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第3章 過去
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結局、横溝夫妻ーー秀人の父母に促され、踏み込めなかった病室に入る。病院独特の香りに包まれた白いベッドの上で、秀人は穏やかに眠っていた。その顔には、幾分かの生気が戻っている。微かに感じる先程と同じ気配に身震いしながら、周はあまり見慣れない、その寝顔をまじまじと見つめていた。
「あの、お医者様の横溝先生ですよね。」
「ああ。そうだよ。」
琉依の問い掛けに、父は短く応える。その声は思いの外柔らかい。
「君たちのお陰で、息子が助かった。……何とお礼を言ってよいのか……」
父がそう言うと、父母は再度、深々と頭を下げる。
「いえ、私たちは何も……」
周は、自分が何もできていない後ろめたさに、思わず歯を噛み締める。
「本当にありがとうね。」
事情を知らない母は、柔和な笑みを溢す。
「……いえ……」
琉依は静かに、秀人の顔に視線を落とす。
母は、ふと思い出したように、二人に問う。
「そう言えば、この子、学校で元気にしているかしら。」
落ち着いた問い掛けに、周はふと、ついこの間の会話を思い出す。
『かれこれ二年は帰ってないな。』
夏休みの予定を聞いたとき、返ってきた言葉。深く考えないようにはしていたが、周は心のどこかで、とても複雑な家庭環境を想定していた。
「はい、本を読むのが好きみたいで、よく読んでますよ。」
琉依は母に、努めて明るく返す。
「そう……良かった。」
安心したように秀人を見つめる母の顔は、慈愛に満ちている。
周には分からない。何故、秀人が家に帰らないのか。同じ疑問を琉依も抱いているらしく、二人は目配せする。
「……私たちには、中々子供ができなくてね、やっと授かったのが秀人だったんだよ。」
どこか寂しそうに息子の顔を見つめる父は語る。
父は元々有名な外科医として医療に、母は製薬会社の社員として、新薬の開発に日夜励んでいた。
「あの、おとうさん」
「どうした?……あ、すまない、電話だ……」
「おかあさん」
「ごめんね、お仕事に行かなくちゃ。」
忙しない毎日の中で、ようやく授かった子供に、しかしながら夫妻が接することができる時間は多くなかった。
「うん、わかった。」
大人しく、手の掛からない子供だった。秀人は不平を言うこともなく、ただ、笑っていた。しかし、同時に何かに怯えていることもあった。
「ねえ、おかあさん」
忙しい仕事の合間、ようやく作った時間で、母が秀人を公園に連れていった時のこと、秀人が母の袖口を引っ張った。
「あのこ、だあれ?」
不思議そうな顔をしながら息子が指差した先には、誰も、いない。母は思う。きっと、この子には愛情が足りなかったのだと。押し寄せる後悔の波に、思わず涙がこぼれた。
「今まで構ってあげられなくてごめんね……」
そう言って我が子を抱きしめた後、急いで心療内科に連れていくが、特にこれといった異常は見つからなかった。
それからは、何かに怯える素振りも、変なものが見えると言うこともなく、三人の家族は平穏に暮らした。けれど、今までにはない、壁を感じた。
「思春期の男の子にはよくあることなのかしら」
「……そうだな……」
しかし、秀人は学校で問題を起こす訳でも、家庭内で暴力を振るうわけでもない、寧ろこの上なく優秀な息子。違和感を覚えながらも、ただ、淡々と生活する彼を、父母は黙って見守ることにした。
秀人が高校生の頃、突然それは起こった。
「僕は若葉学園大学経済学部の特待生を狙います。」
三者面談で初めて知った進路に、父母は驚く。なぜ相談しないのか問い質しても、
「大学生になったら、もう家には帰りません。」
の一点張り。何が起きたのか、両親も理解できなかった。
『あのこ、だあれ?』
幼少の日、あの公園での純粋な問い掛けーーその日から、父母は極力息子のために時間を取るようにしたつもりだった。忙しい中、参観日にも欠かさず出席した。できるだけ休暇を夫妻で合わせ、遊びに連れて行ったりもした。けれど、その時夫婦は改めて気づく。
ーー過ごした時間の多さに反して、会話は少なかったことに。
自己主張が強くなく、何の要望も言わない息子のためにできることは、家を出て行く際、強引に渡した通帳への仕送りを欠かさないことだけ。それさえ、増えていく一方だった。
