私はようやく指を伸ばし、金具を押し込みました。
カチ、と鳴る。閉まったはずなのに、閉まったという実感がありません。
枕元の時計を見に行くと、表示はまだ2:12のままでした。

通話は切れていませんでした。
「今、近くの者を向かわせています」という声が続きます。
私は「はい」とだけ答え、床に散った豆を見下ろしました。
豆は、こぼれたままではありませんでした。
三粒だけが一直線に寄っていました。
偶然だと分かっているのに、偶然だと受け入れられませんでした。
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