ならば、せめて、息子が普通に元気で過ごしていることを願うーーそれが、親としてしてやれる唯一のことなのだと、父母はただ思うしかなかった。
親の心を、子は知らない。
「あの、お医者様の横溝先生ですよね。」
「ああ。そうだよ。」
琉依の問い掛けに、父は短く応える。その声は思いの外柔らかい。
「君たちのお陰で、息子が助かった。……何とお礼を言ってよいのか……」
父がそう言うと、父母は再度、深々と頭を下げる。
「いえ、私たちは何も……」
周は、自分が何もできていない後ろめたさに、思わず歯を噛み締める。
「本当にありがとうね。」
事情を知らない母は、柔和な笑みを溢す。
「……いえ……」
琉依は静かに、秀人の顔に視線を落とす。
母は、ふと思い出したように、二人に問う。
「そう言えば、この子、学校で元気にしているかしら。」
落ち着いた問い掛けに、周はふと、ついこの間の会話を思い出す。
『かれこれ二年は帰ってないな。』
夏休みの予定を聞いたとき、返ってきた言葉。深く考えないようにはしていたが、周は心のどこかで、とても複雑な家庭環境を想定していた。
「はい、本を読むのが好きみたいで、よく読んでますよ。」
琉依は母に、努めて明るく返す。
「そう……良かった。」
安心したように秀人を見つめる母の顔は、慈愛に満ちている。
周には分からない。何故、秀人が家に帰らないのか。同じ疑問を琉依も抱いているらしく、二人は目配せする。
「……私たちには、中々子供ができなくてね、やっと授かったのが秀人だったんだよ。」
どこか寂しそうに息子の顔を見つめる父は語る。
父は元々有名な外科医として医療に、母は製薬会社の社員として、新薬の開発に日夜励んでいた。
「あの、おとうさん」
「どうした?……あ、すまない、電話だ……」
「おかあさん」
「ごめんね、お仕事に行かなくちゃ。」
忙しない毎日の中で、ようやく授かった子供に、しかしながら夫妻が接することができる時間は多くなかった。
「うん、わかった。」
大人しく、手の掛からない子供だった。秀人は不平を言うこともなく、ただ、笑っていた。しかし、同時に何かに怯えていることもあった。
「ねえ、おかあさん」
忙しい仕事の合間、ようやく作った時間で、母が秀人を公園に連れていった時のこと、秀人が母の袖口を引っ張った。
「あのこ、だあれ?」
不思議そうな顔をしながら息子が指差した先には、誰も、いない。母は思う。きっと、この子には愛情が足りなかったのだと。押し寄せる後悔の波に、思わず涙がこぼれた。
「今まで構ってあげられなくてごめんね……」
そう言って我が子を抱きしめた後、急いで心療内科に連れていくが、特にこれといった異常は見つからなかった。
それからは、何かに怯える素振りも、変なものが見えると言うこともなく、三人の家族は平穏に暮らした。けれど、今までにはない、壁を感じた。
「思春期の男の子にはよくあることなのかしら」
「……そうだな……」
しかし、秀人は学校で問題を起こす訳でも、家庭内で暴力を振るうわけでもない、寧ろこの上なく優秀な息子。違和感を覚えながらも、ただ、淡々と生活する彼を、父母は黙って見守ることにした。
秀人が高校生の頃、突然それは起こった。
「僕は若葉学園大学経済学部の特待生を狙います。」
三者面談で初めて知った進路に、父母は驚く。なぜ相談しないのか問い質しても、
「大学生になったら、もう家には帰りません。」
の一点張り。何が起きたのか、両親も理解できなかった。
『あのこ、だあれ?』
幼少の日、あの公園での純粋な問い掛けーーその日から、父母は極力息子のために時間を取るようにしたつもりだった。忙しい中、参観日にも欠かさず出席した。できるだけ休暇を夫妻で合わせ、遊びに連れて行ったりもした。けれど、その時夫婦は改めて気づく。
ーー過ごした時間の多さに反して、会話は少なかったことに。
自己主張が強くなく、何の要望も言わない息子のためにできることは、家を出て行く際、強引に渡した通帳への仕送りを欠かさないことだけ。それさえ、増えていく一方だった。
ならば、せめて、息子が普通に元気で過ごしていることを願うーーそれが、親としてしてやれる唯一のことなのだと、父母はただ思うしかなかった。
親の心を、子は知らない。
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